6 眷属に案内されて若水をもらい、後輩にも飲ませた
登場人物
空原 みみ子 年金生活の婆さん。異世界への入り口を見つけた
只野 郁子 以前みみ子の職場で後輩だった。夫の小さな会社で名目上の社長。
白いカラスはぼうっと光って、みみ子をしばらく眺めた後、付いて来いとばかりにクイっと首を動かして羽ばたいた。
生意気な仕草だ。
みみ子に見えるぎりぎりのところで下りて、チラリと振り向いた。
みみ子は懐中電灯で足下を照らしながら、追いかけた。
追いつくと、絶妙なタイミングで飛び上がる。
優秀な道案内だ。
上ったり、少し下ったり、時に右や左に曲がったり、しばらく休憩を入れたりしながら進むうち、行く手に二つの岩が現れた。
白いカラスは岩の上に飛び乗り、クイっと首を動かした。
二つの岩の間には、人が一人やっと通れるほどの隙間があった。
そこに行けということらしい。
みみ子は、思い切って岩の隙間に進んだ。
その先に、岩に囲まれた小さな泉があった。
泉の周りだけが、ぼんやりと明るい。
凭浜高司尊から送られたイメージと同じだ。
泉から溢れ出る水で手をすすぎ、両手ですくった水に、恐る恐る口をつけた。
水だ。田舎の水だ。訳もなく懐かしい。
もう一口飲んだ。
もっと飲みたいが、寒い季節の夜中に、がぶがぶと冷たい水を飲めるものではない。
トイレも無い。
リュックからお茶のペットボトルを出し、中身を捨てて水を入れた。
一休みして帰路についた。
岩の間を抜けて、白いカラスを見た時はほっとした。
その子がいないと戻れる自信はみじんも無い。
凭浜高司尊は、帰りは楽になると言ったが、ちっとも楽になった気がしなかった。
真っ暗闇は、慣れるものじゃない。
赤く光る鳥居にたどり着き、凭浜門守に挨拶して門をくぐり抜けると、びっくりするほど明るかった。
深夜を過ぎた住宅街だというのに、文明は素晴らしい。
年寄りが一人で出歩ける治安の良さも素晴らしい。
帰り着いたみみ子は、爆睡した。
◇ ◇ ◇
遅く起きた朝の気分は、悪くなかった。
ぐっすりと眠れたようだ。
洗顔と着替えを済ませ、大きく伸びをしたところに電話が鳴った。
「空原先輩、遊びにいっても良い? お昼を買っていくから」
職場の同僚だった五歳年下の只野郁子だ。
「おお、良いよ。お寿司がいいな」
「あと一時間半か二時間くらい。駅に着いたら電話するね」
「了解」
退職したのはほぼ同時期だ。
彼女は、夫が独立して事業を興したのを機に、その会社の社長になった。
小さな小さな会社らしく、名目だけの社長だ。
商売は夫が全て仕切っているので、事務所の掃除くらいしかやっていないらしい。
年に二、三回ほど遊びに来る。
パック詰めの寿司とビールを持って、郁子が来た。
機嫌良くおしゃべりをして、郁子が言った。
「ここで昼酒を飲みながら先輩とおしゃべりすると、元気が出るのよ」
「わたしゃ昼酒のつまみか。
あっ、そうだ。元気が出るものをあげよう」
みみ子は、リュックからペットボトルを取り出した。
「じゃ〜ん。『をち水』だ。
伝説の若返りの水だ。どうよ」
「わっ、うれしい! 『おちみず』?」
「ちっちっちっ、発音が悪い。『ぅおちみず』」
「ください。飲みます」
コップに半分ほどを注いで渡すと、郁子は嬉しそうに飲んだ。
「お〜、おいしいー。若返った!」
「早いな、おい」
「伝説の水を飲んだと思うと、なんか緊張します」
「だめだめ、緊張しちゃだめ。はい立って。もうちょいこっち」
