斧の少女
バイトを終えた俺が最初に違和感を覚えたのは、交代にきた夜勤の新人(34歳)の言葉だった。
「今日はやけに寒いね。なんかこう、背筋が寒くなるっていうか、そんな感じ」
新人――小林さんは、世界を旅することが趣味なちょっと変わったナイスミドルだ。鍛えているのか筋肉が盛り上がっていることが特徴だ。ここでバイトを始めたのは次の旅への資金集めらしい。
小林さんは旅ではよく危険に遭うらしく、危険察知の能力がとても優れているらしい。そんな小林さんが真剣な顔で言うので、思わず唾をのみこんだ。
「まあ、ここは日本だからさ。安全だからね。僕の勘違いかもしれないけど気をつけてね」
小林さんの注意に、そうですね、と相槌を打ちながら先ほど来た女の子の言葉を思い出していた。
『今日は悪意が活発です。ですから遠回りして帰ってください。いいですか? これは警告です』
いや、これはただの偶然だ。ていうか何で女の子の中二っぽい発言を真に受けているんだ俺は。
俺は、首を振ってその不安を振り払った。小林さんはどうやら見てなかったらしくゴミ箱の掃除を始めていた。
小林さんに、お先に失礼します、と言ってからコンビニを出た。
確かに少し肌寒いが、季節は6月で梅雨だし、なんら不自然を感じるようなものもなかった。
「やっぱり考えすぎか」
何をそんなに不安がっていたのか。偶然が重なると人間は疑心暗鬼になるというのは本当なんだな。
俺は、自転車に乗って自宅に向かって漕ぎ出した。
次の違和感に襲われたのは、自宅に着くまでもう半分ぐらいまで来た時だ。
ゾクっとまるでなにか首筋に虫が這うような、そんな寒気を感じた。
自転車を止めて、首筋を確認する。もちろん首には何もついてなかった。
「いやいや、不安になりすぎでしょ」
本当に、恥ずかしい。まさか20歳にもなってあんな偶然でびびるなんて。これでは中二な女の子のことも笑えないな。
そんなことを思いながら漕ぎ出そうとした時、今までの違和感が確信に変わった。
「なんか、いる」
姿は見えないが、なぜか分かった。自分の目の前に何か異物の存在がいた。何かを引きずるような音を出しながら何かが近づいてきている。
逃げなければならないはずなのに、体がまるで凍ったように動かなった。呼吸もうまくできなくて、ひゅう、と情けない音を出しながら必死に呼吸をしていた。
そんな俺をあざ笑うかのようにゆっくりと異物は歩いて近づいてきた。その距離がおよそ十メートルほどになった時、異物の姿を視認できるようになった。
異物は小さい体だった。俺のおよそ半分ほどで、体色は緑一色。とがった耳をして顔は例えようのないほど醜悪だった。引きずっていたのは、木の棒なものであった。
――間違いなく、人間ではない。
それを確認してなお、俺の体は動かなった。この感覚はどこかで味わったことがあった気がしたが、今はそんなところではなかった。
「うごけうごけうごけ」
俺は、自分に言い聞かす。動かなければどうなるかわからない。そんな俺の醜態を見て、目の前の異物は笑っていた。いや、醜悪すぎて表情が分からなかったが、そんな気がした。
気が付けば、異物は目の前まで来ていた。恐怖というのはこんな感じなのか、体は諦めのような状態に入っていた。近くまできた異物、今度ははっきりと笑っているのがわかった。
異物は、木の棒をゆっくりと持ち上げた。よく見れば、木の棒は異物の倍以上の大きさしていた。こんなでかい棒で殴られたら、ただでは済まない。最悪死ぬだろう。
だけど、体は動かなかった。ああ、だめだ。
逃げるのを諦めて来る衝撃に備えて目をつぶった。走馬燈は浮かばない。
次に来たのは、殴られた衝撃ではなかった。投げられた浮遊感だった。そして尻から着地だった。めちゃくちゃ痛い。
「あたた…… いったい何が……」
異物は俺を殴ると見せかけて、投げたのだろうか。それにしては引っ張られるように投げられたような。目を開けて現状を確認する。何が起きたのかを確認するためだ。
目の前には、斧を持った少女がいた。綺麗な短い黒髪に白磁色の肌、小さい体だがバランスの取れた肢体。いつもコンビニに来るとき、制服の恰好できて、いつも焼き鳥を嬉しそうに買っていく少女だった。
「警告したはずです。遠回りして帰るようにと。まぁ、信じるわけないと思ってましたが」
少女は溜息をしながらこちらを向いた。まるで、困った子供を見るような目つきだった。
俺は聞きたいことが多すぎて、何から喋ればいいかわからなく、口をパクパクさせていると、少女は俺から目線を異物に移した。
