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天正十三年、十一月。
空気はきんと冷たく澄み渡り、城の楼に立てば彼方の山の稜線までがくっきりと見通すことができていた。その頂付近は、すっかり白く雪で覆われている。間もなくこの飛騨白川郷も深い雪に覆われ、身動きも取れなくなるであろう。
「ご覧ください、若殿。あちらの山は、もう真っ白でございます。今年は雪深い冬になりそうですな」
山下半三郎氏勝は、そう言って聳え立つ山嶺を指差した。されど傍らの少年は、唇をきつく引き結んだまま俯いている。昨夜この地に帰ってきて以来、ずっとそうだった。
「……若殿?」
と、氏勝はまた呼びかける。そうしてようやく、少年は重い口を開いた。
「半三郎……おぬしはよう笑えるものだな。この地はもう、我らのものではないのだぞ」
「さようなことはございません。この帰雲の地は変わらず我らのもの。城も、我らの城でございまする」
「されど我らは金森ごときに膝を屈し、軍門に下ったのではないか。ならばすべては法印がものであろう?」
少年の名は、内ヶ島孫次郎氏行。この神聖なる帰雲山の麓に建つ城を本拠として、白川の地を治めてきた内ヶ島家の当主・内ヶ島兵庫頭氏理の嫡男である。齢はこのとき十四。まだ身体は華奢で、上背も四つ齢上の氏勝より一尺以上低い。
「なのに何ゆえ、みな喜んでおるのだ。その上宴の用意だと……何がための宴だというのだ」
「めでたいことでございましょう。この一年、我らはまさに嵐の中におりました。それを乗り切って、どうにか内ヶ島の家と領地を守り切ったのです」
そう、内ヶ島家はこの一年というもの、まさに風雲の只中にあった。発端は、同盟を結んでいた富山城城主・佐々内蔵助成政が、突如前田家が守る越前末森城へと攻め込んだことであった。
時はまさに天下一統を目前とした関白羽柴秀吉に対して、日の本中で一斉に反乱の火の手が上がっていたさなかである。織田三介信雄の呼び掛けに応じて、三河の徳川が、四国の長曾我部が、さらに紀州の雑賀衆が反旗を翻した。そして長久手で羽柴勢が徳川に大敗を喫したことで、反乱側はさらに勢いづいた。内蔵助成政も最後まで逡巡したのであろう。それでもとうとう亡君の遺児である信雄に応じ、兵を挙げたのだった。
そうして同盟を組む内ヶ島家も、佐々への援軍として帰雲を発ち、五百の兵を率いて越中へと向かった。されどそうする間に関白秀吉は徳川と和解し、紀州と四国を瞬く間に制圧してしまった。そして最後に残った越中に、実に十万を超える大軍を送り込んできたのである。
次いで飛騨には、金森法印素玄を総大将とする三千の羽柴勢が侵攻してくる。そうして氏理の不在の間に、南の守りの要であった向牧戸城を落とされてしまった。法印の軍勢はその勢いのまま飛騨を席巻し、事実上の国主であった三木家を制圧し、当主の中納言自綱を京へと追放した。
三木が滅び、佐々も風前の灯火となると、内ヶ島家が生き残る道は関白の軍門に降るしかなかった。かくして当主氏理はみずから金森法印が元に参じ、もはや戦う意思がないことを伝えた。降伏は受け入れられ、内ヶ島は飛騨の本領をほぼ安堵される代わりに、今後は金森の配下として従うことになったのだ。
されど、それを良しとしない者もまだ多かった。この氏行もまたそのひとりだ。越中上見城での軍議では、家中が降伏やむなしと傾く中で、必死に徹底抗戦を訴えたという。恥辱を受けて生き残るくらいなら、武士らしく潔く滅んだ方が良い、と。それはいかにも若武者らしい一途さで、ついには口惜しさあまりに滂沱の涙まで流したそうだ。
むろん、内心では誰もが同じ思いであろう。この内ヶ島家は峻厳な峰に隔絶された山奥であったという幸運こそあれ、この乱世にあって四代にわたり、独立独歩を貫いてきたのだ。ここで他家の軍門に降るのが口惜しくない者などいない。されど家を守り家臣を守り、また領民の命を守るためには、苦渋の決断であろうとも受け入れるしかなかった。
「若殿、堪えなさいませ」
氏勝はいつものように、優しく穏やかに諭す。かの者はこれまで十四年間、こうしていつでもともにあり、この将来の当主を導いてきた。
「若殿もいずれわかります。殿のあとを継いで、この帰雲の地を治める頃になれば……きっと」
「……何がわかると言うのだ?」
「今の殿のお気持ちがです。おのれの意思だけではどうにもならず、屈辱に耐え、口惜しさを噛み殺し、笑わなければならないお気持ちが」
