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コメディ

走れ鴨巣

作者: 水野 真二

 鴨巣は激怒した。必ずやこの無知蒙昧な闇金王から借金を踏み倒さねばならぬと決意した。鴨巣には法定金利がわからぬ。鴨巣は、無職のニートである。アニメを見て、ネットで遊んで暮らして来た。だから邪悪に対しては、ネラーとして敏感であった。きょう未明、鴨巣は家を出発し、目黒から山手線を乗り継ぎ十駅はなれたこの秋葉原の駅へやって来た。鴨巣には父も、母もいる。女房は無い。二十六の、内気な妹と四人暮らしだ。この妹は、仕事先の或る律儀な公務員を、近々、花婿として迎えることになっていた。結婚式は今日なのである。鴨巣は、それゆえ、妹の結婚式から逃げるようにはるばる秋葉原にやって来たのだ。今日は帰るつもりは無い。


 鴨巣には竹馬の友があった。田中である。この秋葉原の町でゲームショップの販売員をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。リアルでは久しく会わなかったのだから、訪ねていくのが楽しみである。歩いているうちに鴨巣は、街の様子を怪しく思った。立ち止まって見ても、いつも通り賑やかなのだが、何か雰囲気が違う。思い過ごしかと歩き出したところで若い衆に捕まった。何があったのかわからぬうちに、雑居ビルの一室に連れて行かれたのだ。一体何なのだ。両脇に抱えられ無言のまま歩かされたため、のんきな鴨巣も不安でたまらなかった。


「お前、殺されたいのか」

 現れた男はあたりに響く低声で鴨巣を脅した。

「なぜ殺すのだ」

「お前が借金を踏み倒そうとするからだ」

「この前借りた5万円はいずれ返す。今日は見逃してくれ」

「お前、自分の借金がいま、いくらなのか知らないのか」

 闇金の王と呼ばれたその男は鴨巣に明細を見せた。鴨巣がフィギュアを買うために負った借金は複利がかさみ、100万の大台を突破していた。

「おどろいた。算数は苦手だ」

「明日にでもお前の家にいくつもりだったが手間が省けた。今日この場で返せ」

 鴨巣は激怒した。

「呆れた理屈だ。許しておけぬ」

 鴨巣は、単純な男であった。闇金王に飛び掛って行った。たちまち彼は、周りの若い衆に取り押さえられた。鞄も取り上げられ、中からは先ほどかっこいいからという理由で購入したエアガンが出てきたので、状況が悪くなってしまった。

「この玩具の銃で何をするつもりだったんだ。言え」

 闇金王は鴨巣の額にエアガンを突きつけて静かに、けれども威厳をもって問いつめた。闇金王の顔は色黒で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。

「友人とサバゲーをしたいと思っただけだ」

 鴨巣は正直に答えた。

「おまえがか?」

 王は、憫笑した。

「仕方の無い奴だ。おまえは、遊ぶことより働いて借金を返す努力をすべきだろ」

「言うな!」

 と鴨巣は、いきり立って反駁した。

「友人との絆は何より大切なものだ。それを蔑ろにするのは最も恥ずべき悪徳だ。お前は、私が借金を返さないと疑っているだろうが、それは誤解だ」

「疑うのが、正当の心構えなのだと、俺に教えてくれたのは、おまえたちクズ野郎だ。人の言葉は、あてにならない。人間はもともと私欲の塊さ。信じれば馬鹿を見る」

 男は落ち着いて呟き、ほっと溜息をついた。

「俺だって、返済を望んでいるのだが」

「生憎だが払おうにも手持ちが無い。残念だったな」

 こんどは鴨巣が嘲笑した。

「金の無い人間を捕まえて、何が返済だ」

「だまれ、クズ野郎」

 男は、さっと顔を挙げて報いた。

「お前に金が無ければ、ある奴から毟ればいい。連帯保証人を連れてくる。待ってろ」

 後ろ手に縛られ事務椅子に座る鴨巣は地団駄を踏んだ。ものも言いたくなかった。


 竹馬の友、田中はすぐに雑居ビルに連れてこられた。よき友とよき友は、リアルで二年ぶりで相逢うた。鴨巣は、友に一切の事情を語った。田中は無言で首肯き、鴨巣を一発張り飛ばした。友と友の間は、それでよかった。田中も、闇金王に張り飛ばされた。田中も借金まみれで、到底鴨巣の借金を返すことができなかったためである。

