episodeN. 少女の記憶〜Girl's memory〜 II
今思えば、私は何がしたかったのだろう。
何がしたかったのかも、私は忘れてしまっていた。
たぶん、優しくしてほしかったのだろう。
たぶん、助けてほしかったのだろう。
たぶん、寂しかったのだろう。
たぶん、辛かったのだろう。
でも、それは憶測だ。
それは憶測でしかなく、それは仮説であり、それは思い込みだ。
根拠なんてない。
本当は違うことを思ってたのかもしれない。
私は、分からない。
分からないというより、記憶がない。
改めて問う。
私は、何がしたかったのだろうか。
私は、何のために棋士になろうとしてたのだろうか。
私は、何のために生きているのだろうか。
【間隔】
目を開くと、そこは知らない場所だった。
私の知らない家。私の知ってる家に比べると明らかに広くて、立派で、心地よくて、綺麗な家だ。
この状況に、不自然に思いながらも、私はむくりと上半身を上げる。どうやら私は他人の家のソファーの上で寝ていたらしい。そして、ぼやけた視界に一つの太い声が聞こえる。
「起きたか」
私の目の前には、初対面ながらも知ってる人物だった。
名前は山垣渉。
プロ棋士だ(当時七段)。
若手棋士の筆頭格で今一番勢いがある棋士だろう。
将来タイトル獲得が期待視、有望視されている棋士で、そういえば最近念願の初のタイトル挑戦者を決めている気がする。
私がそんな人を知らないわけがない。
「山垣……せんせ?」
私は堅苦しいのは嫌いだが、奨励会員とプロ棋士は天と地ほど差がある。堅苦しいのは嫌いだが、それよりもめんどくさいことはもっと嫌い。ここは上下関係をハッキリさせよう。
山垣渉は机に肘をついて、爪を噛みながらつまらなさそうな顔で、ジロリと目を動かし合わせる。
私は焦った。
何かやらかしてしまったのではないか、と。
でも、それはすぐに否定された。
私が忘れるわけがない。
やらかすほどのことをする理由も記憶もない。なんなら、何かやらかした程度で記憶を消して困るのは自分であって、それは私自身ががよく分かってる。そんなことで私が記憶を消すわけがない。
となると……。
私はうっすらと嫌な匂いがした。
すぐにポケットに手を突っ込んで、スマホの電源をつける。
……やっぱり。
その画面を見て、納得した。
私は、察した。
私はスマホを開いて、ゲームをするためとかSNSを見るためとかのために電源を付けた訳ではない。
私は今日の日付を見たのだ。
そこで、気がついた。
ここ3日ほどの記憶がほとんど抜け落ちている。
嫌な予感は確信となった。私は忘れたのだ。
私は戸惑いながらも、深く深呼吸した。
「……あの?」
と、困惑してみるも、この澄み切った視界と思考の先には、この状況の大体のことは分かっていた。
「ふーん、これが」
「……?」
「アイツの、ねぇ」
山垣は私の全身をゆっくり見る。
じろじろ見られる。
男の人に熱い視線で見られるのは、なんというのか、変な感じだ。
「なんですか」
「んー……」
真剣。
プロ棋士の滲んだ表情で、じりじりと思考する。
じっくり間を置いた後、彼は口を開く。
「お前ほんとにアイツの娘かぁ?」
「何なんですか!」
山垣は薄くニヤッと笑って、視線を変える。
「いんやぁ、ほんとにアイツの血入ってんのか?似てなさすぎるだろ」
「じゃあ母に似たんじゃないですか。知らないですけど」
「じゃあナニ、性格は父に似ているってのか。それはそれでめんどくせぇな」
私の性格を知ってるのであれば分かるだろう。私は弄られるのが好きではない。どちらかというと弄ってる方が好きだ。……このままでは先手を取られたままだ。
これは味が悪い。ここは話題を変えて……。
「……それで、父のことを知ってるのですか」
私はそう切り出した。
流れを変えるため……の切り出しではあったものの、これは純粋な疑問だった。
山垣はすっと肘を付き、唇を歪ませて、言う。
「寝ぼけてんのか。俺、アイツと同期だよ」
……ああ、なるほど、そういうこと。
「知らんかったのか」
「ええ」
「ああ、まぁ、そんなわけだよ」
ここで、私は知りたかったことの全てを察した。
まず、なぜここにいるのか。
それは父を亡くし、両親を亡くしたことで住所不定の身になった私を、父と同期で交流のあったこの人が引き取ったのだろう。
そして、この人との関係、成り行き。
それは……。
「師匠、私と今から一局指してください」
山垣は「ヒュー」と口笛を鳴らす。
「噂通り、天才は違うねぇ」
それは、この人が私の師匠になったからだろう。
将棋界には内弟子というものがある。師弟と暮らして将棋に励むものだ。私が山垣に内弟子にするように頼んだ、もしくは将棋連盟が私を内弟子に取るように申し出た、おおよそどちらかだろう。
どちらにしても都合がいい。私はプロの夢を諦めずに済んだのだ。運がいい。
「起きてすぐ勝負って、血の気が多くて参るね。これが若いということか」
「師匠も十分若いですよ」
「いくつ?」
「14です」
「俺もうすぐ30」
「でも将棋界ではまだ若手ですよ」
「俺は何も言ってないぞ」
「あら、失礼しました」
「そもそも若手とベテランの堺ってどこなんよ」
「老け顔かそうじゃないか、じゃないですか」
「ああ、なるほど。一理あるな」
そう雑談しながら、私たちは移動していた。
部屋に入ると、一つの将棋盤。
七寸版。部屋の真ん中に堂々と置いてあった。
「しかし俺が弟子を取るとはなぁ、おかげでこんなモン買わなきゃいかなくなった」
「いくらしたのですか」
「聞くなバカ」
綺麗な盤、綺麗な駒。
AIを使った勉強が主流になっている今、盤駒を使って勉強している人は少なくなっている。現に彼もその一人だったのだろう。
でも、私を弟子に取るから盤駒が必要だろうと、わざわざ揃えたのだろうが、ここまでいいのものはパッと買えるものではない。
そこまでしてくれるのは、正直暖かかった。
しかしここまで記憶がないなりに考えて、状況を把握して、綱渡りながらも上手くいったとは思うが、それでも根本的に分からないところが一つだけあった。
なぜ記憶がないのか。
なぜ山垣渉の弟子になったことの記憶がないのか。
私は任意で記憶が消せる以上、そこを消す必要があったのだろう。
なぜ?
そんな素朴で重要な疑問はあったものの、それは考えないように、盤に沈んでいった。




