第3章
<マリー・ド・サガン>は、どこかクラシックな外観の、また店内もクラシックな家具で統一された、十八世紀半ばか十九世紀初頭で時が止まっているような雰囲気の喫茶店だった。
ただ、おかしなことに、カウンターを真っ直ぐ進んで左へ折れたところに座敷がふたつあり、そこは内装がすべて純和風だったことかもしれない。
わたしは自分が勝手に<奥座敷>と呼んでいるこの畳敷きの部屋がとても好きで、ここが空いている時には必ずここへ来て座る。そしてこの部屋が塞がっている時には、中二階の目立たない片隅に腰掛けて、客たちの残していったおかしな日記を読み耽るのだ。
もっとも、<客たちの残していった日記>などという言い方は、もしかしたら少しおかしいかもしれない。一階にある、CanCamやJJやananといった女性誌の置かれた棚の上方――そこには、表紙に「マリー・ド・サガン、2008.7~8月」といったように書かれたノートがびっしりと、古くは十年以上昔のものまで並んでいた。
店を訪れたお客さんたちは、気まぐれにこのノートにその時思ったことなどを書きつけ、時には別のお客さんがそのことに対し、一風変わった返事を書いていたり……わたしはこの時、この「サガン・ノート」なるものにすっかりハマりこんでいた。
きっかけは、自分の不登校の悩みを匿名によってつらつら書き綴っていた時、そのわたしの悩みに対し、とても丁寧な返事を何人もの人が書いてくれたということだった。
「そういうことってあるよね」とか「Fight!!」とか、さらにはもっと具体的に、自分の体験談を長く書き連ねてくれた人もいる……そして、まるで交換日記でもやりとりするように、わたしはその人物と長く文章のやりとりをし、とうとうその本人とこの喫茶店で出会ったのである。
「やっほー、マリ。大分待ったみたい?」
「ううん、それほどでもないよ」
奥座敷の間に顔を見せ、靴を脱いでそこへ上がりこんで来たのは、目下、わたしにとっての一番の親友、中川マキだった。
マキはわたしとは別の高校に通っているけれど、わたしたちは互いに意気投合するあまり、同じ大学へ必ず進学しようね!!という約束を、今から固く取り交わしている。
「マキさ、生徒会とか部活とか、色々忙しいんでしょ?なのに、わたしに無理してつきあってくれてるんじゃない?」
「ははっ。んなことはないさ。演劇部のほうは半ばユーレイ部員みたいなもんだし、生徒会書記なんて、べつにわたしひとりってわけじゃないからね」
マキは分厚いメガネをかけている上、鼻ぺちゃで出っ歯という、本人曰く「容姿的に非常なハンディを持って生まれた、可哀想な少女」だった。
でも、わたしはマキのことがとても好きだった。容姿が不細工目だから、自分が若干優越感に浸れるとか、そんな女子によくあるくだらない感情によってではなく、とにかく本能的に好きだった。そしておそらく、彼女のまわりにいる友人たちもみな、そうだったに違いない。
「それにあたし、前にもマリに言ったじゃん?あたし、学校ではかなり無理して自分を<作って>んのよ。だからこうたまーに疲れが溜まってきて、息抜きがしたくなるってわけ」
「えっと、なんだっけ。中学時代の悲劇を繰り返さないため、だっけ?」
「そそ。中学時代にひどいいじめにあってた、可哀想な中川マキとはさようなら~ってなるためには、多少無理してでも自分を作って、周囲に溶けこむ努力とか、そゆのをしてかないとね。でもほんと、マリが<サガン・ノート>に書いてたことにはびっくりしたよお。なんかさあ、かつての自分の悩みがそのまんま書いてあるみたいなんだもん」
マキはおしぼりで手を拭くと、ウェイトレスにフルーツパフェを注文していた。