テーブルや椅子がじゃまにならない場所にたたせて、みみ子は郁子に指示した。
「体中にぎゅーっと力を入れて。はい、ギュ——ッ。
一気に力を抜いて、だら〜ん。
身体の中心を意識しながら、身体を少しずつ動かして、大地の上にふわっと乗っかっている感じ。
力を入れなくても楽に立っている感じになってみて」
「ここって六階ですよね。大地から遠くないですか」
「地球の大きさを思えば誤差よ。
ゆっくり口から息を吐いて、吐いて、吐ききって。
姿勢は崩さないよ。
吐ききったら鼻から息を吸いましょう。はい、もう一回。
今度は吸う時に、大地から力を吸い上げる気持ちで。
吸い上げた力を、身体いっぱいに膨らませる感じで。
身体よりもさらに大きく膨らませる感じに」
なんてことを何度かくり返した。
「どう? 落ち着いたかな」
「ん〜、わかんないです」
「まっいっか。
そうそう、近所に面白いとこ見つけたんだけど、見に行かない?」
「行きます」
ということで、連れ立って大岩まで出かけた。
◇ ◇ ◇
「山本さーん、空原です。岩まで通らしてもらっていいですかー」
インターフォンに呼びかければ、しばらくして返事があった。
「空原さんなら、いつでもどうぞ。
いちいち断らなくてもかまいませんよ」
「じゃ、遠慮なく」
ずかずかと庭の奥まで行った。
「うわ、なんですか、この大きな岩は」
驚く郁子をせっついて、渡り門まで着いた。
「えーと、異世界に行ってみたいと思う?」
「異世界って、小説や漫画で流行っているんですってね。娘が言ってました。
そうですね、帰って来れるなら、ちょっと行ってみたいかも」
「よっしゃあー。
この辺がね、異世界に通じる門なのよ。
そのまま進んでみて」
「岩ですけど。岩ですよね」
「いいから、いいから」
郁子は、恐る恐る手を前に突き出して進むと、抵抗感無く進めたことに驚き、
驚いたまま異世界に到着した。
「ひえ〜、暗いです」
「ここが異世界よ。良かった。ちゃんと来れた」
「え? ちゃんと来れないこともあるんですか。
ちゃんと来れないと、どうなるんですか」
「岩にぶつかって止まるんだと思う」
「……」
郁子を凭浜門守に紹介した。
「あわわわわ、頭の中に…中に……、
怪奇現象? いやいやいや、私、幽霊とか駄目です。
ゾンビは、もっと駄目です。アブダクションも勘弁ですう〜」
凭浜高司尊にも紹介した。
「おーうおーう、あ〜れ〜、頭の中にいー」
いちいち、にぎやかだった。
郁子がある程度落ち着いたところで、みみ子はそれまでのいきさつを語った。
十億円を手に入れた事は、まだ内緒だ。
「とんでもないことになってますね。一億で買うって言っちゃったんですかあ。
念のために言っておきますけど、お金は出せませんよ。
うちの会社は儲かってないんですから」
「お金は大丈夫なのよ。ぶっちゃけ、無理をするつもりもないし。
そこは何とかなるんじゃないのかしらん。
何とかできそうになかったら、凭浜門守や凭浜高司尊に相談するし。
問題は、美しく晴れた青空なのよ。
ということで、いくわよー。ガ〜、メ〜、ハ〜、メ〜、ハァ——ッ」
郁子はノリが悪かった。
「そんな恥ずかしいこと……」
「大丈夫、誰も見てない」
「甥っ子たちが子どもの頃にやってましたけど、
考えたら、今年還暦ですし。ええー?!
分かりました。分かりました。やればいいんでしょ。
あ〜娘が知ったら、馬鹿にされるう。
ガ〜、メ〜、ハ〜、メ〜、ハ〜〜」
「気合いが足りない!
うちでやった呼吸法からやり直し!」
郁子は、役に立たなかった。