第002話「教育方針」
「これが《はな》です。わかりますか?」
「は、な?」
「そう。花です。色んな花があって綺麗ですね」
「きれー」
「......うちの子は天才かもしれません」
舌足らずな言葉でマリアのセリフを繰り返すアリス。
そんな姿を見てマリアは感激のあまり天を仰いだ。
アリスの誕生から3日が経過した。
今彼女は革のソファに腰掛けたマリアの膝に乗せられ、腕に抱え込まれる形で本を眺めていた。
その本には様々な植物や動物が描かれており横にはその名前がかかれている。
幼児用の知育には向いていない、かなり専門的な植物図鑑だった。
アリスはその本のページをぺたぺたとたたきながらマリアの言葉を繰り返していた。
「子供の教育というものは初めてなのですが、果たしてこれでいいのでしょうか」
アリスの見た目は人間でいうとおよそ5、6歳の子供だ。
けれどもまだ立つこともできなければ、まともに会話もできない。
誕生してまだ三日なのだから知能に関しては当然かもしれないが、少なくともまるっきり人間の子供と同じように育てるというは違う気がする。
「さて、どうしたものですかね......っと」
ぼんやり考えていると暇を持て余したのかアリスが腕の中でもがき始めた。
本を横においてアリスを膝から降ろす。
床に降ろされたアリスは「むふー」となぜか得意げにこっちを振り返り、ぽてぽてと床を這いながら部屋の中を徘徊し始めた。
支配からの脱却である。これが親離れというのか。
泣きそうだ。
アリスのために準備した部屋。
とはいってもあるのは本棚とベッドぐらいのもの。
机も用意はしたがどれもが大人用だ。開いている部屋をそのままアリスに明け渡しただけである。家具もなにもかもが彼女にとっては大きすぎた。
新調することも考えたが当の本人が目をきらきらさせながら徘徊し続けているのでマリアはこれでもいいかと妥協したのである。
部屋の中には本棚がいくつかと、窓際にデスクが一つ。
ベッドも子供には少々大きすぎる大人用だ。
特段目を引くようなものがあるわけではない。
それでもアリスは、まるで冒険でもしているかのようにベッドの上ではいつくばったり、机の上によじ登ったり、本棚の本を取り出してはかじり付いたりしている。
見た目はただの好奇心旺盛な子供だった。
「あむあむ」
「本はかじったら駄目ですよ」
「んぇ?」
アリスが好きに部屋を徘徊している姿を横目でみつつ、マリアは再び思考に頭を巡らせた。
今のアリスは好奇心に突き動かされ、見るものすべてに心引かれているようだ。
本を見せればぺたぺた叩き、一度覚えたものは決して忘れない。
言葉を教えてみれば何度も何度も口にして、一度話したものも決して忘れない。
子守歌を聞かせてみれば目をランランとさせ、いつの間にか一人で口ずさんでいる。
乾いた砂に水がしみこむように吸収してしまう。
教育の進みには問題がない。問題なのは与える知識の選別だ。
与えれば与えるほど彼女は吸収してしまう。気になるのは、結果として必要のない知識まで与えてしまうのではないかという点だ。
「私では参考になるとは思えませんし。私以外との存在の触れ合いも検討するべきですかね」
コツコツ
そんな風に考えているとガラスを叩く堅い音が響いた。
窓を見るといつのまにかアリスが窓際のデスクによじ登っており、窓のガラス越しに外を見つめていた。
外からは家の周りで療養していた動物たちがこちらをのぞいており、アリスと見つめ合っている。
アリスが窓にぺたりと手をつけると大狼もそれにあわせる形で鼻先を押しつけた。
途端にアリスの表情がぱーっと明るくなる。
両手をぺたぺたと窓に押しつけると、そのたびに他の動物たちもガラス越しにアリスの手に合わせるように鼻先や手や嘴をおしつけた。
「ふむ」
動物との触れ合い。
これも確か子供の情操教育には最適解の一つだったはずだ。
別段動物に限らずとも生物というカテゴリーで言えば植物との触れ合いも良いだろう。
加えて彼女の《出自》を考えればなおさらだ。
