(四)
役目を終えて伏見に戻ると、徳川屋敷は騒然としていた。わずかな間に、情勢が大きく動き出していたためだ。所領へと戻っていた五大老のひとり、上杉中納言景勝の動向を探るため会津へ遣わされていた伊奈図書頭昭綱より、急ぎの知らせが入ったのである。それは上杉に謀反の動きありというものであった。
二年前に越後より会津へと転封されていた上杉家は、新たな領地の整備に忙殺されていた。また百二十万石に加増されたとはいえ、最上・伊達といった油断ならぬ勢力と境を接していたこともあり、防備態勢の再構築は急務であった。そのため鶴ヶ城の後詰として直江山城守に神指の城を築かせ、街道の整備とともに津川には大軍を渡せるだけの大橋を架ける普請に取り掛かっていた。また武具や矢弾の確保にも動いており、図書頭はそれを戦支度と判じたのである。
家康はすぐさま景勝へ向けて上洛を命じる書状を出し、同時にそれに応じなかった場合に向けての準備に入った。準備とは言うまでもなく、会津への出兵の準備だ。
その最中に伏見へと戻った氏勝は、お亀の方より呼び出しを受けて奥へと向かっていた。何を言われるかはだいたい予想がついたが、正直どうとでもなれとも思ってもいた。間者として捕らえられることまではないにしても、お松と離縁して徳川を去れとくらいは言われるかもしれぬ。もしもそうであれば、粛々と従うつもりであった。
再び半刻ほど待たされたのちに現れたお亀は、先日に比べていっそう顔色も良さそうであった。氏勝への怒りが結果的に、子を亡くした悲しみを薄れさせもしたのであろうか。もしもそうなら、少しはおのれも役に立ったのかもしれぬ。氏勝はそう心の中で皮肉に笑う。
「さて、信濃守」と、お亀は口を開いた。「大坂での首尾は、いかがでございましたか」
「さて……いかがなものであったのでしょう。某にはわかりかねますが、ともあれ客人を迎え入れることはできたようにございます」
されど結局、内匠が何のために家康の元へとやって来たのか、それはわからずじまいだった。それゆえ会談の首尾がいかようなものであったのかも、当然わからない。藤七はいずれわかると言っていたが、はたしてその「いずれ」がいつのことなのかも、だ。
ゆえにお亀に「ならば私も、少しはお役に立てたのでございますね?」と尋ねられても、何と答えて良いのかわからなかった。
されどそう直に言葉を返すこともできず、「みな、お方さまのお力添えあってのこと」と言って、深く頭を下げるしかできなかった。お亀はこちらのそんな様子を、興味なさげな目でじっと見ていたが、やがてふっと表情を和らげる。
「信濃守。そなたには、礼を言わねばなりませぬ」
思いもよらぬ言葉に、氏勝は驚いて顔を上げる。
「礼とは……いったい何ゆえにございましょう」
「もちろん、この私を遠慮なく利用してくれたことにでございますよ。私とて徳川の者。大殿のお役に立てることができたなら、それこそ喜びにございます」
氏勝はしばし驚いて、二の句を継ぐことができずに黙り込んだ。そんなかの者の顔を見て、お亀はしてやったりとばかりに微笑み、そっとおのれの腹に手を当てた。
「実はですね……ここに、また大殿のやや子がいらっしゃいます」
「……お方さま、では?」
「はい。このところ身体の具合がすぐれなかったは、悪阻のせいであったようですね。されどそれも、もうだいぶ治まりました」
口元には優しげな笑みをたたえて、お亀はおのれの腹を愛おしげに撫でた。その表情にふとお松の面影を見た気がして、やはり姉妹なのだなと得心する。
「仙千代君の、生まれ変わりにございましょうか」
ついそんなことが口をついて出たが、お亀はすぐに首を振った。
「さようなことはありません。仙千代は仙千代、この子はこの子にございます。そう思ってやらねば、仙千代が不憫じゃ……この子も、不憫じゃ」
「失礼をお許しください。その通りにございました」
氏勝も即座に失言を認め、詫びた。そんなかの者を見て、お亀はわざとらしくため息をついてみせる。
「まったく、そなたの言葉にはいちいち情がありません。お松の先行きが案じられますね」
そうは言いながらも、お亀はふとくすくすと笑いを漏らした。されどその笑い声は、やはりどこか含むものがあるようにも思えた。
「お方さま……やはり、根に持っていらっしゃいますか?」
「それは持っていますとも。当たり前でございましょう」
お亀は笑みを浮かべたまま頷いた。
「されど、それとこれとはまた別のこと。まあ意趣返しはそのうちいつか、きっちりとさせていただきますが」
そこまで言ったところで笑みを消し、お亀はついと背筋を伸ばした。そうしてまっすぐに氏勝に向き合うと、きっぱりとした声で続ける。
「信濃守。そなたは今後も、遠慮なく私を利用しなされ。お家の為、徳川の為はこの子の為。私は今後も、好きなだけ利用されてやりましょう」
その凛然とした覚悟を目の当たりにして、氏勝は半ば気圧されながらも、「畏まりました」と平伏した。実際に今後そうした機会があるかはわからぬが、その覚悟はしっかりと受け止めねばならぬと思ったのだ。
「ただし同様に、私もそなたを利用させてもらいます。よろしいですね?」
「それはもちろん。某などに、利用できるものがあればでございますが」
「よいのですか、考えもなしにそのようなことを申して……?」
お亀はちらりと意地悪げな目をこちらに向けると、また愛おしげにおのが腹に手を当てた。
「ではこの子が男子であったときは……信濃守、傅役筆頭にはそなたを推させていただきましょうか」
「……は?」
と、氏勝はまた言葉を失った。慥かに仙千代についても、おのれが傅役のひとりには任ぜられていた。されどそれも形ばかりのものであり、実際には顔を合わせることもなく仙千代は他界してしまった。つまり、結局は名目上のものでしかなかったのだ。
「私はこの子には、強き子に育って欲しいのです。強く冷たき心を持った、鬼の子に。そうでなければ、かような世は生きられますまい」
それは仙千代を強き子に産んでやれなかったことへの悔いなのか。しかしだからと言って、次の子を鬼とまで罵った相手に託すというのもまた極端であろう。どうやらこの姉のほうも、妹に劣らぬ変わり者のようであった。
「お戯れは、そのくらいにしてくだされ」
むろんさような言葉も、本気ではないとわかっている。すべては腹の子が男子であった場合の話であるし、仮に男子であったとしても傅を選ぶのは父親である内府家康である。真に受けて気を揉むことはなかろう。
それよりも、今はおのれの身の置き場が失われることのなかったことに安堵すべきであろう。そう思ったのだが、氏勝は本当に安堵しているのか、あるいは落胆しているのか、おのれでもよくわからなかった。




