砂鳩町健康センター
(1)
電気も水道も死んでいるけれど、住処から二時間ほど歩くと巨大な貯水池があります。朝日とともに目を覚まし、貯水池まで水を汲みに行くのが桜華の仕事でした。空のペットボトルを何本もリュックサックに詰め込んで住処を出る時には、既に凰流の姿は消えています。
桜華はどれだけ記憶をたどっても、凰流以外の人間に出会った記憶がありません。人間どころか犬も猫も鳥も、図鑑などで姿を知っているだけで目にしたことはありませんでした。貯水池に生き物がいないことを不思議に思うような知識もなく、栄養を摂らなくても倒れることのない自分の身体に疑問を持つこともありません。何も知らず、けれどそれを恐れることのない桜華には、凰流に生かされているという感覚だけがありました。
朝日を背に歩き始めた桜華の耳に、どこからか雷鳴が響きます。雷鳴という言葉も凰流に教えてもらっただけで、桜華は雷というものを目にしたことがありません。
「電気の塊が落ちてくるんだよォ」
「電気?」
「んン、エネルギーの塊で……火事になったり死んだりするよなァ」
こんな感じのやり取りばかりなので、ぴんとこないことが日常のほとんどです。それでも桜華には悩みもなく、凰流が帰ってくるまでに汲んだ水で干し草の汁をつくることを役割として暮らしていました。
(それとも……)
(凰流に殺されるなら、それでもいい)
凰流と生きていたいけれど、凰流に殺されるならいい。桜華の願いはそれくらいで、そんな願いすら叶えられなかった骸を踏みながら貯水池を目指します。
(2)
「あーあーあーあー」
鷹美はマグカップを置いて、眼鏡の奥の目を細めました。コーヒーはすっかり冷めて、苦いだけの液体に変わっています。少し前までは過ごしやすい陽気だったので散歩くらいはしたのですが、この頃は涼しすぎて屋内に籠ることが多くなってきました。
デスクの上でディスプレイを光らせるコンピュータは動作が遅く、それでも彼女と世界を結ぶ唯一のアイテムには違いありませんでした。電気も水道もガスもある、ここは砂鳩町の北端に建てられた健康センターです。
「あーあーあーあー」
嗤っているのか嘆いているのか、鷹美自身にもわからないまま眺めているディスプレイには、「死ね」「お前が死ね」「殺す」「映画面白かったね!」「不信感募る」「改善提案?」などと、次々に言葉の切れ端が現れては消えていきます。彼女はそれに応える手段を持たず、コンピュータを壊すこともせず、ときどき面白い言葉を見つけるとノートに書き留めて暮らしていました。健康センターという名に恥じることなく、二階建ての広い建物にはトイレやベッド、風呂場まであるので生きることには不自由しません。食糧は災害用の備蓄庫から持ってきた缶詰や飲料があり、彼女ひとりなら何年でも生き延びることが出来そうでした。
飢餓、疫病、暴力。日常が壊れる前の鷹美は砂鳩第二中学校に通う学生で、未来のことなんて考えようともしませんでした。中央の町から運ばれてくる本を読み漁って、物語のような世界に憧れては嘆息していました。そして、二十歳をとうに過ぎた今でもそれは変わっていません。砂鳩町と両隣の町は壁のような鉄柵で断絶されているため、目指すなら中央の天獄市しかないのですが、鷹美はそこへ向かおうとはしませんでした。
家族が死に、家が燃えてしまったため仕方なく近くにあった健康センターを訪ねて、たまたまひとが出払っていたここを占拠するように住み始めてもう十年ほどです。独り占めするようなことをして申し訳ない、と鷹美は思いませんでした。自分の生命を守ることを最優先に生きると決めて、デスクに向かうばかりでは身体に悪いと思い、簡単な体操は毎日欠かさずに行っています。人恋しいと思うこともなく、思ったところで鷹美の体力で歩ける範囲に生きている人間はいません。
「退屈」「実験中止!」「やっぱり殺す」「あと数ヶ月」次々にディスプレイに現れる文字を目で追いながら、鷹美は遠くの町やそこに暮らす人々に思いを馳せます。手に入れた書物はすべて読み終えてしまったので、今はこのコンピュータが読書の代わりでした。
(思いを馳せた、満足した、そろそろ寝よう)
そうやって彼女は暮らしてきたし、そうやって彼女は暮らし続けていくつもりです。
ごろごろと、閉め切った屋内でも雷鳴は響いて、ときどき心を揺らします。大好きだった物語のような世界の中で、勇者にも魔王にもなれないまま、鷹美は生涯を終えるはずでした。