52 渡り門の鍵
登場人物
空原 みみ子 異世界を見つけた婆さん
観凪 楓 養生院の陽気な看護師長 大柄な身体で空を飛ぶのが好き
演奏家 男性
みみ子は、異世界に渡れなかった三人を考察した。
一人目は、元の地主山本老人の息子の嫁、エンエンだ。
息子は渡り門に近づかなかったので、不明だ。
山本老人の話では、正式に結婚していて、国籍は日本だという。
国籍が日本でも関係ないらしい。
二人目は、ハサンという外国人。アラブ系だろう。
言葉が通じない事は確かだ。
三人目が佐藤。
両親とも日本人だ。何代も遡れる日本人だ。
ただし、外国で生まれ育った。
三人の共通点は、日本以外で生まれ育ったこと。
ちなみに、会員に確かめたところ、全員が日本生まれの日本育ち。
どこからどう見ても、日本人である。
ますます秘密を公開できなくなった。
取り扱いを間違えたら、国際問題になりかねない。
そんな事になったら大変だ。
そこまで考えて、みみ子は昼寝をした。
考えていたら眠くなった。
考えても仕方がない。考えなくても、上手くいくときは上手くいく。
丹生養生院の他のスタッフが、月見養生院で研修をした。
ちゃんと栄養管理その他の養生法をまとめている。
一人一人好物と苦手な食べ物を聞き出し、摂取したときの体調を調べて資料にして、退院後の栄養管理に役立ててもらったりもしている。
抜かり無く、もっともらしい手順は踏んでいた。
丹生養生院のスタッフも、無事に会員になった。
風早は、人も見る目を自慢していたが、うなずける。
信頼できて、遊び心のある良い人選だった。
ジジババ友の会の会員が増えて来た、そんなある日のことだった。
養生院の患者が入会を希望した。
現代なら難しい病気ではなかったが、転院して来たときは、手遅れ状態だった。
回復した時、養生院がすっかり気にってしまったらしい。
「皆さんの会話に出て来た『友の会』ってのは、何の会?
楽しそうだ。仲間になりたいなあ。
でも駄目か。会費が要るんでしょ。
僕は払えない。貧乏だから」
その人は、演奏家だという。
「演奏は大好きだけど、年を取ったら腕が落ちた。
年には勝てないと思っていたけど、ここの人はみんな楽しそう。うらやましい」
「会費は要らないけど、入会審査を受けて通らないと入れないよ」
と言えば、受けたいと乗り気になった。
生まれも育ちも日本だというから、大丈夫だと思っていた。
しかし、通らなかった。
どうにかごまかした。
「会員じゃなくても、養生院の患者だった人にはアフターケアをするから。
調子が悪かったり、暇だったりしたら遊びにおいで。
養生ジュースをおごるから。そうだ、今から一杯やろう」
そんな事を言って誘い、会館でジュースを出した。
みみ子と観凪師長が、代わる代わる話を聞き出した。
「演奏家って憧れるわ。私は楽器演奏はからきしだから。
ピアノは猫踏んじゃったしか弾けないし。小さいときから練習したんでしょ」
「何歳から始めたの? ご家族も音楽好きだったのかしら。おっほっほっほ」
「うんうん、才能と環境って奴? だめだこりゃ。私はどっちも縁が薄い」
根掘り葉掘り聞き出した。
両親は、夫婦で外国人の家で働いていたらしい。
住み込みで、その家には年上の子どもたちがいた。
一家が音楽好きだった。
レコードはたくさんあって、よく聞いていたらしい。
物心がつくかつかないかの頃だから、当人はあまり覚えていない。
両親の話だから、環境が影響したのかは分からない。
両親は忙しかったので、その家の子どもの玩具になって育った。
彼が言葉を話す年齢になった頃、父親は仕事を変えた。
彼は寡黙な少年だった。
両親は、彼が音楽好きなのに気がつき、習わせた。
まとめると、そんな感じだ。
話の様子では、幼児期の短い期間を除けば、普通の日本の生活を送ってきている。
彼は、おしゃべりが得意ではないようだ。
