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尾張名古屋の夢をみる  作者: 神尾宥人
二. 飛騨白川は夢のなか
19/99

****

 その夜、氏勝は足倉をあとにした。時慶は最後に餞別とばかりに、みずから黄櫨(はしばみ)を切り出して仕上げたという愛用の大弓を与えてくれた。そうして治兵衛らにともなわれ、国境を越えてるため山道を進んだ。

 されど氏勝の胸の中には、どうしても得心できぬ思いが渦巻いていた。何ゆえ我らがかような目に遭わねばならぬのだ。いったい我らが何をしたというのか。その思いは言葉にできぬぶん、身の裡で大きく膨らんでゆく。そうしてついに、耐えかねて踵を返した。そうして治兵衛らを振り切り、来た道を必死で駆け戻った。

 足倉を通り過ぎ、山に入って荻町を迂回し、向かう先は帰雲であった。山崩れで道が塞がれ、馬は進めなかったとしても、おのが足であればどうにか越えてゆくこともできるはず。そうして殿に苦境を伝え、助力を乞うのだ。それしか、父を救う方策はないと思った。

 道中で一度、具足で身を固めた武者たちとすれ違い、どうにか身を隠してやり過ごした。旗印は慥かに金森のものであり、治兵衛の言っていた通り三百ほどはいそうだった。されどいまだ続く揺り返しを恐れるためか、あるいは一揆勢の伏兵を警戒しているのか、行軍は緩やかだ。それにもしかしたら父の避難先が足倉であるとは、まだ突き止められていないのかもしれない。

 であれば、まだ時はある。間もなく雪も降りはじめ、満足に行軍することも適わなくなるであろう。それで春まで時を稼げれば、こちらも態勢を整えることができる。

 そんなかすかな望みを抱き、氏勝はなおも山中を進んだ。その脳裏には、孫次郎氏行の口惜しげに歪む横顔が浮かんでいた。

 若殿、半三郎が愚かでございました。息を切らしながらも、かすれた声でそうつぶやいた。すべて若殿が正しかったのです。誇りを捨て、屈辱に耐えて生き延びても、結局はこうして力尽くですべてを奪われる。ならばたとえ滅ぶとわかっていても、戦うべきでございました。

 きっとまだ遅くはありません。もう一度、ともに戦いましょう。どうかご案じめさるな、この半三郎が若殿の盾になりまする。若殿に迫りくる敵は、この大弓ですべて射倒してみせまする。だからどうか、若殿……

 そうして倒れかけた巨木の根を乗り越えようとして、氏勝は無様に足を滑らせた。遮二無二つかんだ枝もあっさりと折れ、そのまま斜面を転がり落ちる。いつの間にか弓も取り落とし、あちこちに身体をぶつけながら、たっぷり一町近くは転がり、滑り、大岩に強かに背をぶつけてようやく止まった。

 その衝撃で、氏勝はしばらく息もできなかった。岸に打ち上げられた魚のようにぱくぱくと口を喘がせ、涙が滲む目を見開かせる。その目に、ぼやけた山の稜線が映っていた。どこか見覚えがあるような、それでも見慣れぬその姿。稜線の形は、慥かにあの帰雲山だ。されどかの山は、あんな無惨な禿山ではなかったはず。

 やがてその目がしっかりと焦点を結び、眼前の像をはっきりと見定める。それは慥かに、あの帰雲山だった。されど、それが真っぷたつに割れている。神なる山が大きく崩れて、褐色の山肌を剥き出しにしている。それはまさしく神の(むくろ)とでも呼ぶべき、決してあってはならぬ光景であった。

「あ……ああ……」

 氏勝はよろよろと身体を起こし、身を乗り出して眼下を見下ろす。そこには、何もなかった。ただ、あるはずのない湖があるだけだった。濁った水をいっぱいに湛え、ゆっくりと渦を巻きながら、見渡す限りに広がっている。それ以外には何も見えなかった。それでも、山の形でわかる。ここは間違いなく、帰雲の城と城下町があった場所であると。

「……莫迦な。そんな……」

 そして氏勝の聡すぎる頭はまたしても、何が起きたのかを瞬時に覚っていた。帰雲山の崩落があの地震によって起こったものであるならば。膨大な土砂が城を押し流し、集落を埋め川を堰き止めて、谷間の集落を巨大な湖に変えたというのであれば。それはおそらく一瞬のことで、おそらくは誰ひとり、まことに誰ひとりとして、逃れることなどできはしなかったであろうと。

 我らが殿も。それを支える家老らも。共に過ごした友らも。家族のように接してくれた女御衆も。話をせがめば快く他国の戦のことを教えてくれた商人たちも。城主の子だからといって畏まらず、気さくに声を掛けてくれた町の衆たちも。そして。

「若殿……若殿、ああ……あ、あああ」

 皆。皆が皆。誰もが皆、重く冷たい土塊の下。それを覆い尽くした、この水の底。

「そんな……そんな、莫迦なことが……あってはならぬ。あって、たまるか」

 言いつつも、本当は氏勝も気付いていた。気付いていて、気付かぬふりをしていた。もしも帰雲が健在ならば、金森とてあのような暴挙に出ることはなかったであろうことに。

 そのとき、無情にも空から白い雪が舞い落ちてきた。まるで真昼の蛍のように。無数の魂が、風に踊りながら彼方へと溶けてゆくように。

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