迷い、決意
(1)
赤い果実の物語のことを、鷹美はときどき思い出します。簡素なつくりのベッドに横になって意識を失うまでの短い時間に、そのお話は闇の中に灯る明かりのように鷹美の心をあたためます。けれど、町が平穏だった頃に繰り返し読んでいたそのストーリーはいつも途切れ途切れで、特に結末は記憶から完全に失われていました。
「旅をしようじゃないか。いのちを齧って、赤くなるまで」
うわ言のように、覚えている台詞を声に出しました。主人公は赤い果実を求めて、いくつもの土地を渡っていきます。強い風や冷たい雨、差別や暴力を乗り越えて、どこまでもどこまでも。
(わたしは……なんなんだろうね)
ひとりで暮らして、何の情報も蓄積されない毎日なのに、過去の記憶が少しずつ削られていくのを彼女は感じていました。英雄でも魔物でも冒険者でもないひとりの自分は、いつか全てを忘れた骸になることを知っていて、それでいいんだと思っていました。
「旅をしようじゃないか! いのちを齧って! 赤くなるまで!」
仰向けになって叫んでみたけれど、言葉は闇に吸い込まれて、そのあとひとつ乾いた咳が出ただけでした。
(……どこかへ行くべきなんだろうか、わたしは)
歩くことが苦痛なのではなく、歩いた先に何もないことが恐ろしくて、鷹美はどこにも行けずにいます。魔法の力を秘めた赤い果実、そんなファンタジーを今の現実に求めるほどの愚かさも勇気も、いつの間にか心から削がれていました。
窓の外の雷鳴は強くも弱くもならず、けれど今夜は責めるように鳴っている。そんな気がして、鷹美は顔を隠すように毛布を被って夜を過ごしました。
夜明けを少し過ぎてから目を覚まして、乾パンの朝食を済ませた鷹美はロビーを訪れ、壁に貼られた地図に目を遣りました。大きく描かれた砂鳩町の地図の北端には現在地である健康センターが、少し南東に下ると通っていた学校があります。子どもにも分かるようにと、建物の場所にはイラストも描かれていました。
地図上ではここからずっと南に行くと、天獄市への道があります。地図の縮尺は書かれていないので、どれくらいの距離があるのかはよく分かりません。西と東の町境の向こうは灰色で塗られていて、そこに何があるのかは描かれていませんでした。
(死にに行くようなものかもしれないのに)
(何もしたくないわたしは、何を望んでいるんだろう)
ぼうっと地図を眺めたまま動けない鷹美を責めるように、快晴の空から雷鳴が響きます。
(2)
干し草の在庫が切れたことを伝えられても、凰流は驚きませんでした。ここ数日、晩にだけ飲む汁に浮く干し草の量が減っていることには気付いていて、桜華が口にするまで黙っていたのです。
「……ごめんなさい」
「あァ、問題ねェヨ」
実際、生きていく上での問題はないように思えました。一日に一度だけ飲むこの汁が自分の生命を繋いでいるとは考えていなかったし、それは桜華にとっても同じだろうと思いました。
それならば、どうして自分たちは生きていられるのか。それは分からないままですが、考えても仕方のない事だと割り切っています。ただ、ひとつだけ、
「スープ、作りてェカ?」
「……うん」
小さな頷きでしたが、それで十分でした。全く美味しくはないけれど、スープをつくるのは桜華の役割で、大切な仕事です。桜華がそれを大切にして、半ば生き甲斐のようにやってきたことを凰流は知っていました。
「分かッタ」
そう言うと凰流は身体を横たえて、瞼を下ろしました。少しでも早く、朝が来ることを祈るように。