第五話「楽しい学園生活」
彼は、国内でも屈指の実力を持つ家柄でありながら貴族派と革新派でもなく中立を保つ一家の子息であった。シーベット家は貴族派と革新派のバランスを保ちながら、その時が来るのをひたすらに待ち続けた、忠義に厚い一家であり、彼は紛れもなくその血を継いでいた。
シーベット家当主で彼の父親でもあるレナード・シーベット辺境伯が現役を退くには若すぎたため、彼は仕事面では父親の補佐しながら貴族社会でも確固たる地位を確立し、次期当主として名実ともに申し分ない力をつけていた。
父親であるシーベット辺境伯も彼と同じように強くて心優しい男性で、屋敷の使用人もまた忠義に厚く優しい人々ばかりであり、突然現れた怪しい異邦人である私を快く迎えてくれた。あまりにも恵まれた待遇で、私が申し訳なさを抱くのはすぐであり、恩返しができればと思うのもすぐだった。
体調が万全になった頃、私は彼に何度目かの頼み事をした。
「此処で働かせてもらえませんかっ?」
ニート穀潰し生活から脱却したいと思うのは、人として当たり前である。
「その前に、体調は問題ないか? 無意識とはいえ初めて鎮魂の魔術を使ったのだから魔力の消耗が激しかった筈だ。 無理をしてはいけない」
彼に説明された私の魔術は、闇の魔術に似た鎮魂の魔術というものだった。そもそも、闇の魔術は魔界に住む魔族しか使う事が出来ないため、多分人間である私がそれを使うことはありえない。
鎮魂の魔術自体は、いわゆる僧侶や神職者であれば修行することで使用することが出来るためそこまで珍しいものではないが、『聖女』という存在が居るこの世界において、平民達の間で重宝されることはあっても貴族社会で脚光を浴びる機会はあまりないそうだ。死者を弔う力であり、生者に対しての力を発揮することが殆どないため、生に貪欲な貴族達にとっては身近な魔術とは言い難く、彼もまた直接鎮魂の魔術を見たのは初めてであったらしい。
私を襲った巨狼を彼が倒した後に、どうやら私は鎮魂の魔術を使ったらしいが、それを見て彼は私が闇の魔術の使い手ではないかと初めは考えたそうだ。
「普通の獣が恨みや憎しみといった負の感情に取り憑かれた結果、『魔物』へと姿を変える事がある。 『魔物』は通常は魔界にしか存在しないが、君を襲った狼はおそらくそういった感情に飲まれて変化してしまった『魔物』だったんだろう」
魔物には闇の力が宿るため、普通の人間であれば触れるだけで闇に冒されてしまい激痛に襲われるらしいが、私が魔物に触れた際、そういったことは無かった。魔物と親和性がある闇の魔術も死者を弔う力があるので、痛がることなく静かに魔物に触れる私の姿を見てそう思ったらしいが、魔族のような禍々しさが無い私に、その考えはすぐに霧散したそうだ。
どちらにしても、魔力の消費が激しい鎮魂の魔術を、訓練も何も受けていない素人の私は所有している魔力の殆どを使って発動してしまったらしく、ぶっ倒れたのは記憶に新しい。
目の前でそれを見ていた彼は妙に過保護で、事あるごとに私の体調を尋ねるのが日課になっていたが、流石にそれに甘える期間はとうに過ぎていた。
「もう大丈夫です、それよりも、助けていただいたのにこのまま何もせずお世話になる方が申し訳なくて……」
何も持たないままこの世界に飛ばされた私が目の前の彼に出来る恩返しなどあるのだろうかと考えた結果、どんな扱いでもいいからこの屋敷で働くことしか残されていなかった。
ちなみに、既に屋敷から出ていくことは提案済みであったが、即座に止められた。理由は述べられなかったが、ただ、「待ってくれ」と。そして、まずは魔力を回復させて体力を取り戻すまでは客人としてこの屋敷に留まってほしいとも。
元々常識的な観点も持ち合わせている彼は、私の意を汲んでくれるつもりではいたのだろう。私の大丈夫だというアピールを受けて、漸くその首を縦に振ってくれたのであった。
私の、短いみじかい人生で初めての侍女生活がスタートしたのであった。
(侍女って大変な仕事だよね……)
こう見えても上流の伯爵令嬢であるため、黒い噂はさておき、侍女を連れ立っての入学が許される程度には高貴な身分の私は、朝からせっせと身支度を整えてくれているライナを見ながら、かつての自分の不甲斐ない侍女生活を振り返った。