「こうなりゃお前たち、どっちかは覚悟してもらうぞ」

「僕は関係ありません。全部鴨巣の借金です。命だけは助けてください。そうだ、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい」

 鴨巣と違い、田中はそこそこ利口だった。鴨巣にキャッシングローンのやり方を教えたのも田中だった。だが鴨巣の連帯保証人になるくらいには、ぬけた男だった。

「とんだ友人だな。おまえらの言う友人の絆ってのも、所詮この程度か」

 闇金王はほくそ笑んだ。鴨巣は泣いた。これまで友人と信じ、何よりも深い絆で信頼しあっていると思っていた相手は、しかしそうではなかったのだ。

 だがしかし、たとえそうであっても友人を巻き込んだのは自分だ。少なくとも田中はなんとか逃がしてやれねばならぬ。

「ああ、あんたの言う通りだ。自惚れていた。この借金は私の借金だ。ちゃんと払う覚悟で居るのに。夜逃げなど決してしない。ただ、――」

 と言いかけて、鴨巣は足もとに視線を落し瞬時ためらい、

「私に情をかけてくれとは言わん。ただ、今日の夜まで待って下さい。たった一人の妹が、今日亭主を持つのです。その祝儀の金を持って、必ず、ここへ帰って来ます」

「ばかな」

 と男は、しわがれた声で低く笑った。

「とんでもない嘘を言う。逃がした小鳥が帰って来るというのか」

「私は約束を守ります。私を、今日の間だけ許して下さい。そんなに私を信じられないならば、よろしい、彼を、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、今日の24時まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい」

「なぜお前たちは、絞め殺すことにこだるのだ」

 しかし鴨巣の言葉に、王は考えをめぐらせた。どの道、無一文の人間に返済は無理だ。もう少し借金を膨らませて家族の資産を狙う手も考えてはいたが、鴨巣の両親もリストラの憂き目に会ったばかりで貯金もなさそうだ。加えて最近は貸し玉が少ない。ここは手堅く、現金収入を選ぶべきだろう。

「願いを、聞いた。その祝儀の金を取って来るがよい。今日のうちに帰って来い。遅れたら、おまえの借金は、さらに増えるぞ」

「なに、何をおっしゃる」

「はは。当然だ馬鹿。金利は日割りだ」

 鴨巣は、すぐに出発した。初夏、快晴の空である。



 鴨巣はその後、一休みもせず十の駅を急ぎに急いで、ホテルへ到着したのはまだ午前、式はつつがなく終了して、出席者たちは会場に行って披露宴をはじめていた。鴨巣の二十六の妹も、きょうはウエディングドレスに身を包んでいたいた。よろめいて歩いて来る疲労困憊の姿を、鴨巣の母は見つけて驚いた。そうして、なんとか鴨巣が会場で目立つことがないように外へ連れ出した。

「なんでも無い」

 鴨巣は無理に笑おうと努めた。

「アキバに用事を残して来た。またすぐアキバに行かなければならぬ。さっさと退散する。早いほうがよかろう」

 母は頬を叩いて泣いた。

「悲しいかな。こんな兄がいては花嫁も困るだろう。さっさと戻って、参加者たちに知られぬよう。結婚式は、宴たけなわだ」

 鴨巣は、また、よろよろと歩き出し、控え室へ戻って部屋部屋の棚を漁り、受付の席を調べ、間もなく床を這って、呼吸もせぬくらいの静かさで祝儀袋の束を手にすると、一目散に走り去ろうとした。

 気づかれたのはエレベーターの手前だった。お色直しに戻った新婦が取るものもとりあえず駆けつけたのだ。 鴨巣ほどの男にも、やはり良心の呵責というものは在る。祝儀袋の束を見て呆然、戸惑っているらしい花嫁に近寄り、

「おめでとう。私はお呼びでないから、ちょっとご免こうむって帰りたい。これから、すぐにアキバに戻る。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばん嫌いなものは、作画に文句を言う事と、それから、原作レイプだ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん酷い男なのだから、おまえもそれだけは秘密にしろ」

