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その夜、氏勝は足倉をあとにした。時慶は最後に餞別とばかりに、みずから黄櫨を切り出して仕上げたという愛用の大弓を与えてくれた。そうして治兵衛らにともなわれ、国境を越えてるため山道を進んだ。
されど氏勝の胸の中には、どうしても得心できぬ思いが渦巻いていた。何ゆえ我らがかような目に遭わねばならぬのだ。いったい我らが何をしたというのか。その思いは言葉にできぬぶん、身の裡で大きく膨らんでゆく。そうしてついに、耐えかねて踵を返した。そうして治兵衛らを振り切り、来た道を必死で駆け戻った。
足倉を通り過ぎ、山に入って荻町を迂回し、向かう先は帰雲であった。山崩れで道が塞がれ、馬は進めなかったとしても、おのが足であればどうにか越えてゆくこともできるはず。そうして殿に苦境を伝え、助力を乞うのだ。それしか、父を救う方策はないと思った。
道中で一度、具足で身を固めた武者たちとすれ違い、どうにか身を隠してやり過ごした。旗印は慥かに金森のものであり、治兵衛の言っていた通り三百ほどはいそうだった。されどいまだ続く揺り返しを恐れるためか、あるいは一揆勢の伏兵を警戒しているのか、行軍は緩やかだ。それにもしかしたら父の避難先が足倉であるとは、まだ突き止められていないのかもしれない。
であれば、まだ時はある。間もなく雪も降りはじめ、満足に行軍することも適わなくなるであろう。それで春まで時を稼げれば、こちらも態勢を整えることができる。
そんなかすかな望みを抱き、氏勝はなおも山中を進んだ。その脳裏には、孫次郎氏行の口惜しげに歪む横顔が浮かんでいた。
若殿、半三郎が愚かでございました。息を切らしながらも、かすれた声でそうつぶやいた。すべて若殿が正しかったのです。誇りを捨て、屈辱に耐えて生き延びても、結局はこうして力尽くですべてを奪われる。ならばたとえ滅ぶとわかっていても、戦うべきでございました。
きっとまだ遅くはありません。もう一度、ともに戦いましょう。どうかご案じめさるな、この半三郎が若殿の盾になりまする。若殿に迫りくる敵は、この大弓ですべて射倒してみせまする。だからどうか、若殿……
そうして倒れかけた巨木の根を乗り越えようとして、氏勝は無様に足を滑らせた。遮二無二つかんだ枝もあっさりと折れ、そのまま斜面を転がり落ちる。いつの間にか弓も取り落とし、あちこちに身体をぶつけながら、たっぷり一町近くは転がり、滑り、大岩に強かに背をぶつけてようやく止まった。
その衝撃で、氏勝はしばらく息もできなかった。岸に打ち上げられた魚のようにぱくぱくと口を喘がせ、涙が滲む目を見開かせる。その目に、ぼやけた山の稜線が映っていた。どこか見覚えがあるような、それでも見慣れぬその姿。稜線の形は、慥かにあの帰雲山だ。されどかの山は、あんな無惨な禿山ではなかったはず。
やがてその目がしっかりと焦点を結び、眼前の像をはっきりと見定める。それは慥かに、あの帰雲山だった。されど、それが真っぷたつに割れている。神なる山が大きく崩れて、褐色の山肌を剥き出しにしている。それはまさしく神の骸とでも呼ぶべき、決してあってはならぬ光景であった。
「あ……ああ……」
氏勝はよろよろと身体を起こし、身を乗り出して眼下を見下ろす。そこには、何もなかった。ただ、あるはずのない湖があるだけだった。濁った水をいっぱいに湛え、ゆっくりと渦を巻きながら、見渡す限りに広がっている。それ以外には何も見えなかった。それでも、山の形でわかる。ここは間違いなく、帰雲の城と城下町があった場所であると。
「……莫迦な。そんな……」
そして氏勝の聡すぎる頭はまたしても、何が起きたのかを瞬時に覚っていた。帰雲山の崩落があの地震によって起こったものであるならば。膨大な土砂が城を押し流し、集落を埋め川を堰き止めて、谷間の集落を巨大な湖に変えたというのであれば。それはおそらく一瞬のことで、おそらくは誰ひとり、まことに誰ひとりとして、逃れることなどできはしなかったであろうと。
我らが殿も。それを支える家老らも。共に過ごした友らも。家族のように接してくれた女御衆も。話をせがめば快く他国の戦のことを教えてくれた商人たちも。城主の子だからといって畏まらず、気さくに声を掛けてくれた町の衆たちも。そして。
「若殿……若殿、ああ……あ、あああ」
皆。皆が皆。誰もが皆、重く冷たい土塊の下。それを覆い尽くした、この水の底。
「そんな……そんな、莫迦なことが……あってはならぬ。あって、たまるか」
言いつつも、本当は氏勝も気付いていた。気付いていて、気付かぬふりをしていた。もしも帰雲が健在ならば、金森とてあのような暴挙に出ることはなかったであろうことに。
そのとき、無情にも空から白い雪が舞い落ちてきた。まるで真昼の蛍のように。無数の魂が、風に踊りながら彼方へと溶けてゆくように。




