(十二)
駿府へ戻ってより半年ほどが経った、ある夜のことである。氏勝は呼び出しを受けて、藪内匠正照の屋敷を急ぎ訪れていた。そうして告げられた唐突な話を、半ば呆気に取られながら聞いた。
「婚儀……で、ございますか。某に?」
「うむ。相手は元石清水八幡宮司、志水甲斐守が二女。名はお松というらしい」
「と……申されますと、まさか……」
志水甲斐守という名には聞き覚えがあった。されど、それはこの中村の家中の者ではない。
「さよう。この話、徳川よりの内密な申し出である。そのお松という者の姉は、徳川内府の側女であるお亀の方」
そのお亀の方は前年、家康の八男となる仙千代を生んでいた。つまりもし話を受ければ、氏勝はその男子の叔父になるということだ。
「莫迦な……何ゆえ、某ごときにさような話が?」
肥前名護屋での出来事は、この内匠にだけは包み隠さず伝えてあった。ゆえ、氏勝が内府家康と対面したことは知っている。されどそれがかような話に発展するとは思わなかったようで、内匠とていまだ戸惑いを隠せぬ様子であった。
「むろん、お受けすることなどできませぬ。某は中村家の者ゆえ」
氏勝は迷わず言い切っていた。この中村家は、徳川の関東入りにともなって駿府へ移封された。それはもしも徳川が大阪に向けて兵を動かしたときは、盾となって食い止める役目にあるということだ。豊臣家にとって潜在的な敵である徳川は、この中村家にとってもやはり敵なのである。では何ゆえ徳川は、その敵の家中にかような話を持ち掛けてきたのか。
「殿はこの話、受けよと申されておる」
「は……何ゆえでございまするか?」
内匠はそれには答えず、抑揚のない声で淡々と続ける。そしてその言葉に、氏勝はさらに耳を疑った。
「ただしかような婚儀、表立っては受けるわけにゆかぬ。ゆえ、おぬしにはこの中村家より出奔し、徳川へ寝返ってもらうことになる」
「某にこの家を捨てよと……それは、某など中村の家には不要ということでございましょうか」
内匠の突然の言葉に、思いのほか傷付いているおのれがいた。そして傷付いていることに驚いてもいた。正直なところ、氏勝としてはさほどこの中村式部少輔家に愛着を覚えているつもりはなかったからだ。
そもそもがあてどなく諸国を放浪し、食い詰めていよいよ行き詰まっていたときに、偶々声を掛けられて拾われただけの家だった。その日の飯にありつければそれでいいと思っていたところが、小田原でいくらか役に立てたのか、以後も身を置くことを許された。とはいえ所詮は一兵卒、居心地が悪くなればいつでも去るつもりでいたはずだった。
ただし何かにつけ目をかけてくれるこの藪内匠という男には、いくばくかは恩義めいたものも感じてはいた。とりあえず今日までこの中村家に身を置いていた理由も、強いて探せばそのくらいだ。もしかしたらその言葉が、他でもないこの内匠の口から出てきたことを、おのれは残念に思っているのであろうか。
されど内匠は「案ずるな」と、小さく首を振って続けた。「出奔と言っても、むろん形ばかりじゃ。こちらからは、定期的におぬしへ遣いを送る。おぬしも徳川の様子を、知り得る限り伝えよ」
そこまで言われたところで、ようやく氏勝にも話が見えてきた。それはつまり、おのれに間者働きをせよということである。
内匠はようやく険しい表情を和らげた。そうしていっそう声を落とし、諭すような口調で言った。
「のう半三郎、おぬしとてわかっておるであろう。武家の婚儀とは、すべてが政にして謀よ。ならばこれもお役目と心得よ」
そして穏やかな表情のまま、ずいと間を詰めて目を覗き込んでくる。その瞳に籠もった熱に氏勝は気圧されたが、それでもどうにか身を引かずに堪えた。
「わしはおぬしのことを見込んでおる。ただ武辺ばかりの男ではない、とな。頼母に預けて、肥前名護屋まで送り出したのもそれゆえじゃ。そして見込んだ通り、大きな魚を釣り上げて来おった」
「某にも政を……謀を学べと?」
「さよう、ここから先は獣の道。常に目を凝らし、耳を欹てよ。されど見たものを見た通り、聞いたものをその言葉の通りに信じてはならぬ。智を巡らせ、裏の裏を読むのじゃ」
以前、父より似たようなことを言われたことはあった。されどあれは、まだ齢五つか六つの頃だ。物覚えが早かった氏勝を見込んでの説諭だったのかもしれないが、そのときはさすがに意味を飲み込めなかったものだ。今ならば、おぼろげには理解できる。
さらに、その父が受けた仕打ちを思い出す。この世は嘘と口実、騙し討ちや裏切りに満ちている。いまだ乱世は終わっていないのだ。されど。
「……某に、出来ましょうや?」
「出来ると見込んでおるゆえ、言うておる。出来ねば、野に骸を晒すのみよ」
内匠の屋敷を出ると、鬱蒼とした木立の中の夜道をひとり歩いた。ふと足を止めて頭上を仰ぎ見ても、木々の合間には月も星も見えなかった。おそらくは重く厚い雲でも垂れ込めているのであろう。それはまるで見通すことのできない、おのれの行く末そのもののようにも思えた。
おのれはいったい何をしておるのだ。もはや何百回、何千回繰り返したかもわからぬ問いを、また心の裡に投げかける。
童の頃は、おのれは飛騨の山の中から出ることなく、その生を終えるのだと思っていた。そのことに不服もなかった。それがどういうわけか故地を追われ、京へ、大坂へ、近江へと流れ、兵として小田原へ赴き、肥前名護屋くんだりまで送られたかと思えば、今度は嫁を貰うため江戸へ向かえという。いったいこれは何だと問いたくなるのも無理はなかろう。天の戯れにしても、いささか度が過ぎている。
いったいおのれは何をしておるのか。そしておのれはどうなってしまうのか。見上げた夜空に問いかけたところで、さあっと枝葉を揺らして風が通り過ぎた。その風は立ち尽くす氏勝の身の裡も吹き抜けて、澱んでいた不安を霧のように散らしてゆく。あとに残ったのは、ただ冷え冷えと醒めた心だけだった。
べつにどうもなりはしない。おのれの周りで世がどう動こうと、所詮おのれには関わりなきこと。ならばなるように任せればよい。どうせおのれごときには、何も変えられはしないのだ。
「そうでございました……若殿」
氏勝は小さく息をつき、身の裡に残った最後の熱を吐き出すと、またゆっくりと歩き出した。