「話は後です。とりあえず、この悪意を排除します」
異物は自らの攻撃を邪魔されたからなのか、キャシャアア、と奇声をあげていた。そんな声にも少女は意も介さず、右手を上げる。
「破壊と蹂躙によって悪意を浄化させます。来てください、ハルムベルテ」
次の瞬間—―少女の右手には巨大な斧が握られていた。少女よりも長く、先端には大きな三日月状の刃が取り付けてある。あれだけバランスが悪ければ持つことさえ困難なはずなのに少女は軽く、まるで木の棒を持つかのように簡単に持ち上げていた。
その異常な光景はどこか幻想的で、先ほどまで危険なんて忘れて俺は少女に見入っていた。
「では、行きます」
そう言ってから、少女は目の前の異物に向かって走り出した。異物は持っていた木の棒を構えるが、おそらく意味はないだろう。先ほどまで大きいと思っていた木の棒も、少女が持っている斧に比べたら圧倒的に短い。
俺が予想してように、少女はいとも簡単に異物を木の棒ごと切り伏せていた。戦いにならなかった。異物はか弱い声をあげながら、霧状になって消えた。
「浄化完了しました」
—―本当に、今何が起こっているだよ……
あまりにも非現実すぎて頭がついていかない。よくわからない怪物に襲われたと思ったら、焼き鳥大好きな少女が斧でたたき切った。俺はいったいどこのファンタジーに巻き込まれたというのか。
「大丈夫ですか?」
いつの間にか近づいてきた少女は斧を持ってなかった。そういえば、あの斧もどこから出したかわからないし、もうわけがわからない。
「あ、ああ……大丈夫、だと思う」
なんのか返事することができた。自分で体を確認したが、怪我らしいところはなかった。唯一、投げ飛ばされたときに打った尻が痛いぐらいだ。
「そうですか。では」
俺の返事を聞いて満足したのか、少女は背を向けた。おそらく帰ろうとしているのだろう。本当はいろいろ聞きたいが、聞いてしまったら後には引けない気がするのでやめておく。
これが世の中で生きていくための処世術である。ていうか、ぶっちゃけ早く帰りたいし、巻き込まれたくないので帰してください。
少女が帰ろうと歩を進めた時だった。
『これこれ、何帰ろうとしておるんじゃ』
どこからか、皺枯れたような声が聞こえてきた。本当なんですか。早く帰らしてください。お願いします。
どこからか聞こえてきた声の在処は、少女の胸ポケットに入った携帯だった。
「悪意の排除は終わりました。帰ってもよろしいのでは?」
『説明責任という言葉を知らんのか? そこのいかにも凡人っぽい少年は命を失いかけたのじゃぞ。しかるべき説明というのは必要じゃて』
いや、そういう説明とかいらないから。早く帰してください。明日、小テストがあるんですよ。
そんな俺の願いも通じず、少女と声は会話を続けている。
「警告はしました。それに説明したところで何も意味がありません。むしろこのまま、あなたが記憶を消せばいいのではないのですか? それがあなたの仕事でしょう、サポーター」
『そうしようとお前の戦いが終わってからやっているのだがな、どうにも上手くできん。この意味、お前にも分かるだろう?』
「まさか……素質があるということですか」
『それはわからん。ただ、記憶を消せないとすると、最低限の説明と口止めが必要じゃろう?』
「確かにそうですね…… わかりました。後は私が説明しておきます」
少女と声はなにやらよくわからない会話を終えた。俺は立ち上がって、自転車にまたがった。会話の内容は聞こえなかったが、少女も帰ろうとしていたし、大丈夫だろう。しかし、自転車を漕ぎ出そうとしたところで少女に呼び止められた。
「待ってください。私もついていきます」
帰る道が同じ方向なのだろうか。いや、さっき逆方向に帰ろうとしてなかったか? 嫌な予感がしたので聞いてみた。
「えーと、君の家もこちらの方向なのかな?」
「何を言っているのですか。あなたの家で説明をするのでついていくと言っているのですよ」
あなたが何を言っているんですか…… 説明とかいらないし、こんな時間に男の部屋に来るのもまずいでしょ。どうにかして断ろう。
「えーと、あー、明日じゃ駄目かな?」
「駄目です」
駄目らしい。ぶっちゃけ面倒くさいので直球で断ってみた。
「嫌だと言ったら?」
「無理やりついていきます」
ついてくるらしい。琴吹朱鷺、20歳にして初めて中学生ぐらいの女の子を夜中に部屋に連れ込む。どう見ても事案ですね、ありがとうございます。