 咄嗟に出た言葉は矛盾だらけだったが、なんとかエレベーターが閉まるまでの時間は稼げた。鴨巣は笑って受付嬢たちにも会釈して、ホテルから立ち去り、電車に飛び乗って、息を整えた。緊張の糸が切れ、山手線で死んだように深く眠った。



 眼が覚めたのは22時頃である。鴨巣は跳ね起き、南無三、乗り過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに折り返せば、約束の刻限までには十分間に合う。今日中に是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って借金を叩き返してやる。鴨巣は、悠々と停車した駅を確認した。さて、鴨巣は、ぶるんと両腕を大きく振って、乗り換えホームを目指した。

 私は、今宵、借金を返す。利息の膨らんだ借金を返す為に戻るのだ。借金地獄を打ち破る為に戻るのだ。戻らなければならぬ。

 そうして、私は社会的に殺される。若い時から名誉などなかった。さらば、ふるさと。もはや若くは無い鴨巣は、つらかった。幾度か、引き返そうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら電車に乗った。品川を出て、田町を横切り、新橋をくぐり抜け、東京に着いた頃には、動悸も収まり、そろそろ寒くなって来た。鴨巣は額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや家族への未練は無い。妹たちは、きっとよい夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに秋葉原に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。このまま行こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。脚をぶらぶらさせて、そろそろ東京と神田の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、電車がはたと、とまった。

「緊急停止信号を受信しました」

 聞けば、電車のアナウンス。近くの駅で非常停止ボタンが押されたとか。待てど暮らせど電車は動かない。時間だけが刻一刻と過ぎてゆく。鴨巣は床にうずくまり、男泣きに泣きながらJRに手を挙げて哀願した。

「ああ、動きたまえ、この電車よ! 時は刻々に過ぎて行きます。時計の短針も既に11を指しています。あれが長針と再度合わさるまでに、ビルに行き着くことが出来なかったら、あのよい友達が、私のために死ぬのです」

 電車は鴨巣の叫びをせせら笑うが如く、ますますもって動かない。乗客は沈黙し、とくに煽り立てる者もいないなかで、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今は鴨巣も覚悟した。車内から出るより他に無い。ああ、警察も照覧あれ! 引田天功にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。鴨巣は、驚く乗客たちを尻目に緊急レバーを引いて扉を開け、暗闇の中ライトに照らされたレールを神田方面に向かって必死の力走を開始した。満身の力を脚にこめて、がむしゃらに走る。めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。レールと枕木に脚をとられながらも、見事、ホームの端に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。鴨巣はホームへ這い上がり、すぐに改札から躍り出て先を急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。時計の針は既に23時を回っている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら角を回り、回り切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の若者が躍り出た。

「待て」

「何をするのだ。私は今日のうちにアキバへ行かなければならぬ。放せ」

「放すかボケ。持ちもの全部を置いてけ」

「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから闇金王にくれてやるのだ」

「嘘をつけ。とりあえずジャンプしてみろ」

「さては、闇金王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」

 若者たちは、ものも言わず一斉に拳を振り挙げた。鴨巣はひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その隙に祝儀袋を物陰に投げ捨てた。

「気の毒だが正義が勝つのだ!」

 と猛然一撃、たちまち、三人に殴り倒され、残る者がひるむ鴨巣に止めをさした。一気に裸に剥かれ鴨巣は財布ごと所持金を失った。おまけに悪ノリした若者の一人が鴨巣の服を焼いたために全裸である。祝儀袋は無事であったものの、流石に狼狽し、折から通行人の奇異の視線がまともに、かっと迫って来て、鴨巣は幾度となく羞恥を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、ビルの陰に身を隠した。進む事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。


 ああ、あ、線路を走り、若者の暴力に耐えた偉丈夫、ここまで突破して来た鴨巣よ。真の勇者、鴨巣よ。今、ここで、恥ずかしくて動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて借金返済のために地獄を見ねばならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく闇金王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、心が萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。コンクリートの壁を背もたれにしてゆっくりと腰を突いた。精神が萎えれば、身体も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、それなりに努力したのだ。約束を破る心は、正直、それなりに有った。神も照覧、私は結局のところ、精一ぱいに努めて来たのだ。立ち往生するまでは進んで来たのだ。私は破廉恥の徒では無い。

