(七)
やがて日が沈み、あたりが夜の帳に包まれても、なお騒動は収まらなかった。それでもさすがに悪罵をぶつけ合っていた者たちは疲れたのか、次第に言葉少なになり、無言での睨み合いになっていった。
本多平八郎忠勝は、この推移をむしろまずいと感じていた。この静けさは決して鎮静化ではなく、怒鳴り罵り合うことでどうにか発散していたものを、裡に溜め込みはじめたということだったからだ。静かになったぶん、緊張感はいっそう高まってさえいた。
疲労が却って冷静な判断力を失わせ、当初の目的さえ忘れさせ、ただ腹の底のどす黒い怒りと憎しみだけを膨らませてゆく。その末にはじまる戦ほど凄惨なものになるということを、経験豊かな将たちなら誰もが知っていた。
こうなったらもう、やるしかないか。忠勝はそう腹を決める。どの道、一度はぶつからねば収まらぬのであろう。だったらもうぶつかってしまえばいい。ただしその場合も、あくまで身ひとつで、だ。かの者が諸肌脱いで、槍も持たずに飛び出してきたのは、そうした思惑もあってのことだった。どうしようもなくぶつかることになっても、せめて素手の殴り合いに留めるため。将が裸で殴り合い、掴み合っている以上は、兵たちも刀を抜くことはできまい。
「……小平太」
と、忠勝は傍らの榊原式部康政を呼んだ。言葉は交わさずとも、考えていることはお互いにわかっているはずであった。果たして康政も、無言のまま頷き返してくる。そうして揃って、ゆっくりと兵たちの間に割って入って行った。
そのときだった。ぴりぴりぴりっという尾を引くような音を立てて、頭上を何かが通り過ぎて行った。鳥ではない。されど忠勝には、慥かに聞き覚えのある音だった。
「鏑矢……いや、あれは蟇目鏑矢か。いったい誰が……」
鏑矢とはその名の通り、鏃の代わりに円筒形の鏑と呼ばれる器具を付けて放たれる矢のことだ。空を切り進む際に鋭く高い音を立てるため、かつては合戦開始の合図などに使われていた。されど昨今は鉄砲にとって代わり、もう廃れて久しい。
まして蟇目鏑矢とはその中でも、鏑にいくつも穴をあけて、笛のような音が鳴るように加工された代物だ。日の本でもごく一部の地域でのみ用いられていた鏑矢で、若い兵たちはますます知らぬであろう。
「不味いわ、糞っ!」
忠勝はそう吐き捨てながら駆け出した。この音を知らぬ者は、ともすればいきなり攻撃を受けたと思うかもしれぬ。張り詰めていた空気が一気に弾け、いよいよぶつかり合いに発展しかねない。
すると続いてがらがらという音とともに、周囲が完全に闇に包まれた。誰かが松明をくべた篝火を引き摺り倒したのだ。そして、叫び声が響き渡った。
「明じゃ、明の大軍が攻めてきたぞ!」
誰もが弾かれたように立ち上がり、海のほうへを目を向けた。その水平線近くに、数えきれないほどの灯火がずらりと並んでいた。
小野伝右衛門は闇の中を走りながら、なおも声を張り上げる。篝火をひっくり返したときに燃え移った袖の火は、大きく腕を振って走っていれば自然に消えた。
「大明の船じゃ。とうとう明の兵が攻めて来おった!」
同じようなことを叫び走る、仲間たちの声もよく聞こえていた。それに背中を押されるように、伝右衛門はまた繰り返す。
「敵襲じゃ、敵襲! 明兵が来るぞ!」
明が攻めてくる。それは、兵たちの間でまことしやかに広がりつつある風聞であった。それも朝鮮に渡った小西勢や加藤勢の動勢が、あるときを境にぱったりと伝わってこなくなったためでもある。明の参戦によって膠着状態になった前線からの報は、将たちによって兵には伝えられずに握り潰されていた。それは士気を保つための配慮であったが、むしろ裏目に出てしまっていたというわけだ。
渡海した軍勢は明の反撃に遭って、すでに壊滅しているのではないか。上はそのことを隠して、さらにおのれらを朝鮮へ送り出そうとしているのではないか。そんな疑心暗鬼が、兵たちの間では広がりつつあったのだ。そして明は勢いに乗じて、この日の本にも攻め寄せてくるのではないか。何しろこの地はかつての元寇の折、蒙古軍と激戦を繰り広げた松浦党の旧領である。それもまた、風聞に真実味を与えてしまっていた。
さらに頭上を、また蟇目鏑矢が夜を裂いて通り過ぎてゆく。かような珍妙な矢音は、伝右衛門も聞いたことがなかった。事前に氏勝から聞かされていなかったら、それこそ異国の未知の兵器とでも思わされていたかもしれない。
さらに暗闇が、人に原初の恐怖を呼び起こす。そして同時にただひとつの光、水平線上に並ぶ篝火に否応なく注目させた。
「明兵が来よるぞ。者ども、迎え討つのじゃ!」




