第7章
「そういえばユリカって、そもそもなんで仲野さんと喧嘩になったの?不幸の手紙とか、エロサイトの伝言板で見ました的メールとか……仲野さんがそゆことするよーになったのには、やっぱ原因があるわけよね?」
わたしも、毎日学校へ真面目に登校するようになってから、わかることがいくつかあった。それは、仲野サユリがかなり本気でユリカのことを潰そうとしているというか――あの暗い情熱をもし自分に向けられていたらと思うと、わたしはかなりのところゾッとした。だから、ユリカの身の上に起きていることというのは、全然人事のように思えなかったのだ。
「ああ、あたしマリに言ってなかったっけ?とある日曜日に、あたしとサユリはおしゃれして街へ出かけたってわけなんだけど、とある二人組の男子にナンパされたわけ。ひとりはサッカーやってるスポーツマンタイプで、もうひとりはなんかちょっとパッとしない暗そーな子。でもふたりはプリキュアじゃないにしても、親友同士なわけよね。で、男子って変にそーゆーとこ、律儀だったりするじゃない?「オマエの好きな女に、俺は何があってもぜってえ手は出さねーから」的な。ここまで言えば、バカでもわかるでしょ?」
「えっと……」
わたしはバカだったので、ユリカの今の説明でも、イマイチ用を得なかった。それでも、わたしなりに論理的組み立てによって、類推してみることにする。
「え~っと、つまり、仲野さんが好きになったのは、そのスポーツバカ……じゃないや、サッカーやってる好青年で、でもその好青年はユリカのことが好きだってこと?」
「う~ん、惜しい!!ちょっとだけ違うんだな。その暗そうに見えるどっかオタクっぽい子が、サユリに一目惚れしちゃったらしいのよ。で、サッカー選手のほうはべつにあたしのことはどうとも思ってないんだけど、ふたりをくっつけるために協力してくれってメールを、その日から頻繁に送ってくるようになったわけ。そんで、サユリはサッカー選手のほうに一生懸命色目使ってたもんだから、そのことが我慢できなかったってこと」
「ふう~ん。なるほどねえ。結構難しいのね、女子の友情って……」
「っていうか、あの子、女王気質でしょ?だから、自分以外の他のメスは全員、フェロモン抑制して当然くらいに思ってんのよ」
わたしは放課後の司書室で、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を手にしたまま、絶句した。
「フェロモンを抑制って……」
「中学の時、理科の授業とかで習わなかった?アリは女王アリ以外のメスはフェロモンを抑制して、交尾したりしないのよ。サユリは言うなればその女王アリ、あるいは女王蜂って言ったところかな。べつにあたしもあの子にわざわざ逆らおうとか、そんなふうに思ってはいないんだけど……正直、なんか気持ち悪いのよね。そのうち家で放火事件でも起きたら、やっぱりあたし、サユリのことを一番に疑っちゃうわ」
「……………」
わたしはその時、ただ黙りこんで、何も言わなかったけれど――仲野さんがユリカに嫉妬する気持ちは、なんとなくわからないでもなかった。
仲野さんは今、自分を中心とした、可愛い子ばかりが集まっている五人グループの中心人物のように振るまっている。そしてそこから外されたユリカが、これからクラスでどんな惨めな思いをするかと期待していたのだろう。
ところがユリカは、わたしと仲良く行動を共にする道を選んだだけでなく、多人数の味方が必要となるシチュエーションの時には、その時々で実に絶妙なリーダーシップをクラス内で取っていた。
うちのクラスの男子というのは、基本的に勉強の出来る大人しめの子が多いのだけれど、わたしの見たところ、男子の大半は仲野さんよりも、さっぱりした性格のユリカのほうに惹かれているようだった。そのこともまた、これまで女王の座を誰にも譲ったことのない仲野さんの、神経を逆撫ですることだったに違いない。
「ところで話は変わるけど、マリのママって、相変わらず愛人と不倫してるの?」
「うん、たぶんね……毎朝早起きして、あたしのために朝食作って、お弁当も作ってくれて……そのことはそのことで感謝してるんだけど、なんか、自分は必要最低限の<主婦>としての仕事はこなしてるから、他のことで文句言わないでちょうだいって言われてる気もして、微妙な気分」
「いつも思うけど、マリってほんと、可愛いね」
ユリカはブラシで髪を梳かし、習慣の枝毛探しをはじめながら、そんなふうに笑って言った。
「あたしが思うにはね、その愛人とやらと、マリのことを天秤にかけた場合――マリのママの中で重いのは、絶対に娘のマリなのよ。夫や子供を捨ててもその人と添い遂げたいなんていうふうには、マリのママも思ってないんじゃないかな。うちって今、二歳になるちっちゃい弟がいるんだけど、そばで見てて、母親ってすごいなって思うもの。ただ、それと同時に親になるっていうのは、すごく大変なことだとも感じるわけ。で、これは子育てに限らずだけど、人間あんまり忙しすぎると、心のどっかに<虚無地帯>が現れるもんなのよ。そんで、その虚無地帯を埋めてくれるものが目の前に現れると、それに縋りついてハマっちゃうもんなの。マリのママも一時的にそうなってるってだけで……前にマリが言ってたみたいに、ある日家に帰ったら「マリちゃんごめんね」みたいな置き手紙があるなんてこと、絶対ないんじゃないかな」
「ユリカってさ、時々すごいこと言うよね」
わたしは感心するあまり、手に持っていた「アンナ・カレーニナ」の文庫本を閉じた。こんな長ったらしい文芸大作を何故わたしが読んでいるかと言えば――これもまた他でもない、不倫女性の心理を知るためだった。
「ああ、違う、違う。誤解しないで」と、ユリカは手に持っていた枝毛バサミを、空中でチョキチョキさせている。まるで蟹みたいに。
「あたしが言ってるのはね、ようするに物凄く所帯じみた話なんだから。継母のことをすぐ隣で見てて、そう感じるってだけの話。<虚無地帯>なんていう言葉を聞くと、なんかすごいことみたいだけど、うちの義母が現在ハマってるのが韓流ドラマだからね。子育ての苦労をそれで癒しながら、日々奮闘してるって感じ。ほんと、我が家の平穏はそれにかかってると言ってもいいくらいよ。あたしとなんとなく雰囲気的にギクシャクしても、弟か韓流ドラマの話さえしてれば、一気に問題が解決されちゃうからね。まったく、いやんなるわ。こちとら、もっとセンチメンタルでロマンチックなことで悩みたいってのに……自分が結婚した後の物語を、今目の前で展開されてるみたいな、微妙な気分」
わたしはこの時も、何げなくそんなことを言えるユリカのことを――とても羨ましいと感じていた。
わたしが書いていた携帯小説の物語は、ユリカと仲良くなったあたりから、中断したままになっている。何故なら、現実のほうで<ドラマ>と言えることが起こったために、虚無の世界ならぬ、虚構の世界で物語を構築する必要性が、わたしにはまったくなくなってしまったからだ。
たぶん十八歳頃になっても、わたしがサガンのようになれる可能性はまったくなかったといっていいだろう。ユリカのそばにいて、彼女のことを観察していると、つくづくそう感じる……そんなふうになれるのはおそらく、ユリカのような極限られた一部の人たちだけなんだって。