13 桃生比売が目覚め 隣家が空き家になった
登場人物
空原 みみ子 異世界の入り口を見つけた婆さん
谷戸 晴美 エネ研で知り合った弓道婆さん
山本 周二 元の地主山本老人の息子
凭浜高司尊 異世界の知的生命体。大樹形態
桃生 異世界の生命体。養いの実をつける
少しばかり威力の上がったみみ子のガメハメハで、薄くなった雲に向かい、晴美が弦の音を放った。
ほんの小さく、青い空が覗く。
そこから広がる光に薄闇が押し退けられ、大地にわずかな生気が生まれる。
二人の努力が、変化をもたらした。
三ヶ月前には見えなかった変化が、ようやく目に入るようになった。
凭浜門守と凭浜高司尊を囲むように、下草が芽生えていた。
日陰植物のように、ひ弱で頼りないが、みみ子たちが来る前には無かったものだ。
みみ子は凭浜高司尊の枝に手を置き、話しかけた。
『健やかなる若者に助けを求めれば、速やかに事が進むのやもしれませんが、
このような婆では、遅々としてはかどりません。
なれど、我が身を危うくせずにすむ伝がありません。
力不足を思い知る今日この頃です』
『否、光を感じるまで、千年待った。
待った甲斐があった。この地は、滅びを待つのみであった。
そなたらの助け、ありがたく思うている。礼をしたい。
幸い、桃生が長き眠りより覚めた。
桃生の枝に養の実がなる。それを好きに食すが良い。
人の身に病あらば癒し、人の身に歪みあらば正し、
生きるのが易くなるはずだ。
左に半町ほど進めば、桃生がある』
「えっ、半町って何キロ?」
美晴が困った。
「えーと、一町が六十間じゃなかったけ。ということは、三十間。
一間が 1.8メートルとして……」
「1.8×30は、……小数点の付いた計算を暗算なんて、計算機を持ってきてないわよ」
「谷戸さん落ち着いて、18×3でいいんじゃない」
「あらやだ、それなら暗算できる。54よ。54メートル。近いわ。
いやあねえ、年を取ると脳も小回りが利かなくなって。行きましょ」
二人は行ってみた。
低い木があった。
手を伸ばせば届く高さに、横に伸びた枝があり、実が二つ生っていた。
赤ん坊の握りこぶしくらいの大きさと形だ。
枝に触れてみる。
『どうぞ召せ。人の身に良いように実らせてあります。
いにしえに訪れし人の病を癒しました』
みみ子と晴美は遠慮しなかった。
還暦を過ぎれば、どこかしらに不調が出るものである。
治るというなら大歓迎だ。
『光あらば、また実らせましょう』
「美味しい。薄味だけど、甘くて酸味もあって、旨味もある?」
「薄味の酢豚?」とみみ子。
「いえ、その言い方はどうかしら。乱暴すぎるわ。
食べているうちに、複雑でいろんな味がしてくるもの」と晴美。
『あっ、中にある黒っぽいものは種でしょうか。
植えれば、増えたりしますか』
みみ子の問いに、桃生は答えた。
『さにあらず。そは核にして、実の大切なり。
人の身に癒しを授けること大なり。必ず召せ。
地に植えても、吾にはならず』
「あ〜ん、種みたいに黒っぽいのが一番美味しい」
二人は、足取りも軽く、凭浜高司尊の元に戻った。
もはや二人がこじ開けた青空は消えようとしている。
二人は礼を言って、その日は帰ろうとしたが、高司尊から頼み事をされた。
『そなたらが、この地を立ち出て、他に渡る力を得たなら、頼みたきことあり。
これより西におよそ二十余里ほどの所に、大きくそびえる嶺あり。
天津聳地嶺とぞ いひけり。
頂が雲を突き抜けて、いと高く聳えるなり。
その地ならば、忌まわしき雲に負けず繁れるもののあるらし。
我が眷属を連れて訪れ、有様を見ること叶わば伝えて欲しい』
『眷属のみでは行けぬのでしょうか』
『うむ、中ほどに途切れたるありて、行くこと叶わず。
急ぐことではないが、心に留め置いてもらえればうれし』
二十余里ともなれば、行ける気がしない。
交通手段も無く、徒歩で行くしかないとなれば、年寄りには過酷だ。
「一里は約4キロだったわよね。80キロ……遠いわ」
晴美が西の方角を見て、ため息をつく。
『二十余里だから、それ以上あるってことよ。
凭浜高司尊、直ぐなる道のりでしょうか』
まっすぐで平らな直線距離だとしても、荒野のような大地だ。
一筋縄ではいかないかもしれない。
みみ子の悪い予感は当たった。
『いくらか険しい山がある。我が眷属はそこまでであった。
ケの道が通るのは、そこまでなのだ。
なにやら障りがあるのか、ケの道が消えておるのか』
若い頃のみみ子は健脚だった。
運転免許を持っていないこともあって、面倒になると歩いた。
公共交通機関が、いつも都合よくできているとは限らない。
たとえば、都内で地下鉄を二回乗り換えて行く場所も、地図を見れば、みみ子なら歩いて行ける場所だったりした。
駅の乗り換えの手間を考えれば、時間がさほど変わらないこともある。
社内旅行の幹事になった時は、たいていハイキングを企画した。
最後に出発してどんどん皆を追い越し、先頭で最終地点に到着していた。
鎌倉の短いコースでは、迷子を保護したあげく、山道を走り抜けた。
その頃だったら、行けた気がする。
若返りたいと思ったことは無かったが、ここは若返っておきたい。
次の<をちみづ>は、忘れずにたっぷりと汲んでおこう。
そう思っていたのに、ある朝山本家にトラックが乗り付け、人の出入りで騒がしくなった。
トラックには、引っ越し業者の名前が書いてある。
様子を見に行った。
息子夫婦が、てきぱきと業者の指示を出している。
山本老人の息子周二に声をかけた。「お引っ越しですか」
「まだうろちょろしてたんですか。
老人ホームが見つかったので移します。
半端な値段で泣き寝入りをするのは嫌なんだけど、何年もごたごたして親父を放っておくわけにもいかないんでね。
……正直に言うと、本当に買うとは思わなかったよ。
まあこれで、係わり合うこともないでしょうから一安心です」
「どちらの老人ホームですか。連絡先を教えてください」
「何故教えなくちゃいけないんですか」
「ほら、季節のご挨拶とか、お届けものとか」
「要りません。郵便局に届けを出すので、ここに物は届きません」
「お引っ越しの忘れ物があったら、お知らせできますよ」
「残っている物は、処分してください」
けんもほろろにあしらわれた。
みるみるうちに荷物がトラックに運び込まれて、遠ざかって行った。
見えなくなるまで見送ったみみ子は、開けっ放しのドアから家の中に入った。
ゴミ袋に入ったゴミらしき物が、いくつか残っていた。
いつも山本老人が使っていた部屋は、きれいに空っぽになっていた。
しかし台所には、大きなゴミ袋と箒とバケツが転がっていた。
他の部屋も回ってみる。
納戸にしていたらしい部屋には、古ぼけた茶箪笥と丸いちゃぶ台が残っている。
「おお、懐かしい。最近は、昔のホームドラマでしか見ないわ」
ほぼ物がなくなっていたが、年代物の洋服ダンスと仏壇が残っていた。
「ほうら、忘れ物があるじゃないの。あれっ、もしかして、わざとかな。
処分し難い物を残したとか。私に片付けろってこと?」
連絡先を知らないので、文句を言えないじゃないか。
ぶつぶつと愚痴りながら、みみ子は退散した。