一時は客人として世話をしてくれていたシーベット家の使用人達は、主と私の意を同時に汲みながら、複雑な立場である私に変わることのない優しさで接してくれたのは、やはり恵まれていたと思う。
(自分は不器用な方では無いと思っていたけど、使用人って単に仕事が出来るだけじゃやっていけない事を身をもって経験出来たのはいい思い出かな)
今世で経験した貴族のマナーももちろん大変だったが、一家の鑑とも言える使用人もまた一つ一つの所作から実際の作業まで手を抜くことは許されない。シーベット家は辺境伯と名乗っていたが、実質公爵家と同じ力を持っており、王家を除いてこの国で最高位と言っても差し支えがない家格であった。それ故に使用人のレベルも高く、身分制度などとうの昔に捨て去った現代日本の一般階級で育った、物語上で多少知ったつもりになっていた私は、シーベット家の使用人術を身につけるのには頗る苦労したのである。というか、すぐに使用人生活とはおさらばすることになったため、その結果、齧った程度の使用人マナーしか身に付けられなかった。
だからこそ、私の大切な侍女であるライナ——今世の私の家であるシュナイダー家の使用人の中でもトップレベルの技術を持つ彼女の凄さが分かる。
「私、この先もライナが居ないと何も出来ないかも」
これは本心であった。本来であれば彼女も手放して孤独に生きるべきなのだろうが、捻くれまくった幼少期から根気強く私に接してくれた彼女を、私は惜しく思っていた。彼女の姿が、どうにも前の私に惜しみない優しさを注いでくれたシーベット家の使用人達と被ってしまい、未だ弱い私に彼女を手放す決心を固めることを揺らがせていた。
「お嬢様……なんて勿体無いお言葉なんでしょうっ」
涙ぐみながら私の髪を結う彼女は、やはり優秀である。感情を切り離して業務を全うできる姿は、そんじょそこらの使用人が出来る技術ではない。シーベット家の使用人達も、主人を尊敬し愛するあまりにそういう常人離れした芸当が出来る人々であった。瞼を閉じれば、彼らの顔が自然と思い浮かんでくる。誰一人忘れてなどいない。
(——結果、辺境伯も含めて何も告げないまま彼らに酷い仕打ちをしてしまった事は今もずっと後悔してる)
私の単純で悍ましい私欲のせいで、優しい彼らを大いに傷つけてしまった事はずっと後悔しているし、それに対しての彼らの僅かな制裁が本当に些細なもの過ぎて、私は再び生を与えられた今でも、彼らを大切に想っている。
(烏滸がましいとは思っているけど、愛した彼の家だからという理由以外でもシーベット家を守りたい)
辛い思いをさせてしまった代わりに、せめてあの家の使用人一人だって路頭に迷わせたりなんぞしたくない。それを含めての資金集めを続けている。
「ライナ、やっぱりお給金倍にしても良い?」
それは、私の大好きな彼女に対しても同じである。こんな愛らしい彼女に、辛い思いをさせてしまったのだから、お金が解決するものではないけれど、せめて私が居なくなった後も不自由ないような生活を営んで欲しくて度々こう提案するのだが。
「それよりも、私にお嬢様のお世話をずっとさせてくださいませ」
あぁ、なんて優秀で優しい私の侍女様なのだろう。
手を止める事なく私の髪を結いながら、綺麗な笑顔を向けてくれる彼女を、やはり私は手放したくないのである。
なんてうっとりとしていた平和な朝の時間に戻りたいです、私は。
「なんてみっともない格好なんでしょう!」
「そんな格好の方が光属性をお持ちだなんて!」
「そもそも、男爵子女如きが光属性だなんて、宝の持ち腐れですわ」
酷い場面に出くわしたなり。思わず口調がおかしくなってしまうくらいには、定番すぎる展開に私は仮面の奥で虚無の顔を浮かべながら呆然と立ち尽くしてしまった。想定はしていたが、あまりにもテンプレすぎて思わず扇子で隠した私の口元はあんぐりと開いていた。
「貴女、元々平民なんですってね?」
あれは我が家よりは劣るが同じ伯爵家ではあるクラウゼ家の令嬢で、確か——、
「ちょっと、リンダ様が話し掛けてくださっているのだから答えなさい!」
リンダ・クラウゼ伯爵令嬢、悪役令嬢のライバルである悪役令嬢だ。
(こちとら長い時間を掛けて悪役令嬢の地位を築き上げてきたのに……所詮紛い物は天然には敵わないってことっ!?)