「あはは。初めてふたりでここで会った時、思わず泣いちゃったよね。マキはノートがなくて、誰かがそれを書いてる最中なんだと思って……あの時、声をかけてくれて、本当に嬉しかった。あたしは臆病者だから、逆の立場だったら絶対マキに聞けなかったと思うよ。『あのう、もしかして……』なんてさ」
「そうかな。あたしは一目見た瞬間にビビッ!と来たけどね。この子が絶対にあのMちゃんなんだって」
わたしとマキは、サガン・ノートに色々な種類のペンで悪戯書きなどをしながら――互いの学校生活や家でのことをこの日も情報交換した。
「んん~、そっか。お母さん相変わらずなんだ。でもこっちも学校行ってないから、それであいこだとか、そんなふうにマリは思ってるわけ?」
「うんにゃ。それとこれとは別問題と思ってる。というか、そのうち何かが起こって……喧嘩にでもなったらいいんじゃないかとすら思ってるよ。『マリちゃん!これは一体どういうことなの!?』みたいにさ。第一お母さん、知らないはずないんだもん。学校から連絡来てないなんてこと、ないわけだし……にも関わらず何も言わないなんて、変じゃん。お母さんのほうこそ、自分が浮気してるっていう弱味があるから、あたしに何も言わないのかなとか、そんなふうに勘ぐっちゃう」
わたしは人前ではなるべく、ママのことをママとは呼ばない。小学三年生の時に、近所の意地悪な子が「ママだって!」と馬鹿にしたように笑って以来、外ではママのことは<お母さん>と呼ぶべきなのだと学習した。
「どうなのかなあ。我が家は夫婦仲が気味悪いくらい円満だから、その手の悩みだけはないのよね。だから具体的なアドバイスとか、何も思い浮かばないってーか……」
「いーの、いーの。マキには話を聴いてもらってるだけで、わたしにとっては十分助けになってんだから。それよかさ、例のMr.ロバート、今日も熱烈に愛されてるよ」
――正確には、<今日も>という言い方は絶対的におかしい。
というのも、Mr.ロバートというのは、<サガン・ノート>の1988年~1992年頃に時々登場する人物で、もしかしたらある女性の脳内のみに棲息する、妄想的人物でしかないかもしれないからだ。
「あっはは。マリ、好きだよね、Mr.ロバートネタ。なに?また新しいネタ見つけちゃった?」
「うん。今日のもね、なかなかスゴイよ。>>おお、ロバート!!どうしてあなたは私の元を去っていったの?こんなにこんなに愛してるのに……ホテルでのあの一夜をあなたが忘れても、私は決して忘れない、だって」
「ぶっははっ。まったく、なんの冗談だろね。しかもそういう記述の下には絶対って言ってくらい、>>妄想熟女。とか>>マヂ気持ち悪い。とか書いてあんのにさ。それにもめげずに、よく続けて書いてるよね。まあ、1988年くらいっていうと、今とは違って、ブログとか携帯小説とかがない時代だっけ?だからこういうところにこーゆーこと書いて、自分の創造性っていうか、創作性みたいなもんを発散してたのかもね、この<F>って人」
「うん。なんか途中から他の人にフジ子とかあだ名つけられてるしね。>>フジ子の妄想、ある意味サイコー!!とかって書いてある。あとこっちは、可愛いマモーのイラスト付き」
わたしがその、1989年6月のノートをマキに見せると、マモーが下半身丸出しにしているイラストを見て、マキがゲラゲラ笑いだす。
「ちょっと、やめてよお。絶対フジ子、このイラストの意味わかってなくない!?っていうか、自分がノート内でフジ子って呼ばれてることにも気づいてんのかどーだか……」
「でもさあ、文章を繋げて全部読んでいくと、最終的にフジ子ってロバートと別れてるわけじゃない?ロバートの祖国っていうのがどこなのかわかんないけど、彼はフジ子を捨てて、妻子のいる祖国へ戻っていった。そんでもってフジ子はそんな彼のことが忘れられず、いつまでもロバート、ロバート言ってて……なんかこの全部が嘘だとは、あたしには思えないんだ」
「部分的には何か真実が隠されてるってこと?」
