(八)
つい先ほどまで不気味な静けさに包まれていた徳川陣前は、まるで沸騰したかのように騒然としている。しかしそれは、忠勝らが恐れていたような沸き立ちかたではなかった。
「明兵だと。ふざけやがって!」
「来るなら来やがれ。返り討ちにしてくれるわ!」
突然の、それも未知の敵の襲来に、怯えるような者はいなかった。むしろ溜め込んでいた怒りを遠慮なくぶつけられる相手の登場に、歓喜しているようにさえ感じられた。
もちろん忠勝らには大陸の戦況も耳に入っているため、かような風聞に踊らされるようなことはなかった。慥かに渡海勢は苦戦しているが、明の側にも少なからぬ損害を与えている。大国・明といえど、逆に日の本へ攻め込んでくるような余裕はないはずである。ただそこは歴戦の猛者、この大法螺を広めている者たちの意図も即座に理解していた。何者かは知らぬが、面白いことをするものだと。
「ここはひとつ……乗せられてやるかの」
忠勝はそう康政と頷き合うと、兵たちに向き直った。
「明兵の襲来じゃ。急ぎ殿にお伝えせよ!」
すぐそばに控えていた小者が、「ははっ!」と答えて駆け出してゆく。冷静な我らが殿であれば、きっと知らせを聞いて察するであろう。ことさらに大事にすることもあるまい。
「我らはここで、敵先鋒を迎え討つ。隊列組めい、鉄砲隊前へ!」
兵たちの顔が一斉に引き締まり、目の色が変わった。そうして見違えたような機敏な動きで、即座に竹束を並べ、そのうしろに三段構えの列を組む。
さらに戰支度をしていなかった者たちは、おのれの具足を身に着けるために陣へと走ってゆく。それは前田方も同じだった。まるで他家の将である忠勝の号令に応えたかのように、急ぎ自陣へと駆け戻っていった。
しかして四半刻も経たぬうちに、具足に身を固めた兵たちは海を見下ろす崖の上に集結していた。その数、徳川勢五千。前田勢三千。前田陣の裏手に出向いていた服部半蔵の手勢も、いつの間にかそれに合流していた。
「鉄砲隊、構えぇっ!」
その下知とともに、千を超える射手が銃口を上げた。そうして海上の篝火に向けて筒先を並べる。されど篝火はまだ遠く、こちらへ向かってくる様子もなかった。
その代わり、一艘の小舟がゆったりと、漂うように近付いてくるのが見えた。舳先には身の丈の倍はありそうな大弓を携えた武者が、ひとり立っている。
千の筒先が、一斉にその小舟へと向けられた。されど武者は怯む気配もなく、悠然と崖上の軍勢を眺め渡している。太々しいものよ、と忠勝の口元に笑みが浮かぶ。されどすぐに引き締め、また声を張り上げた。
「何やつじゃ、名乗れいっ!」
「我は前田家中、前田又次郎が家来。小野伝右衛門なり」
穏やかではあるがよく通る声で、船上の武者が答えてくる。その表情までは見えないが、おそらくは不敵に笑っていることであろう。
「さて徳川家の皆々方、我が家中の同輩方よ。余興は愉しんでいただけたであろうか?」
「余興、とな?」
「さよう。あちらに並んでいる火は、ただの魚釣りの小舟よ。ここらの漁師はああやって、夜に松明を焚きながら漁をするとのこと。ご存知であったか?」
それは忠勝もわかっていた。大船が並んでいるにしては、篝火の位置が低い。されどここはまんまと騙された芝居をするべきであろう。
「悪巫山戯にも程があろう。いったいこれは何の真似じゃ?」
「何、家中の者が愉しげなことをしているようであったのでな。ちと、花を添えようと思ったまでよ。愉しんでいただけたのであれば、結構。実に結構!」
船上の武者はそう答えると、舟を漕いでいた背後の男に合図を送った。そちらはいかにも粗末な身形の、見るからに近郷の漁師と見える老人だった。
「では皆々方、また喧嘩をしにでも戻られよ。我はこれまでにて、然らば、然らば!」
小舟はぐるりと小さな円を描き、再び沖へと遠ざかりはじめた。ずっと呆気に取られてはいたが、ようやく我に返ったか、居並んだ兵たちが悪罵の声を上げはじめる。されどそんな声さえ風雅な虫の音とばかりに、悠然と舳先に立ち続けていた。
すると最後にまた弓を構えると、高く中空に向かってそれを射放った。ぴりりりりっ、とこれまでになく派手な音を立てながら、鏑矢が頭上を行き過ぎてゆく。こちらとの距離は三、四町はあろうに。いったいどんな強弓であるか、と忠勝は素直に感嘆する。
そうして再び沖に目を戻すと、松明を海に投げ捨てたのか、小舟は闇に溶けたように見えなくなっていた。忠勝はまた小さく笑うと、兵たちを振り返って言った。
「さて、おぬしらはどうする。戻ってまたつまらぬ喧嘩を続けるか。前田の者どもはどうじゃ?」
その問いに、兵たちは戸惑ったように顔を見合わせた。それは前田勢も同じのようだった。どの顔もすっかり毒気が抜けて、妙にさばさばとした表情に戻っている。まるで悪い夢から醒めたかのように。