妙な悔しさが沸き起こる。染み付いた一般人の感性のせいであんなことまでする気はなかった私は、彼女に先を越されたことが悔しい。
(人の良さそうな男子人気爆上がり中の聖女候補をさり気なく虐めて私の評判を地に貶めることで、我慢出来なくなったアレから婚約破棄を申し出させて、反逆者共を一掃する予定だったのにぃぃ! あのロールパン頭めっ!)
別にリリー・クライン男爵令嬢を虐げなくても既に落ちるところまで落ちている私の評判はちょっとやそっとじゃ変わらないので、他にもやることがあるからと、さアレが在学中に婚約破棄を申し出てくれれば良いかなんて先延ばしにした私が悪かった。
やることが沢山ある私と比べて、なんとなく学園で優雅な時間を過ごせば良いだけの令嬢達は、どうやら暇を持て余しているらしい。魔力計測の授業が終わって翌日からは、既にリリー・クライン男爵令嬢は標的となっていた。流石、噂が広がるのが早い貴族社会の縮図とも言える学園である。
(あーあ、そんな可愛い顔で涙なんて浮かべちゃったら、男子人気は上昇、女子からの評判は急暴落じゃない……)
ふるふると小動物の如く震えながら、食べ物かなんかをひっくり返されたのだろうか、制服が汚れて惨めな姿となった少女。庇護欲を掻き立てるには十分な姿だが、流石に伯爵家の令嬢の前に立ち塞がろうとする者は男女ともに居なかった。
(食堂で食べたいなんて思うんじゃなかったわ)
金持ち学校のランチってどんな感じなのかしら、と一般人の好奇心からライナの用意してくれる温かみのあるランチを断ってわざわざ食堂へと足を運んだ、その全てが間違いだった。
「なんとか言ったらどうなの!?」
テンプレの取り巻き令嬢がテンプレの言葉を吐く姿は拍手すらしたいくらいだが、そんな乙女ゲームよろしく見たいな世界に転生したつもりはこちとら全くない。暗躍や裏切り、血と屍に塗れた命を懸けた戦いに最初にぶち込まれたせいか随分穿った人間に矯正された私からすれば、見方を変えれば、甲斐あってある意味平和な世界になった事を喜ぶべきかもしれないが、そんなことより今は優先したいことがある。
ぎゃーぎゃーと可愛らしく囀るお嬢ちゃん達に向かって、引き攣りそうになる口元を扇子で覆ったまま私はゆるりと歩き出した。私の姿を見かけた生徒達は、一斉に道を開ける。噂が怖いのは分かるけど、別に取って食ったりしないのに。まぁ噂の効果が知れた事は有り難いとしよう。
如何にも悪ぶったように、己の手に向かって扇子振り下ろしながら畳んだ。パチンと乾いた音が食堂に広がる。
「すみません」
前の私と変わらない平凡な声に、伯爵令嬢という仮面を被せて発した音は、意外にも様になっている。
ハッと私の方を振り返った悪役令嬢’Sと光の少女は驚きの表情を浮かべている。
「そこ、通してくださる?」
家格は我が家の方が断然上である。さらに学園内での実力や噂があるため、私に対して口答えできる人間はこの学園では早々居ない。
クラウゼ伯爵令嬢は流石にそれを知っていた様で、一瞬文句を言いそうになっていたがグッと堪えて、
「失礼致しますっ」
ふんっと可愛らしい小物の悪役っぷりを私に見せつけながら取り巻き令嬢と共に去っていった。
(私もああいう小物感ある演技力身に付ければ良かったかなぁ)
彼女の天然物の小物悪役令嬢っぷりに免じて、今回は何も言わずにこのまま逃してやろうと思う。
今度はこちらの相手をしてやらねば。
ふと、いつまでも座っている少女に向かって私は声を掛けた。
「貴女もいつまで床に座っているつもりですか」
「あ、すみません……!」
緊張したように立ち上がった光に選ばれた少女——リリー・クライン男爵令嬢は、私の言葉を待つかのようにひたすら縮こまりながら震える足で立っている。
