12 店子に挨拶して お引っ越し
登場人物
空原 みみ子 異世界の入り口を見つけた婆さん。
凭浜高司尊 異世界の知的生命体。大樹
メゾンフェリシアの住人たち
犬井 咲子 短大の同窓。ケアマネージャー
谷戸 晴美・山本老人
メゾン・フェリシア改め月見荘の売買契約手続きが進んだということなので、みみ子は住人への挨拶回りを始めた。
大家とアパート名が変わることを伝える為だ。
203号室に住むのは、みみ子と同年代の女性。一人暮らしだ。
用件を伝えると、すかさず「家賃は上がらないわよね」と返した。
「はい、上げません」
「アパートの名前が変わるのは助かるわ。めんどくさかったのよ。
小さな「エ」が大きくなったり、抜けたり。
月見荘なら字画も少なくて、書きやすいわね」
「お知り合いへのご連絡は、それぞれ連絡していただかなくてはならないので、そこだけは、ご面倒をかけます」
「う〜ん、それくらいなら、しょうがないか。ぼちぼちやるわ。
これからもよろしくね大家さん」
「こちらこそ。出て行くと言われたら困るなあと思ってました」
「そんな面倒なことはしないわ。引っ越しって大変だもの」
203号室は、めんどく下がりだった。
301号室は怪奇現象研究家だ。七十代くらいに見える。
「分かった。『メゾン・フェリシアの怪奇』に『月見荘の怪異』か。
どちらも悪くない」
怪奇現象以外はどうでもいいらしい。
301号室の玄関先から大岩の渡り門がよく見えた。
この部屋の前の住人は、一時行方不明になった少年の一家だ。
アパートを囲むフェンスは低い。
いたずらな小学生が乗り越えるのは簡単だったろう。
最初に起きた事件の真相は、概ね解けた。
302号室は中年の男性だ。
怪奇現象研究家の知り合いらしい。
何をしているのかは不明だ。簡単に済んだ。
503号室は、みみ子よりも年上の女性だ。
行方不明になったまま戻らない老人の妻だった。
「主人が戻って来た時に分かるかしら」
「外観には手をつけません。
捜索願を出した警察署に、連絡先の変更を届けたらどうでしょう」
「そうねえ。知り合いにも全部連絡するわ。
主人が帰ってくるまでずっと居るつもりだから、よろしくお願いしますね」
さて、どの部屋に住もうか。みみ子は悩んだ。
高い所が好きだから、第一希望は501号室だ。
101号室は管理人か大家が住む予定だったのだろう。一番広い。
エントランスに向かって、小窓があり、呼び出し用のインターフォンがある。
アパートの管理は、前から契約している管理会社に継続してもらうことにした。
常駐の管理人を雇うのはお金がかかる。
みみ子は素人だが、分かりやすい101号室に大家が住むのは、住人にとって安心材料だろう。
一人だから、広くなくても良いんだけどなあ。悩んだ。
隣の山本さん宅が騒がしい。
聞こえてくる声は、息子夫婦の声だ。
それなら、心配ない。
がめついけれど、父親を心配しているのは本当だろう。
みみ子は考えた。
なるべく隣家に近いほうが、いざという時に駆けつけやすい。
101号室が良いかな。
そうと決まれば、引っ越しの準備だ。まずは不要品の処分。
みみ子は帰途についた。
◇ ◇ ◇
思い切って不要品や古くなったものを処分したので、引っ越し荷物は少なくなった。
らくちんおまかせパックとやらを使って、みみ子は引っ越した。
古くなった家具も処分してしまったので、部屋の中はガラガラである。
ロボット掃除機を買った。
翌日の朝、犬井咲子から電話があった。
「困ってることはない? 手伝えることがあったら、手伝いにいくわよ」
犬井の住む家は、隣の駅だ。
独り者のみみ子を何かと気にかけてくれる。
「大丈夫。色々捨てちゃったから、まだそろってない感じだけど、
良かったら、暇な時に遊びに来て」
「行く行く。見たーい。飲み会はできそう?」
「前の部屋よりずっと広いから楽勝よ。
大きなテーブルを買えば、人数も増やせるわよ」
以前は三人までしかゲストを呼べなかった。
そうだ、大きなダイニングテーブルを買ってしまおうと思いついた。
電話の後、巻き尺を使い、ちょうど良さそうな大きさをメモして、みみ子はカメハメハをやりに出かけた。
近くて楽だ。引っ越して良かったと思った。
凭浜高司尊に、近くに越したから来られる回数が増えると伝えた。
「私の力が及ばず、あまり効果が無いのが残念ですけど」と言えば、
「否、動かなかった世界が僅かながら変わりはじめている。そなたの力は上がってきている。
<をちみづ>が効いたのやもしれぬ。伝え忘れていたが、二十九日と少し毎に泉の力が満ちる。
次は、三日と半日後に案内を出そう」
機会を一回逃したことに気づいて、みみ子はもったいないことをしたと残念に思った。
忘れていたのなら仕方がない。
前回は夜中だったが、三日と半日後なら、今度は夕方になる。
少し助かる。
「あんまり若返った気がしないんですが、多少身体が動きやすくなったかもしれません。
泉に行きます。あの水は、他の人に飲ませても大丈夫ですか?」
「年寄りであれば、かまわぬ。若人には止めておくが良い」
空のペットボトルを用意しようと企むみみ子であった。
<をちみづ>を谷戸晴美に飲ませた。谷戸は調子が良くなったと言った。
山本老人にも飲ませた。全然分からないと言った。
若返りの水といっても、十も二十も若返るわけではない。
例えば、二〜三歳若返ったとして、六十歳を過ぎていれば個人差の方が大きい。
九十歳を過ぎれば、もはや誤差の範囲だ。
まだ山本老人を凭浜高司尊に紹介していない。
現代日本の町中と違って、異世界の地面は野生だ。勾配も凸凹もある。
しっかりしているとはいえ、慣れない場所で転び、怪我をされたら怖い。
老人の転倒事故は、寝たきりにつながってしまうことが多い。
みみ子としては、連れて行ってやりたいが、当分先になりそうだ。
様子を見に来た、と犬井が来た。
近くに地域のケアセンターがあり、そこで障碍者の集まりがあったついでだと言う。
犬井は手話通訳に呼ばれた帰りだ。
<をちみづ>を出した。
口をつけた犬井は、美味しいとゴクゴク飲み干した。
「それ、若返りの水だからね。元気になるわよ」
犬井は驚いて、空のコップを見た。
宗教だろうか。怪しい通販だろうか。疑っている顔だ。
異世界に行ったと言った時、ずいぶんと心配されてしまった。
「お金はかかってないから、大丈夫よ」
みみ子が言っても、安心した様子はない。
さりげなさを装って、犬井は続けた。
「私の担当じゃないんだけどね。変な勧誘に引っかかって、おかしなものを買わされた人が居るのよ。
貯金を全部を巻き上げられちゃって、もう大変。
年寄りは、良いカモにされるのよ」
みみ子はドキッとした。
呪われたアパートを衝動買いしたなんて知られたら、もっと心配されそうだ。
打ち明ける度胸が、今は無い。
「今日は用事があるから、今度、猫を誘って、ゆっくり遊びに来るわ」
猫とは、猫田ゆかりのことだ。
学生の頃から、大の猫好きだった。
結婚の決めてが、相手の苗字だったことから、すっかり猫と呼ばれている。




