破滅と前進〜禁忌〜
やわらかい春の陽気に包まれ、鳥は囀り、花が咲く。心地よいそよ風が、ふわっと頬を撫でる。
芹沢鴨は不機嫌そうに、境内へ横になる。屯所から程近いこの壬生寺の境内で横になり、昼寝をするのが芹沢の日課だった。正確には、自分の姿に恐れて寺から退散する子供たちの姿を見るのが好きなのだが、今日は生憎子供は居ない。
芹沢の目の前を、白い蝶々がひらひらとやってきた。蝶々は芹沢の顔の辺りを飛び、優雅に舞う。
芹沢は蝶々を手で払うかの様な、ごく自然な動きで真っ二つに斬り捨てた。音も、無駄な動きも全くない。
芹沢は何もなかったかの様に再び横になり、寝ようとした。そのとき……。
「お侍はんって、気いが短こぉて怖いわぁ」
背後から、ねっとりとした女の声が聞こえた。芹沢は面倒そうにゆっくりと振り返ると、女が微笑んで立っていた。歳は30前後だろうか。しかし、着ている着物は派手。真っ赤に塗られた口紅が嫌でも目に入る。
芹沢は以前、この女を見たことがあった。屯所の向かいに住んでいて、確か主人らしき男に家へ引き戻されていた。ということは、向いの前川家の家族か……。
芹沢はそんなことを考えつつも、自分には関係ないというように、女に背を向けて眠ろうとした。
「せやけど……」
女は芹沢の態度に小さくため息をつきながら言った。
「あんたの気持ち、よぉ分かるわ。ウチも蝶々、嫌いやもの」
芹沢はゆっくりと起き上がり、女の方に顔を向けた。
「知ったような口叩くんじゃねぇよ。昼寝の邪魔だ」
芹沢は威圧的にこう言うと立ち上がり、女の横を通り過ぎようとした。
その時、着物の裾に抵抗を感じ、立ち止まる。女が裾を掴んでいた。
「なんだよ」
芹沢は一段と不機嫌そうに言い、女の手を振り払おうとした。ところが、出来なかった。
女は、泣いていた。
さっきまでの威勢の良さは消え失せ、精一杯の力で芹沢の着物を掴み、一筋の涙を流していた。
「うちを……助けて……」
女は必死で芹沢に懇願してきた。芹沢は心の奥の忘れかけていた感情を、無造作に掴まれた気分だった。
その時……、
「お梅!こんな所におったんかっ!!」
お梅と呼んだ男は、以前この女を屋敷の中に連れ戻していた者で、芹沢は女の主人だと思っていた男だった。
男の怒鳴り声を聞いて、お梅は体をびくつかせた。そしてその場に凍り付いた。
「屋敷から出るなと言うたやろ!お前は何を聞いとんのや!!」
男はお梅に近付き、芹沢を掴んでいた腕を強引に引き寄せた。お梅は怯え、体は震えていた。
「だんなはん、ご迷惑おかけしました。後できつう言い聞かせます」
男は芹沢の方を向くと、媚びる様にこう言った。
何故だろう。
芹沢は無性に腹が立った。
男に対してか、お梅の涙に対してか……よく分からないが、この一連の流れがとても不愉快だった。
その後のことはよく覚えて無い。右手に少し違和感があるから、男を殴ったのだろうか。左手はお梅の細い腕をしっかり掴んでいる。
「あんた、なにしてんの。どうなってもうち、知らんえ」
お梅は状況が飲み込めず、混乱した様だった。逆に芹沢は表情一つ変えず、黙々と歩いている。
暫く歩いて、ある場所に着いた。壬生の屯所の前だ。
「み……壬生狼……」
お梅は軽蔑したような口調で呟く。
「俺はここの筆頭局長だ。お前が望むならここで暮らせる。あの男の所に戻りたいなら別だがな」
芹沢は面倒くさそうに言うと大きな欠伸をした。
お梅は迷わずに芹沢に告げた。
「ここに住む。ほんまにええんやね?」
芹沢はお梅を少し見て、何も言わずに屯所の中へ入って行った。お梅も芹沢に続いた。
この出会いは、禁忌だったのかもしれない。
恋と呼ぶには唐突すぎて、愛と呼ぶには未熟すぎる。
しかし、惹かれあってしまった。
出会ってしまった。
この先に待ち受けている破滅など露知らず……。