周囲は、私が何を言うのかと畏怖と好奇の視線を寄越してくる。こんな目立つ場所で事を起こせば良くも悪くも噂が分厚くなるのは分かっていたが、今の私にはそれよりも重要なことがある。こんな機会、また自分で生み出せば良いのだから今逃しても構わない。
「貴女、いつまでその格好で居るつもりですか?」
「す、すみません……」
「え、いや、今そんな強くいったつもりはないんだけど!?」っと冷徹な仮面の奥で動揺しながらも、私は言葉を続ける。
「この学園に通うからには、清く正しく美しく、選ばれた者として自覚ある姿・行動を心掛けなさい」
何せこの学園は彼が通った場所なのだから、例え馬鹿みたいな貴族社会を反映したミニチュアだとしても、彼が通っていたに相応しい場所——彼の様に清く正しく美しい生徒が溢れる理想とされる学園になって欲しい。
絶賛私欲に利用中の私がこんな理想主義みたいなこと言う権利はないのだが、せめて素質ある者にはそうであって欲しい。
私は、自分の魔術で彼女の制服についたみすぼらしい汚れを浄化した。魔力があれば誰でも出来る生活魔術の一旦であるため、上級者であれば理論を知らなくても使える、別に珍しくもなんともない魔術である。理論を知れば、世界を支配することができるなんて、きっと誰も想像していないだろう。
「あ、ありがとうございます……!」
リリー・クライン男爵令嬢は綺麗になった自身の制服を見て驚きながらも、私という存在に萎縮したかのようにおどおどとした様子で礼を述べたのだが、先程からの彼女のそういう態度が私は気に入らない。
「リリー・クライン男爵令嬢」
私は鋭い声で彼女に呼び掛けた。持っていた扇子をすっと彼女の顎に乗せて、私の冷徹な仮面越しの目と彼女の翡翠の目を無理矢理合わせるように持ち上げた。
「礼の言葉を口にするのならば、背筋を伸ばし相手の目をしっかりと見つめて、己の本心を確と相手に届けようとなさい」
「は、はい!」
それは、私が彼に言われたことである。
大勢の人に無条件とも言える中で優しくされていることに対して、いつまでも申し訳ない気持ちを抱えたまま素直に喜びを表そうとしない私に、彼は言ったのだ。
「礼の言葉を口にするのならば、背筋を伸ばし相手の目をしっかりと見つめて、己の本心を確と相手に届けようとしなさい」
君は悪い事をしたわけではないのだから、と。届けろ、と言わない辺りが彼らしいと思った。押し付けではなく、自分が想っている事と自らも真摯に向き合い、その気持ちで以て相手と向き合うこと。少し控えめな、それでも臆する事なく誰かとしっかりと向き合おうとする彼の性格が反映されている言葉で、私は好きだった。
私が口にした愛する人の言葉は、目の前の少女にもどうやら響いた様である。やや頬を紅色に染めながらも、
「セレーネ・フォン・シュナイダー伯爵令嬢、ありがとうございます」
しゃんとした背筋のまま恭しく頭を下げ、私に向かって改めて感謝の言葉を述べた。平民であったとはいえ、クライン男爵にはきちんと貴族マナーを身に付けさせてもらっていたことが確認できる、淑女の美しさ。
「礼には及びません」
彼女の真摯的な態度を見た私は、ぴしゃりと跳ね除ける事はせず、甘んじてその言葉を受け取り、ついでにひっくり返ってしまった食器も片付けてあげようなんて、彼に似たお人好しっぷりを発揮しようとしたが、それは間違いであったと直ぐに突きつけられた。
一刻も早くこの場を立ち去るべきであったと、非常に後悔する羽目になったのである。
「何をしている!!」
アレが人混みの中から走り寄ってきた。あぁ面倒臭い奴が現れたもんだと内心溜息を吐いたのだが、その後ろから来た存在を認識した私は、冷たい仮面の向こう側で、大いに動揺してしまったのである。
(あぁ、今日はなんてツイてない日なんだろう)
アレの後ろに居る、前の私と瓜二つな射干玉の髪を揺らす彼に瓜二つな顔を持つ男の顔など、見たくて堪らないけど——やっぱり見たくなかった。