第二話「二度目の私と」
私を助けてくれたその人は、リュミエール・シーベットと名乗った。騎士である彼は、極秘の任務のために深夜の森で探し物をしていたらしい。そんなこと正直に見知らぬ怪しげな女に話して良いのかと思ったが、
「君なら大丈夫だろう」
と妙な信頼を得ていた。
会ったばかりなのに他人をいとも簡単に信頼するなんてこの人はとんだお人好しなのではないかと思ったが、彼はそんな人ではないことを後の私はすぐに知ることとなる。
この場においては彼のその純真さに救われた私は、森は危険であるという彼の忠告により、流されるままに屋敷へと案内されることになった。
「屋敷まで少し距離があるから、もし怪我をしているなら私が背負っていこう」
そんな大胆な提案は丁寧に辞させてもらった。どんだけ良い人なの、と言葉にしなかった私は偉いと思う。彼のこういうところにこの後も私は翻弄される訳だが、この時はまだ、ただ優しい人と言う印象に留まっていた。
こんな些細な短い道中であっても私達を阻むそれが、今も昔も忌々しい——。
私が巨狼から逃げ去る前に見つけた開けた道はやはり人の手で平かにされた道だった様で、明るい月の光に照らされながら私達は歩いていた。私の少し前を、私の歩幅に合わせるように付かず離れずで颯爽と歩くその人は、私を支えたせいで汚れてしまった服を以ってしても美しかった。
(こんな綺麗な人は初めて見た)
今でもそう思っている、私の一貫した彼に対する印象をこの時も後ろ姿なことをいいことに、馬鹿みたいに見つめながら抱いていた私は、そのお陰か彼の異変にすぐに気付いた。
前を行く彼が突然苦しみだしたのである。何が起こったのか分からなかった私だが、崩れ落ちる彼を咄嗟に支えられる位には正常だった。
「大丈夫ですか!?」
「くっ……問題ない、すぐに収まる」
言っていることと表情がまるで噛み合っていない彼に、どうしたら良いか分からなかった。ふと、彼が私を制するように翳した右手から一瞬黒い靄のような物が見えた私は、思わず彼のその手を握った。こんな大胆なこと、いつもの私からは考えられないけど、そうしなければと思った。
ほんのりと汗ばむ彼の手は、普通の熱とは異なる熱を帯びていた。ひりつく様な熱が、私の手に襲いかかる。
どうしたらいいか分からないまま、意味もなく彼の手を握って様子を伺う私はさぞ滑稽だっただろう。
「リュミエール!」
ふと、心配と焦りを隠すことをしない男の声が森に響き渡った。私達に駆け寄ってきたのは、黒いフードにすっぽりと包まれた男だった。
彼と私を見比べた男は、私に怒鳴った。
「お前、彼に何をしたっ!」
「わ、私はなにも——」
「彼女は何もしていない」
痛みを堪えながら、それでもはっきりと否定の言葉を口にした彼は、強い眼で男に言い聞かせた。
私は、その強さが羨ましい——。
「ということは、お前まさか……」
「君は優秀な魔術師だということだ」
彼のその言葉に、その男性は悔しげに顔を歪めた。二人の会話が分からない私は、ただただ、この優しい人の痛みを拭えたらいいのにと願っていた。平気なふりをしても、未だ額に浮かぶ彼の汗がそれは嘘だと主張しており、それを拭い去る方法を私は求めていた。
ふと、私が握る彼の右手から巨狼と同じ黒い靄のような、それよりももっと禍々しい存在が纏わりついているのをはっきりと見つけた。
方法なんて分からなかった。それでも、この時の私はその存在に向かって、ただただ純粋な願いをぶつけたのである。
(彼を苦しめないで)
その願いが通じたのだろうか、その存在は私の手に一瞬絡みつきながら何かを確かめたあと、彼の手の中に静かに戻っていった。
それを見届けた私は、再び大きな何かが自分の中から抜け出ていく感覚と共に、今度は意識も手放したのであった——。
「お嬢様、着きましたよ」
ライナの一言で、私はハッとした。学園までの馬車の中でまさかうたた寝をするとは、前世と比べると随分とお尻が鍛えられた様である。
(感傷的になってる暇なんて無いのに……)
馭者であるエアニーが開けてくれた扉の向こうに広がる景色を見ながら、私は彼の事を思い浮かべた。前の世で私を助けてくれた、気高く清らかで優しく、そして強い男の人。
