1 ババアは青空に浮かぶ白い龍を見た
年金を下ろしたので、お菓子を買おう。
みみ子は機嫌良く歩いていた。
よく晴れた散歩日和である。
空気は冷たいが風は無い。
美味しいケーキ屋があると聞いた気がする。
そこを探してみよう。
今まで通った事がない方に行ってみる。
どうせ時間はいくらでもある。
興味本位で始めてみたブログも、近頃は毎日書いていない。
おいしそうなケーキを見つけたら、ネタになるかもしれないし。
探してみたがケーキ屋は見つからない。
通りがかりの人がいれば聞いてみようと思うが、誰も通らない。
そうこうするうちに、緩い坂道の先に林というか、とっても小さな山が見えた。
私鉄沿線の住宅地だが、たまに、開発に取り残されたようにそんな場所もある。
立ち止まって、何気なく見上げて驚いた。
白い龍がみみ子を見ていた。
龍?
何故に、住宅地に龍。
近頃はCGとかプロジェクションマッピングとか、みみ子には理解できない怪しい技術があるらしいが、人の居ない住宅地でそんなことをするとは思えない。
しかも、良く晴れた青空だ。
青空に浮かぶ白い龍。
長く生きていると、思いもかけない事にも遭遇するものだ。
年ごとに初体験は少なくなる。
だが、龍はすごい。
お近づきになれたら自慢できる。
元々は生け垣だったのかもしれない木々に、破れ目があった。
なんとか通れそうなので、龍に近寄った。
婆になると、遠慮というものがなくなる。
「こんにちは。お初にお目にかかります」
龍に話しかけた。
相手が龍だから、丁寧を心がけた。
龍の頭が下がって、みみ子の頭の少し上くらいになった。
返事は無かったが誘われているような気がした。
誘われたら行くしかない。
そうやって六十五年間生きてきた。
ゆっくりと近づいた。さらに近づいた。
なのに、近くならない。
また近づいた。
近づくにつれて、龍が引いている。
道路を外れておかしな所を進んでいるような気がしたが、ここで見逃したら、また会えるとは限らない。
龍との遭遇なんて、見逃す手はない。冥土の土産にできる。
かまわず近づくと、突然暗くなった。
夜の暗さではない。
今にも降り出しそうな重く暗く雲がたれ込めている。
厚着をしているのに寒い。
驚いて振り向くと、すぐ後ろに赤い鳥居のようなものがあった。
人が三〜四人連れ立って通れるほどの大きさだ。
鳥居のようなものに囲まれたところが、陽炎みたいに空間がゆらいで見える。
周りを見回したが、白い龍が居ない。
暗さと湿った空気のせいで見通しは良くないが、枯れかけた木々らしいものがぽつぽつと立っている他は、荒れた丘があるだけだった。
鳥居のようなものの脇に大きな木があった。
立派な木なのに、なんだか元気が無いように感じた。
みみ子には、なんとなく分かる。
植物を育てたり増やしたりは、わりと得意だ。
元気の無い植物も、水や肥料ばかりではなく、大事にして励ました方が元気になることがある。
亡くなった母親は、育てるのが下手なくせに、よく植木を買ってきては駄目にしそうになるたびに、「みみ子、なんとかして」と言ってきた。
なんとかした。
だから、いつものように励まそうと幹に手を当てた。
とたんに、木が喜んでいるのが明確に伝わってきた。
《おお! ぴかりよ〜。ありがたや》
そんなふうに聞こえた気がした。
「ん? ぴかり?」
思わず答える。
《そなたは、ぴかりの巫女なのか》
「みこじゃなくて、みみ子」
《我は、凭浜門守なり。みみ子殿のぴかりを、ぜひとも凭浜高司尊にも与えたまえ》
みみ子の頭の中に巨木の姿が浮かんだ。
目の前の木とは違う木だ。これが凭浜高司尊なのだろう。
崇高ささえ感じられるほど立派だが、やはり元気が足りない。
こんなにはっきり木とコミュニケーションが出来たのは初めてだ。
植物に話しかけたことはあっても、返事が返ったことは無い。
それが普通だ。
この木なんの木気になる木、名前は知ってるけど。
正体が不明だ。
ところで、問題は「ぴかり」だ。