そうして一歩踏み出し、眼下に広がる城下を見下ろした。山に囲まれた狭間の地を南北に川が流れ、天に向かって高く突き出した独特の屋根が連なっている。住まう民はせいぜいが千にも満たないが、それでも領内ではもっとも賑わう地であった。
「それにまだ、戦の決着はついていない。某はそう思うのですよ、若殿」
「終わっていない……?」
「さよう」と、氏勝は頷いた。「おそらく、関白はこのまま日の本を一統することでしょう。さすれば戦に明け暮れた乱世も、いよいよ終わりまする。されどそのあとは、また別の戦がはじまるのです」
それまではあまり興味なさげに聞いていた氏行が、そろそろと顔を上げた。これもいつものこと。いくら塞ぎ込んでいても、兄とも慕っているこの男の話には耳を傾けずにはいられないのだ。
そのために城下の商人たちを足繁く訪ね、他国の戦の話、高名な武将の噂などを仕入れては教え聞かせてきた。目を輝かせながらそれに聞き惚れ、続く話、新しい話をせがんでくる若き主の顔を見たい一心で。それこそが、氏勝にとっては何よりの喜びであったのだ。
「聞くところによれば関白は商人たちを優遇し、商いをいっそう活発にすることによって、長き戦で荒れ果てたこの日の本を立て直そうとしておるとのこと。ゆえにこれよりは、いかに領民を潤し、おのが国を豊かにするかを競うことになるでしょう。それこそが新しき戦、我らはそれに勝てば良いのです」
きっぱりとそう言い切って、氏勝は外に向けて手を広げた。氏行もついつられて、その向こうに広がる城下の集落へ目を向ける。
「幸いにして、我らは恵まれております。この地で採れる良質な金、銀、硝石。それを武器にして、商人たちをさらに呼び込むことができます。そのためには街道を整備しましょう。庄川の川底を浚い、堤を固め、もっと大きな船が遡って来れるようにしましょう。越中、越前、さらに美濃との往来を活発にして、それぞれの産物が集まる市を作るのです」
声にも思わず、熱が籠もって来る。言っているうちに、氏勝の目にも賑やかに栄える街並みが見えてくるようであった。この山間の土地に、大きな街道が通り、荷車が行き交い、物売りたちの威勢のいい掛け声がこだまする。大きな商家が並び、いっぱいに荷を積んだ高瀬舟が列をなして川を下ってゆく。
「どうか、この半三郎にお任せくださいませ。若殿がために、ここに新たな都を築いて御覧に入れましょう。京や大坂にだって負けぬ、若殿のための都でございます。きっと誰もが羨み、夢に見、遠路を押してやって来るでしょう。奥州からも、九州からも、あるいは唐土からも」
そこまで大風呂敷を広げたところで、ついに氏行はくすりと笑った。「夢語りが過ぎるぞ、半三郎」
「できぬとお思いですか、若殿。この半三郎が言うのですぞ。齢三つにして論語を諳んじ、神童と謳われたこの某が」
「さようなことを、おのれで言うな」
「他に誰も聞いてはおりませぬ。若殿にだけ言うのです。この半三郎に、出来ぬことなどありませぬ」
氏行は妙に大人びた表情で、ふんと鼻を鳴らすように笑った。そうして目を遠くの山並みに向け、さらにその向こうを見通そうとするように細めた。
「そもそも京の大坂のと言われても、どちらもこの目で見たことなどないわ。どれだけのものかもわからぬ」
「もちろん、某もありませぬ。されどわかるのです」
そう愚痴るような口を利きながらも、その気色はいくぶん柔らかくなったように見えた。どうやら少しは機嫌を直してくれたらしい。そうほっと息をついたとき、不意に袖が何かに引かれるのを感じた。見ると、氏行のまだあまり節張っていないつるりとした手が、きつく袖を掴んでいた。
「……約定ぞ」
まるで涙を堪えるかのような声で、氏行が言った。
「それを叶えてみせるまでは、我とともにいるのだ。いいな、半三郎?」
「もちろんでございます、若殿」
氏勝は静かに頭を垂れて、そう答えた。
「されど今ばかりはどうかご容赦。某はこれより荻町に戻らねばなりませぬ」
「何だ、今約定をしたばかりではないか!」
氏行が拗ねたように言った。そうして逃がさぬとばかりに、袖を掴んだ手に力が籠もる。
「ですが仕方ないのです。どうやら先日の地震で、庄川の堤が一部崩れてしまったようで、普請の様子を見に行かねばなりません」
「そんなもの、他の者に行かせれば良い!」
「ですがあの堤は、某が父から任された最初のお役目だったのです。ですからその修繕も、おのれでやりたいのですよ。これもいつか、我らの都を築くための一歩にございます。明後日の宴までには、必ず戻ってきますゆえ」
氏勝はそう言って、どうにか将来の主を宥めようとする。されどそれからたっぷり半刻ばかり、氏行は袖を離そうとはしなかった。




