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(一)

 山間を吹き抜ける風は、いまだ切るように冷たかった。東の空には黒き壁のように箱根の山がそびえ、そこから日輪が顔を出す気配はまったくない。夜明けまではまだ間がありそうだった。

 それでも、闇を裂いて筒音は間断なく鳴り響いている。総懸かりはすでにはじまっているのだ。戸田左門一西(かずあき)は手にした長槍をしっかりと握り直し、気を引き締めつつなおも走り続けた。

 天正十八年三月二十九日、卯の刻。ところは伊豆国、山中城。

 九州の島津家を下し西国を平定した関白太政大臣秀吉は、その天下一統の総仕上げとして関東の雄・北条家へ矛先を向けた。本拠・小田原城に拠を据えたまま、度重なる上洛命令を跳ね付け続けた当主・氏政に対し、総勢実に二十余万にも及ぶ大軍勢を差し向けたのだ。そして箱根の険を前にして秀吉は兵を分け、小田原の防壁となる諸城に同時攻撃を仕掛けた。

 その中のひとつであるこの山中城は、諸城の中でも要たる砦であった。箱根街道を進んでくる敵を三方から殲滅するような構造で立ち塞がり、無数の障子堀や畝堀で囲まれたその城は、北条流の築城術の粋を尽くした名城といえる。しかし間者によれば、守るは城主の左衛門大夫(さえもんのだいふ)氏勝以下わずかに四千ほどとのこと。城の規模に対していかにも少なく、おのずと手薄な個所も出てくるはずであった。

 それでも大手門を目指して仕寄せた先手衆は、激しい抵抗に遭って苦戦していた。殊に街道に沿って大きく張り出した岱崎出丸と呼ばれる付城が厄介で、ここからの火縄による斉射で多くの痛手を蒙っている。一番槍を賭けて突撃した一柳(いちやなぎ)伊豆守直末の勢は、大将の直末自身が敢えなく討ち取られて総崩れとなっていた。

 ならばまず、この出丸を黙らせるしかない。そう命を受けてひた走っているのが、榊原式部大輔(しきぶのたいふ)康政が家中の左門以下四十名だった。それに、味方ではあるがどこの家中かわからぬ者たちが、およそ五十名ほど並んでいる。都合百足らずで出丸を大きく回り込み、手薄な裏手から攻め寄せよとのことだった。

 しかしいかに手薄とはいえ、裏側にもくまなく畝堀(うねぼり)は張り巡らされている。畝堀とは斜面に垂直に並ぶように幾筋も掘られた空堀のことで、それにより進路が限られて逃げ場のない一本道に誘い込まれ、火縄にとっては格好の的になるのはまったく変わりがない。結局せいぜい攪乱にでもなればという程度にしか思われていないのであろう。

 されどそれも承知で、命とあらば行くしかなかった。おのれの身など惜しんでは、三河武士の名折れである。そしてこの左門とて、設楽原では山縣が赤備を、長久手では羽柴が軍勢を相手に功を重ねてきた武辺者だった。いかな堅固な城とはいえ怯むわけにもいかない。

「おぬしは下がれ、左門。一番槍はわしがいただく!」

 凄みのある笑みを浮かべながらそう言ったのは、傍らを走る青山乕之助(とらのすけ)定義である。左門はそれを鼻で笑い、行けるものなら行ってみよと嘯く。

「吐かしておれ。一番槍の誉、おぬしごときに渡せるものか!」

 その思いは、続く者たちもみな同じであろう。おそらくは、並んで走るいずこの家中かもわからぬ者たちも。

 こちらの姿に気付いたか、出丸の上に小さな火花が弾け、僅かに遅れて筒音が響き渡る。されど慄くことなどない。まだ距離は二、三町(約二二〇~三三〇メートル)ほどあり、当たるとも思えない。ただしいざ城に取り付けば、十分に火縄の射程に入る。あとは多少の痛手は覚悟して、一気に出丸の上まで駆け上がるしかない。果たして幾人が残るであろう。二十、いや十残れば上出来か。

 遮二無二足を動かしながら、左門はそんなことを思案していた。するとそのとき、ひゅっという風切り音を聞いた。ややあって、出丸の上で火縄の瞬きがひとつ消える。身を乗り出していたためか、その射手が姿勢を崩して転がり落ちてくるのも見えた。

 いったい何がと訝ると、ひゅっひゅっと風切り音が続き、火縄の光がひとつまたひとつと消えた。肩越しに振り返るが、手下の者たちに遮られて列の後方は見えない。誰かが矢を放っているのか。だとしても有り得ぬ、と左門は唸る。この闇の中を走りながら、あれだけ離れた対手を、筒火だけを頼りに射倒せる者などいるわけがない。もしもいるとすれば信じ難き名手、もはや神業の域である。

 出丸の上からの筒音が止んだ。兵たちも警戒して、いったん身を隠したのであろう。となれば、今が好機であった。こちらが進路を転じたことを気付かれる前に、出来るだけ距離を詰めるべきだ。

「往けぇっ!」

 短く号令をかけ、左門は出丸へ向けて駆け出した。そうして細い畝のひとつに飛び込むと、ずるずると滑る赤土の急勾配をよじ登ってゆく。出丸の兵もすぐに気付いたか、再び火縄を構えて身を乗り出してきた。筒火が弾け、鉛弾が兜を掠めて通り過ぎてゆく。それでも肝を冷やしてなどいられない。筒音に負けじと威嚇の咆哮を上げながら、さらに歩を踏み進める。

 隣の畝からも、同様の吼え声を聞いた。おそらくは乕之助のものであろう。やがてそれは伝播し、誰もが口々に獣じみた雄叫びを上げる。散っていた敵兵も集まり出し、降り注ぐ矢弾がいっそう激しくなってゆく。だが、それでいい。こちらに敵が集まれば、大手門へ進む本隊への援護となる。十分に攪乱の役目は果たせるであろう。

「進めっ、進むのじゃっ!」

 左門はなおも声を張り上げた。そのとき、装填を終えた射手が再び眼前に現れた。その距離、すでに二、三十間。外す間とも思えない。ままよと両腕を顔の前に重ねるようにして、さらに歩を速めた。腕の一本や二本はくれてやろう。だが頭さえ守れば、まだ戦える。

 されど左門がそう覚悟を固めても、衝撃はやってこなかった。腕の間をわずかに広げて覗くと、出丸の上の兵が火縄を構えたまま、ぐらりと身を揺らすのが見えた。その目にはまるで身の裡から生えてきたかのように、鮮やかな鳥羽の矢が突き刺さっていた。

 目を巡らせると、隣の畝の射手も同様に矢傷を受けて崩れ落ちてゆく。まただ、と左門は戦慄さえ覚えた。いったい誰がと訝りながらも、今はそれを詮索している暇もなかった。その好機を逃さじと、一気に残りの斜面を駆け上がる。

 出丸への一番乗りは左門であった。されどほとんど間を置かず、乕之助らもあとに続いてくる。それに気付いた城兵たちが、慌てたようにわらわらと集まって来た。それでも、さすがに狼狽した態は否めない。勢いは間違いなくこちらにあった。

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