リュミエール・シーベットという人は、美しい人間だ。それは見た目に限ったことではなく、彼を織りなす全てがそうであった。
その事を、昔も今も、私は忘れたことなど一度たりともない——。
(この三年間、無駄にするつもりは無い)
そのための準備はしてきたつもりだ。慣れない役割を演じることも、この十五年間で身に付けた。後は、やるしかないのである。
「お嬢様」
ライナに促された私は、エアニーの手もライナの手も借りる事なく、自分の足だけでその地へ足を踏み入れた。
その途端、一斉に注がれる視線。分かっていた反応であるが、この視線に晒されながら三年間も過ごすのかと思うと、いくら顔を覆っているからと言ってちょっとゲンナリしてしまう。心配と不安が入り混じった優しい視線を二人は向けてくれたが、私は案ずるなとそれ越しに二人に語り掛けた。確かに不安が無いと言えば嘘になるが、前と合わせるとアラフォーを人として過ごしている訳で、20歳にも満たないお子様なんて痛くも痒くもないし、後ろ盾だってばっちり作ってきた。恐れるものは王家以外、いや王家すら怖くない。
「エアニー、行ってきます」
「はい、ご武運を、セレーネお嬢様」
いや、学園に行くだけのお嬢様にそんな言葉を掛けるだなんて、貴方も私のことよく分かってるじゃない。
そう、彼もまた、今世で好きな人の内の一人である。
思っていたよりも酷かった、と言うのが率直な感想だった。
まさか此処まで噂が誇張されているとは思っていなかった私は、改めて貴族社会の恐ろしさを実感した。
(街中の噂だったらもっと面白いおかしいものになっていただろうなぁ)
校舎までの長い庭園を歩きながら、私はそれ越しに生徒達を見遣った。新入生はこの道を歩くことで、学園の生徒達に自らを披露すると共に互いを牽制、あるいは徒党を組む準備をするのである。寮制のためこの長く美しい庭園をわざわざ歩くことは少なく、こういった行事の時でも無い限り生徒達がこうして集まることも無いが、入学時が最も貴族社会を再現しており、はっきりと言えば馬鹿馬鹿しい慣習である。
(ま、新歓期間なんてこんなもんよね)
入学式の日だから表立って部への勧誘活動は出来ないのは共通している様であり、一部の生徒を除いて寮待機をしているせいか、全ての学園生が集っている訳では無いのは幸いだった。ただでさえ目立つ容姿であるのに、噂のせいで私が横切る度に、煌びやかなお扇子で全く隠せていない視線を浴びせてくるのであるから、全校生徒が集まっていたら私は力を使ってでもその鬱陶しい視線を抹消していたかもしれない。
「お嬢様、大丈夫ですか……?」
あからさま過ぎる視線は、私の優秀な侍女にとってもまた不快、いや、彼女の不安を煽る要素として十分過ぎたらしい。「ご命令があればいつでも抹消したしますよ?」と不安げに眉を寄せた可愛らしい顔で問い掛けてくる姿は、なんというか、多分だけど、私が間違ったのかもしれない。
なんて余計な事を考えていたからか、それとも単に油断していたからか、それとももっと他の理由か。不覚にも私は気付けなかった。その人の気配に——。
「御令嬢!」
見知らぬ声の筈のあまりにも知った声——。
その人に声を掛けられたせいで、私の全身は冷たさと熱さが綯い交ぜになり、ぴたりと動きを止める。
——何で彼の音が、声が。
そう思わずにはいられなかった。振り返るのが怖い。歓喜よりも、恐怖の方が遥かに勝っている。
それでも、呼び止められたのならば応えないのは平等を謳うこの学園の生徒としては失礼に値するとなんとか理性を働かせ、私は恐る恐る振り返る。
そこにいたのは、たった一つの違いを除いて——彼に瓜二つの男子生徒。
目眩がする。そんなバカなと頭がさーっと冷えていく。これがなかったら酷い顔をその瓜二つな彼の目の前に晒していただろうと、私はそっと冷たいそれに触れる。
そんな訳はない。彼は間違いなく亡くなった。私が誰よりも知っている事実。
それならば、目の前にいる、彼に瓜二つの、彼ではない誰かは一体——。
「失礼っ」
直後、私が触れていた無機質なそれが、優しく剥ぎ取れられる。一瞬、目の前の誰かと布越しに指が触れ合ったのは気のせいだろうか。
(嫌っ!)
