(二)
されど、その好機はすぐにも訪れた。慶長五年二月、お亀の方の子でもある家康の八男・仙千代が、齢わずか六つでこの世を去ったのである。その葬儀のために主計頭親吉は伏見へと向かい、それに氏勝も随行することとなった。
そのことを伝えると、お松もこのときばかりは沈痛に顔を曇らせた。
「本当なら、そなたが伏見に行けたら良かったのだがな。お方さまも我などより、妹のそなたの顔を見るほうが、余程気慰みになるであろうに」
お松は「……そのようなことは」と首を振る。されどかの女もまた、このようなときに傍にいてやれない口惜しさを覚えているであろう。
「文を書くといい。必ず、お方さまに手ずからお渡ししよう」
「それは……ありがとうございます。すぐにでも書きますゆえ、よろしくお願いいたしまする」
氏勝は内心うしろめたさを覚えながらも、それは押し隠して「……うむ」と頷いた。おのれにとってはこの伏見行きは、まず第一には内匠からの言葉を家康に伝えることが目的になる。真心から姉を案じているお松には悪いが、この機会を利用させてもらうしかなかった。
そうして一行はその夜のうちにも厩橋を発ち、中山道へと出て伏見に向かった。されど十日掛けて京へと辿り着いても、思っていたような機会は訪れなかった。葬儀はあくまでも重臣たちのみで行われる密やかなものであって、氏勝には参列することすら許されなかったのである。
仙千代は長じたのちは、嫡男のいない親吉の養子となることが決まっており、氏勝もまた二十名ほどいる傅役のひとりとされていた。されど生まれつき病弱なため、生地である伏見を離れることができず、これまで顔を合わせることもなかったのだ。ゆえに氏勝が参列を許されなかったのも仕方ないことなのだが、これでは内府家康に声を掛けることすらできない。
どうしたものかと頭を悩ませつつも、氏勝はひとまず屋敷の奥へと向かい、お亀の方を見舞うこととした。
半刻ほど待たされたのち、身繕いを整えたお亀がやって来た。表情は晴れなかったが、それでも頬にはいくらか朱もさして見えた。仙千代の死以来伏せりがちだと聞いていたが、いくらかは恢復してきているらしい。会うのは五年前、お松と祝言を上げたとき以来のことだったが、あまり変わったところはない。
お亀は氏勝が手渡したお松の文に目を通すと、袖でそっと目尻を拭った。内容を慥かめてはいなかったが、文には姉を思う衷心からの言葉が連ねられていることと思われた。
「ここにともに参れればよかったのですが、それも叶わず……申し訳ありませぬ」
「わかっております。こちらには父上もおりますゆえ、心配は要らぬと伝えてくだされ」
この伏見は父である甲斐守宗清のいた正法寺も近く、お亀にとっては故地と言っていい。見舞いに訪れる者も多いことだろう。
「大坂におられた大殿も気に掛けてくださって、葬儀のためにこちらに戻られてからは、毎日のように足を運んでくださります。私のような女子のために、勿体なきことでございます」
内府家康はこの前年の九月、前田肥前守利長・浅野弾正長政らによる暗殺計画が発覚したこともあり、警戒のため大坂へと居を移していた。それと同時に家康は、利長らの背後にいると思われる石田治部少への反撃を開始し、奉行に諮ることなく大名への加増や転封を取り仕切りはじめた。それは露骨なまでの多数派工作で、太閤恩顧の諸大名も次々と徳川方へと取り込まれていっていた。
されど依然として宇喜多・上杉・毛利といった反徳川方の勢力も根強く、緊張はいっそう高まっていた。この仙千代の葬儀は、そんな情勢の中で執り行われていたのである。
「では、今宵も大殿はいらっしゃりますでしょうか?」
「おそらくは……されど明日にはまた、大坂へ戻られるとのことでございます」
そうして氏勝は気付いた。おのれが内府へ言伝をできる機会は今このとき、目の前の女性を通じる以外にはないのだということに。されど子を亡くし心を痛めている今、さようなことを頼んでよいものかどうか。それはおのれのために、また謀のためにこの女性を利用することに他ならない。
「信濃守……それが、いかがしましたか?」
それでも氏勝は、意を決して深く頭を下げた。そうして声を落とし、抑揚のない声で続ける。
「ではお方さま、内府さまへのお言伝を願えますでしょうか」
「言伝……とな?」
「さよう。余人は通せぬことゆえ、必ず内府さまへ直々にお伝えいただきたく存じます」
お亀からの返事はなかった。されどじっとおのれに視線が注がれていることは、顔を上げずとも氏勝にはわかっていた。
「藪の内より客人来たれり。膳の支度をお願いいたしまする。ただ、それのみにて」
「藪の内」は言うまでもなく藪内匠のことである。それだけ伝えれば、家康はきっと察するに違いない。同時に氏勝が今でも中村家と通じていることも露見するであろうが、それも仕方あるまい。
あるいはそのことは、とうに知られていることかもしれぬ。そもそもが中村家から引き抜かれたときから、ある程度は察していただろう。本当に内匠が徳川へ寝返ろうとしているのであれば、そうした窓口とするためにあえて泳がされていたのか。
了解も拒絶も、依然としてないままだった。そうして氏勝は頭を上げ、正面から向き直る。お亀は面差しから表情をなくし、ただじっとこちらを……いや、氏勝の手前の何もない中空を凝視していた。
「……信濃守」ややあって、お亀はようやく口を開いた。「今日の訪いは、それを私に頼むためであったのですか?」
「包み隠さず申せば、さように」
氏勝は率直にそう答えた。お亀は表情を変えぬままそっと息をつくと、ゆっくり目を閉じた。やがてその唇が、笑うように緩む。
「わかりました。その旨、大殿にお伝えいたしましょう」
再び頭を垂れて礼を言うと、その髷に向けて再び声が掛けられた。
「鬼じゃな、信濃守。天晴れ、武人の鑑よ」
その言葉には、何も返答することができなかった。顔は笑んでいても、声は氷のように冷たく尖っているのがわかっていたからであった。それも仕方あるまい。すべては覚悟の上でしたことだ。