フルーツパフェのさくらんぼを最後に食べて、マキは笑った。
「まあ、確かにイタイ女だよね、フジ子って。>>あたしを求める、あなたのあの熱烈な愛撫とかなんとか……これが仮に全部事実だとしても、もう少しこう、うまく文章的に表現して書けよって大抵の人が思うかもしれない。でもこの人、たぶんこの時、こんなことでも書かなかったらやりきれないくらい、ロバートのことが好きだったんじゃない?」
「そんなもんかね」と、マキはティッシュにさくらんぼの種を吐きだした。「あたしはこのロバートっていうのは、実は外人でもなんでもないんじゃないかと思うよ。たとえばさ、同じ会社の上司と不倫関係持っちゃって、でも彼は「妻とは<いつか>別れる」とか言ってて……けど、その<いつか>がいつなのかわかんないもんだから、そうこうしてるうちにも自分は年とるし、そろそろ結婚したいなっていう願望もあって、こんなふうに書いてたんじゃないかしらねえ」
「確かにそうかも。まあ、さらに最悪なのは、この文章がもしかしたら全部デタラメの創作かもしれないってことだけど。ロバートはフジ子の脳内のみに存在する理想の男で、彼女は彼とホテルで激しく抱きあったとかなんとか、妄想してただけなのかも。けどあたし、このロバートかフジ子って人のこと、探してみようかなって思うんだ」
「えっ、マジ!?でもどうやって?」
ブッと吹きだしてるマキとは対照的に、わたしはあくまで真剣だった。
「まあ、まずはマスターにこのこと聞いてみようと思って。そんでマスターも知らなかったら、ネットでホームページでも作って、この文章を全部繋げたものを公開しようと思うの。それでフジ子が名のりをあげてくれたらいいな~なんて思うんだけど、可能性低すぎる?」
「どーだろね。確率的には低い感じするけど……ま、暇つぶし的にやるだけやってみるのも、悪くはないかもね」
――わたしはこの日、喫茶店の客が少なくなった頃合いを見計らって、<マリー・ド・サガン>のマスターに<F>ことフジ子に心当たりはないかどうかと聞いてみることにした。
「う~ん。その頃っていうと僕はまだ、大学生くらいだったからねえ。夏休みや他の休暇中に実家へ帰ってきて、この店を手伝ったりもしてたけど……<サガン・ノート>を作ったのはこの店を開いた僕の親父でね。今は認知症になってホームに入ってるから、何か聞いても思いだすかどうか……」
「そうですか」
そのあとわたしは、マスターに<F>さんの文章をインターネットで公開しても問題はないかどうかと聞き、許可をもらってから――早速家へ帰り着くなり、<Mr.ロバートを探しています>というタイトルの、ホームページを作りはじめることにした。
ホームページなら、前にもひとつ作ったことがあるから、特にこれといった難しいことは何もなかった。ただ文章だけの、あとは背景に軽く素材の入った簡単なものでいいなら、半日とかからず作ることが出来る。
わたしはトップページの冒頭部分にまず、自分がふざけているのではなく、本当に真剣なのだということを、丁寧な文章によって書き記しておいた。そして、この時<F>さんがどんな気持ちでこの文章を書き綴っていたのか、その理由をどうしても知りたいのだということを、切実に訴えかけた。
そして、最後にホームページのデータをアップロードしてから――ドサリとベッドの上へ横になったのだった。
もちろんそう簡単にフジ子本人が見つかるとは、わたしも思ってはいなかった。もしかしたら悪質ななりすましや、通り魔的書き込みをする人だっているかもしれないと思う。
でもわたしは、どうしても知りたかった。>>あなたのあの愛撫を忘れることが出来ないという、<F>さんの気持ちを……そしてもしそのことがわかったとしたら、何故かはわからないけれど、ママの浮気を許せそうな気がしていたのだ。