数人に顔を見られたところで別にそれ自体は重要ではなく、ただの保険の変装なのだから構わない。
だが、なんとなく、この誰かに今の私の顔を見られるのは嫌だった。咄嗟に顔を覆うために扇子を取り出そうとしたその時、目の前の誰かの大きく見開かれた金色の眼と私の眼があったのは気のせいだろうか——。
そう思ったのも束の間、次の瞬間には私は彼の腕の中に居たのである。痛いくらいの力で抱き締められている。どうしてこの人はこんなに震えているのだろうか——。
——彼は一体誰?
まるで彼の中にいるかのような感覚に、胸元に添えた掌から彼の鼓動が伝わってくるそれに、私は酔いしれそうになる。合わせるように高鳴っていく自分の鼓動は、まるで懐かしい日々の中のそれとそっくりで。耳元に降りかかった彼の吐息は、まるで言葉にならない何かを吐き出しているようで、さらに私の心を締め付ける。このまま時が止まってしまえば良いのに、と、私の頭に裏切りめいた言葉が過ぎる。
それほどまでに、彼は彼に似ている、似過ぎている。私は思わず、美しい白銀の彼の姿を思い浮かべてしまった。
——リュミエール様……
終ぞその名を本人の前で口にすることが出来なかった意気地無しの私は、何度この名を胸の内で呟いだのだろうか。その名を思い出すだけで、未だにこんなにも切なくなるというのに、私は他の男性の腕に抱かれて彼に対する想いと似たものを抱くとは、なんと浅ましい女なのだろう。
最期に見た彼の姿を思い出し、私はすぐに現実へと帰ってきた。彼が居ない事を、私は誰よりも知っている。
とんだ馬鹿げた想いを抱いたものだと、自分を罵倒したお陰で冷静になった頭で、とりあえず見知らぬ男子生徒から離れようとその人の胸板を押し返すも、むしろより強く抱き締められてしまい、とりあえず一旦放置した。
(きっと誰かと勘違いしているんだ、うん)
彼の手の中に閉じ込められている私のそれを見て一体誰と勘違いすると言うのだろうか、なんてことは置いておく。ついでに、未だにちょっとドキドキしている鼓動もだ。色々なものを置き去りにして、私は考えたくはない可能性を思い浮かべる。
(そうだ、彼には確か婚約者候補がいたはず……会ったことがある人も無い人もいるから、もしかしたらそのうちの誰かと……)
そんなことをするような人には見えなかったが、彼は見た目は勿論のこと、家柄も大層素晴らしく、そういう関係になりたい人は大勢いただろう。不誠実な人には見えないから婚前の男女のなんちゃらはって堅いことは言ってそうだけど、国の為にも友の為にもその身を捧げる熱心さがあったので、分からない。
(それに、彼の女性関係なんて怖くて聞いたことがなかった……)
友達に揶揄われているのは聞いたことがあったが、彼の口から真実を聞いたことは一度もなかった。恋人同士だった訳ではない私がこんな感情を抱くことすら烏滸がましいのは分かっているが、目の前の誰かの、前の私とそっくりの射干玉の髪が、酷く憎らしく思えた。嫉妬心でどうにかなってしまいそうな私を、罪悪感と今の私の理性で何とか抑えつける。
(例えそうだったとしても、今の私はそれ自体に関わるつもりは毛頭ないし、元々そんな風に思う権利もないもの)
刹那に交わった、彼と同じ金色の眼にずっと見続けられたいと哀れで欲深い思いを抱きながらも、私は何でもないようにこう口にした。
「仮面を返していただけませんか?」
その声は、存外と悪役令嬢に相応しい、冷たい音色を纏っていたことが、私に僅かな満足感を与えたのであった。