「僕は、音楽でおしゃべりするから」
ここまで聞き出すのは大変だった。
みみ子と観凪の方が口数は多かったかもしれない。
それを、彼はニコニコと聞き、言葉少なく答えた。
彼が渡れない理由が分からない。
凭浜門守命に聞きにいった。
異世界に渡れなかった人たちの事を伝えて、理由を問うた。
『ここに来るものたちは、門の鍵を持っている。
その者たちは、鍵を持たぬのであろうと思われる』
「門の鍵ですか。いつも手ぶらです。そんなものは持っていません」
『門の鍵は、そなたの中にある。思いを伝え合う鍵だ」
山本エンエンとアラブ人は、なんとなく分かる。
みみ子自身がうまくコミニュケーションできない。
しかし、佐藤と演奏家は、その説明では納得できない。
「その鍵とは、どのような物なのでしょうか。分かりません。
鬼は思いを伝え合うことができぬ、と阿斯訶備比古遅様からうかがいました。
その者たちが鬼と同じとは思えません」
『おそらくだが、鍵を持たぬ者は、分けるのであろう。
そなたは、人と樹を、獣や鳥を、物の怪を分け隔てしない。
そればかりか、己と相対する相手を、明らかに分ける事をしない。
言葉に、それが現れている。
<吾>を相手にも使う。<あなた>と<こなた>をその場で変える。
鬼は、己と己以外を分ける。けして同じものとは考えぬ』
指摘されると思い当たる。
日本語の人称は、はっきりしない。
男の子に向かって、おばさんはしばしば<僕>と呼びかける。
相手に「自分、どこの生まれなん?」なんてことまで言う。
一人称と二人称がごちゃ混ぜだったり、時代で入れ替え変わったりする。
文章には、概ね主語が省かれる。
それに比べると、西洋の言葉は一人称と二人称ははっきりと区別される。
混ざる事は無い。
フランス語に至っては、ありとあらゆるものを男性形と女性形に分け、主語がどちらになるかで動詞が変われば冠詞も変わる。
実に明確な言葉だ。
日本語は、曖昧である。あれもこれも一緒くたにしてしまう。
機械文明が発達してきた頃、工場の大型機械に、工員はアイドルの名前をつけて可愛がった。
西洋人が吃驚したという事があった。
無骨な機械でさえ、働く仲間にしてしまう。
日本語の起源が諸説あってまとまらないのは、あちこちの言語の特徴が混ざっているからではないだろうか。
七福神の中に外国出身の神様がいる。
ビリケンさんはアメリカ生まれの神様だ。
正月には神社に参り、葬式は仏教で、年末にはクリスマス。
宗教でさえ、都合に合わせて見境が無い。
お金がかからないという理由で、イスラム教に改宗した日本人の噂を聞いた。
冗談かもしれないが、その冗談が通る。
何でも来いなのだ。
何でもありなのだ。
西洋の言語は、きちんと系統立てて、分類して、整理して、分析して……。
分けて、分けて、分ける。
科学の発展には、それが便利だ。
日本語は、その成果さえ取り込んで、科学も思想も取り込んだ。
新しい言葉を作ってまで取り込んだ。
<自由>も<共産主義>も日本語だ。
他の国では、概ね freedom とか communism とか言っているのだろう。
中国は、日本製の<共産主義>という言葉をを選んだ。
自国の言語で最新の研究ができるのは、日本くらいと言われている。
ほとんどの国では、英語で研究していると聞いた。
そこで思い出した。昔読んだとある記事だ。
人間が言葉を話す時、脳の言語野が活性化する。
英語を使う人は、活性化する言語野が左右に分かれている。
日本語を使う人は、別れていない。一つにまとまって活性化する。
面白い事に、英語使いが日本語を話しても、言語野の活性化する部分は左右に分かれたまま。
日本語使いが英語を話しても、言語野はまとまって活性化する。
もしかしたら、言語野の中心に鍵ができるのかもしれない。
あくまで推測だが。
幼い頃に言葉を覚える時が、分かれ道なのだろうか。