みみ子が与えたらしい。
いったい何を与えたのやら、分からなければ、いかんともしがたい。
古代日本語では、ハ行の発音がパ行だったと聞きかじったことがある。
母がパパだったらしい。
そこからすると、もしかして、光なのだろうか。
みみ子は手提げ袋をあさった。
途中で立ち寄った百円均一で買ったLEDライトが入っている。
手の中に納まるほど小さな懐中電灯だ。
いざという時に便利そうだと買った。
いざというのは、今でも良いはずだ。
目の前の木のあちこちを照らしてみた。
特に変化はない。
幹に手を当ててみた。
《否、光が薄くなって久しいが、それではない。
そなたからは希少な宙のぴかりを感じる。この世界を蘇らせる力なり》
違うらしい。
みみ子は自分を見るが、光ってはいない。
光る婆になっている様子は無い。
生命エネルギーのようなものだろうか。
昔読んだ「気」の本を思い出し、気を集めるつもりで腹式呼吸。
体内を巡らせたつもりで、掌から放出してみた。
一時、ちょっとはまったのだ。
気功使いにはなれなかったが、やり方だけは知っている。
《心地よい力を感じるが、それでもない。宙のぴかりじゃ》
なにかしら、出たらしい。しかし違うらしい。
はて、そらのぴかりとな。
もしかして宇宙線かな?
ああ、放射線かもしれない。
わりと最近大地震があって、原発が事故った。
直接被害が出るほど近くはないが、放射能が遠くまでまき散らされたはずだ。
子どもの頃は、太洋上で核実験が盛んに行われ、流れる大気にのってきた雲から降る放射能雨を浴びた。
当時は、雨に濡れると禿げると脅されたものだった。
健康診断や歯の治療の度に、レントゲンを撮った。
そこそこ放射能が溜まっていても不思議じゃない。
今のところ確かめようが無いが、役に立つなら、まっ良いか。
そう思って、みみ子は木に問いかけた。
「凭浜高司尊は何処におわしますやら、近くであれば、伺いますが」
《おお、ぜひぜひ。その丘の頂じゃ。すぐ近くにおわします》
なんとなく方向は分かったが、薄暗いばかりで木は見えない。
行ってみて分からなかったら戻れば良いかと、丘を登った。
よる年なみに足腰が弱っているので、ゆっくりだ。
なかなかにしんどい。
途中で、ポッキリと折れたような中途半端な切り株状のものにつかまって、呼吸を整えた。
たいして歩いていないのに情けない。
《むむ、むむむ。おお、ぴかりか。いとうれし》
ずんぐりむっくりの切り株が喜んでいた。
一枚だけ残っている葉が、寝起きのようにふるりと揺れた。
《ふ〜む、礼をしようぞ。
なんじゃこりゃ。意味は分からぬが、おぬしならば役に立てられるのではなかろうか》
頭の中に色とりどりのカラーボールが転がった。
ビリヤードの球みたいだ。それぞれに番号が書いてある。
しかし、ビリヤードの球ならば1から9までだが、二桁の番号もある。
七つがきれいに並び、少し間を空けて二つ。合計で九つの球だ。
何か意味があるのだろうか。
「覚えきれないので、メモをとっても良いですか」
《メモとは何じゃ》
「覚え書きを書き留めてもよろしいでしょうか」
《かまわぬ。ところで、これが何か分かるのか》
「さあ、さっぱり。でも、役に立つとおっしゃったではないですか」
《そのはずじゃ。じゃが、役に立つのは明日までらしい》
役に立つというなら、無視するのはもったいない。
暗号だろうか、クイズだろうか。しかも期限付き。
後で考えてみよう。
振り向いてみると、赤い鳥居のようなものがうっすらと光って見える。
気をつけないと迷子になりそうだ。
もう少し進んで見つからなければ、戻ろう。
しばらく進んだ。
ぽつりと枯れ木はあったが、凭浜門守から受けたイメージと同じものではない。
目の前がやけに暗い。というか、黒い。
あれっと思って見上げれば、恐ろしく大きな木が立ちふさがっていた。
大きすぎる。大きすぎて見えなかったらしい。
これだ。
この巨木を励ませば良いのね。
みみ子は近づいて、幹に優しく手を当てた。