「とはいえはじめから外に出すのも少し不安ですし。この子が歩けるようになったら外へ、それまでは室内で触れ合える動物に限定しますかね」
相変わらず窓越しにぺたぺたと動物たちと触れ合ってはキャッキャと笑っているアリスを横目にマリアはそんな算段を立てていた。
◆◆◆
ぺたんと床に座るアリスの目の前に一匹の小動物を連れてくる。
部屋に入ったマリアを見てまたいつものように読書の時間が始まると思っていたアリスは、マリアの胸に抱えられていた動物を見てぽかんとした表情を浮かべていた。
「コレは《フランベール》という動物です。わかりますか?」
「......」
いつもなら始めて聞いた言葉はすぐに自分の口で繰り返し声を出すアリスは、今回ばかりは目の前の動物に意識が釘付けになっていた。
フランベールもまた一切動かない。
動かずにただじっとアリスを見つめ返している。
アリスも最初はただ固まっていたが、少し前のめり気味に這い這いして近づく。
目の前までくるとゆっくりと手を近づけた。
フランベールはアリスの手が耳に触れると一瞬ビクッと震えたものの害がないとわかると自らアリスの手のひらに自分から身体を押しつけ始める。
今度はフランベールからアリスの膝によじ登り、膝の上で丸くなってくつろぎ始める。
それまでぽけーっとした表情を浮かべていたアリスの表情がこれまで見せたことがないほどパーッと明るくなった。
まるで壊れ物を扱うようにそっとその背中をなで始める。
「ふむ」
そんな様子をソファに座って見ていたマリアは想像を越えた目の前の現状に満足げに感嘆を浮かべた。
アリスの出自を考えればフランベールといえど手懐けることはできるだろうとは予想はしていた。
けれどまさかアリスが『壊れ物を扱うようになでる』とは想像していなかった。
確かにアリスには人工感情基盤プログラムはインストールされている。
けれどそれはあくまでまだ赤子のものだ。
生まれたばかりの感情にはまだ喜怒哀楽もはっきりしていない。
そんな中で『気遣い』なんてものはまだ生まれていないはずだった。
「生まれて三日でまさかここまで成長しているとは思いませんでしたね」
子守歌だけではなく様々な歌を聞かせたことだろうか。
絵本だけではなく様々な物語を語ったことだろうか。
どれがアリスの感情の成長に大きな影響を与えたのかはわからない。
悪くはない。悪くはないが。
「今後の目的を考えると、あまり『ブレーキ』を作ってしまうのは良くないのですが」
自分以外の生物との触れ合い。
自分以外の存在との距離感を測るのには向いているだろう。
けれど少なくとも現段階で『他者への尊重』なんてものはアリスには必要ない。
とすればどうすべきか。
アリスにとっての他者を『感情』で理解させるのではなく『知識』として理解させる。
マリアはそう結論づけた。
「アリス」
「?」
身体によじ登ってくるフランベールとじゃれ合っていたアリスはきょとんとした顔を浮かべてマリアを見つめ返す。
「いや、なんでもありません」
無邪気な顔で小動物と触れ合う我が子。
そんな顔を見せられてしまえば、毒気が抜かれてしまった。
教育は早い方がいいだろう。けれど今くらいは。
自身の思うがままに動物との触れ合いを楽しませてあげたいと思ったのだった。
それが『彼女』の願いでもあったのだから。
《フランベール》
見た目は耳の長く、後ろ足が発達した兎だ。
尻尾も長細く、その先は爪のように硬質化していた。
灰色の毛並みやクリっとした瞳は非常に庇護欲をそそる見た目をしている。
けれども自然界で彼らを見つけるのは至難のわざだ。
なぜなら彼らの警戒心の高さは動物界でも随一と言ってもいい。
外敵はおろか同種、ひいては自らの親や子に対しても警戒心を露わにし逃げ出したり攻撃したりする場合もあるという。
そのため産後まもなく巣から逃げ出したり、親という存在を受け入れられずショック死する個体もあるため成体になれる数自体が極端に少ない種なのである。
結果としてフランベールは人間たちの間でも自然界においてでも特別に希少種として認識されており絶滅危惧種の一つに数えられている。