 私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっとあざ笑われる。私の一家も笑われる。私は妹を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。


 田中よ、ゆるしてくれ。君は、あのとき、あの借金をするときに私を信じた。私も、返せるものなら返したかった。君は、本当によい友であったのだ。君に対しては、一度か二度くらいしか、暗い疑惑の雲を、胸に宿したことは無かった。いま、君は私を疑心暗鬼で待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、田中。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。田中、私は走ったのだ。君を巻き込むつもりは、みじんも無かった。それだけは信じてくれ!

 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。祝儀袋を奪取した。止まった電車の囲みからも、抜けて一気にここまで来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。闇金王は私に、ちょっと遅れて来い、と耳打ちした。遅れたら、日割りで借金が増えると言ったのだ。そうだ借金が増えるのだ。今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、今日のうちにはたどり着けないだろう。闇金王は、後日、私の家に来て笑い、そうして増えた借金で家族から金を取り立てるのだ。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に日陰者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。田中よ、私も死んでしまう。君と一緒に死んでしまう。それだけは嫌だ。たとえ、それが私の、ひとりよがりでも。

 ああ、もういっそ、変質者として走り出してやろうか。私には家が在る。親も居る。妹夫婦は、まさか私を許すような事はしないだろうが。だが、親が生きているうちは生活は安泰だ。前科だの、世間体だの、体裁だの、考えてみれば、くだらない。人を殺しても生きている人間はいる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、裸で走るぐらいがなんなんだ。しかし、そんなことをすれば一巻の終わりだ。やんぬる哉。――頭を抱え込み、とうとう、鬱状態になってしまった。


 ふと耳に、さわさわ、葉の擦れる音が聞えた。そっと頭を上げ、息を呑んで耳をすました。すぐ傍で、葉が揺れているらしい。よろよろ立ち上って、見ると、ビルの横に植えられた広葉樹の葉が風に揺れているのである。その葉に吸い込まれるように鴨巣は歩みを進めた。一枚千切って、股間に当てた。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。葉っぱ一枚あれば行ける。行こう。精神の安定と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。ネオンは明るい光を、夜空とビルに投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日付変更までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。疑い、戻ってくるわけがないと高を括っている人があるのだ。私は、疑われている。その鼻を明かせねば、収まりつかん。警察のご厄介になる、などと言って居られぬ。私は、借金を返さねばならぬ。いまはただその一事だ。走れ! 鴨巣。



 私は風だ。私は誰にも見えない。先刻の、あの葉っぱは、とうの昔に剥がれとんだ。いまは裸で走っている。悪い夢だ。明日には忘れてしまえ。精神が参っているときは、誰だって裸で走るものだ。鴨巣、おまえだけの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!私は、完済の客として生き返ることが出来るぞ。ああ、日が変わる。針が進む。待ってくれ、日本中の時計よ。私は生れた時から時計好きの男であった。だから、ちょっと待って下さい。

 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、鴨巣は黒い風のように走った。酒宴が終わり、その店の前にたむろう人込みのまっただ中を駈け抜け、看板を蹴とばし、交差点を飛び越え、少しずつ沈んでゆく秒針の、十倍も早く走った。一団のサラリーマンと颯っとすれちがった瞬間、こんな会話を小耳にはさんだ。

「いまごろは、あの男も、博多についてるよ」

 ああ、その男、その男のは博多に着いたのか。私も、いまこんなに走っているのだ。その男を着いているなら、私もたどり着く。急げ、鴨巣。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。鴨巣は、いまは、まごうことなき全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から涎が垂れた。見える。はるか向うに小さく、雑居ビルの看板が見える。看板は、ネオンを受けてぼんやりと見て取れる。

「ああ、鴨巣」

 うめくような声が、風と共に聞えた。

「誰だ」

 鴨巣は走りながら尋ねた。

「事務所の者だ。あの場にいたろ」

 その若い衆も、鴨巣の後について走りながら叫んだ。

「もう、駄目だ。無駄なんだよ。走るのは、やめろ。もう、いまさら走っても意味がねぇ」

「いや、まだ日は変わらぬ」

「ちょうど今、0時になった。ああ、おまえは遅かった。ざまあない。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

「いや、まだ日は変わらぬ」

 鴨巣は胸の張り裂ける思いで、赤く大きいネオンサインばかりを見つめていた。走るのはやめない。

「おい聞こえなかったのか。もう日付は変わったんだ。やめろ。走るのは、やめて話を聞け。いまはとりあえず服を着ろ。あいつは既に帰した。社長が言って聞かせて少しずつ返済することで話はついたんだ。お前もいくらか持ってきたのなら受け取るが、とりあえず裸で走りながら事務所に来るな!お前はいま裸なんだぞ!」

「それだから、走るのだ。裸だからから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしくものから逃げる為に走っているのだ。ついて来るな!余計に目立つ」

「くそっ、気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら」

 言うにや及ぶ。若い衆が振り返った先には警官が二人、必死の形相で追いかけてきていた。無線で連絡もしているようだ。最後の死力を尽して、鴨巣は走った。鴨巣の頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな恐怖に追いかけられて走った。時計の針は既に0時を過ぎ、まさにどう言い訳しようとも日が変わっていないとは言えないだけの時刻を過ぎた時、鴨巣は疾風の如く雑居ビルに突入した。扉は閉まり、明かりも消えていた。鴨巣は追いついた警官に、現行犯逮捕された。


「待て。これは不可抗力だ。服がないから走ったのだ。私は悪くない」

 と大声で叫んだつもりだが、喉がつぶれて嗄れた声が僅かに出たばかり、警官は、ひとりとして彼の弁明に気がつかない。すでに交番の前には、護送するためのパトカーが止まり、毛布に巻かれた鴨巣をつれて署へと向かう準備が進んでいた。鴨巣はそれを目撃して観念した。

「私は、鴨巣。借金を返すために走っていました」

 と、かすれた声で呟きながら、ついに警察署へと連行され。落ち着いてからは、夕食に出された弁当に齧りついた。警察は事情を聞いてすぐに捜査令状を取った。闇金の事務所は暴かれ、借金は帳消しになり、不当な金利に苦しむ債権者の枷は、ほどかれたのである。



「田中」

 後日警察署に事情聴取に訪れた田中と鴨巣は再会した。鴨巣は眼に涙を浮べて言った。

「私を殴らないでくれ。ちから一ぱいに頬を殴れたら、私は、二度と立ち直れない。殴ってくれるな」

 田中は、すべてを察した様子で首肯き、警察署一ぱいに鳴り響くほど音高く鴨巣の右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、

「鴨巣、僕を殴れ。同じくらい音高く僕の頬を殴れ。僕はこの前の件で、たった一つだけ、大事なことを知った。生れて、はじめて他人を信用してはいけないと、実感することが出来た。君が僕を殴ってくれれば、僕はその事を生涯忘れないだろう。君とも縁が切れるし」

 鴨巣は腕に唸りをつけて田中の頬を殴った。

「これまでありがとう、友よ」

 鴨巣はそう言い放ち、その場から走り去ろうとしたが、警官に止められた。それから留置場でおいおい声を放って泣いた。



 檻の中で、鴨巣は震えていた。とある禿親父は、逮捕者達の背後から鴨巣の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに鴨巣に近づき、顔をあからめて、こう言った。

「私の望みは叶ったぞ。君は、私の心の琴線に触れたのだ。真実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、私の仲間に入ってはくれまいか。どうか、私たちの願いを聞き入れて、パフォーマンスの仲間の一人になってほしい」

 どうやら鴨巣の姿を目撃し、変に誤解した輩らしい。

「万歳、露出万歳」

 ひとりの若者が、鴨巣の服を引っ張った。鴨巣は、まごついた。禿親父は、気をきかせて教えてやった。

「鴨巣君、君は、服を着ているじゃないか。早くその服を脱ぐがいい。この若者は、鴨巣君の裸体を、皆に見て欲しいと、たまらなく切望しているのだ」

 勇者は、ひどく赤面した。


(古伝説と、太宰治の『走れメロス』から。)

オチが酷い

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