リアカー無きK村
身体を揺すぶられた気がして目を覚ますと、携帯電話の時計は20時。
暗い室内で断続的に運動をする扇風機、羽の唸るような回転音に少し遅れて風が静かにワタシの肌を撫でるのみ。
気のせいだったのだろうか。
そう思った瞬間、 ドン! ドン! ドン! と三度、空気が強く震えた。
――あ。
ベッドから身を起こして誘われるようにベランダへ向かい、サンダルに足を滑り込ませて表に出ると夜空には巨大な花が咲き、いくつもいくつも花弁を膨らませては散りながら、そのつど空気を大きく波立たせる。
花は三つ。
大きく丸い赤い花・・
それより少し小さめの丸い青い花・・
大きな楕円の黄色い花・・
そしてすぐさま散っていき、再び大きく空気を揺らした。
――今日は何の日だっただろうか。
考えてみたけれども思いつかない。
花火は何かを喜ぶときに空に上がるものだとしたら、きっと今日は何か喜ぶべきことがある日のはずである。
夏と呼ぶには少し早いけど蒸し暑いこの時期、この場所に毎年花火は上がるけれども、この土地に住んで六年目というのにその喜ぶべきことについては頭の中をどれだけ探っても何も思い当たる節がない。
手すりにのしかかるように両腕を置いて、寝起きでうまく廻らない頭を使いながらもう少しだけ考える。
この花火は何のために、誰が、上げているのだろうと。
視線を空から下へ移すと、路傍の人は誰もが足を止めて空を見ていて、向かいのマンションに住む人々もワタシと同じようにベランダへと誘われるようにやって来ている。
ベッドには彼が死んだように横たわっていた。
ワタシたちはこの日、何度も交わった。
二人の心の隙間を点で塗り潰すように、扇風機のリズム風のように、断続的にお互いを求め続けた。
快楽の終わりにはいつも焦燥感と空白が待っていて、その空白にワタシたちは安堵し、恐怖した。
そして、その恐怖が部屋を支配する前にワタシたちは再び交わう。
お互い交わっては果て、果てては交わった。
ワタシたちは二人で居ても特に会話をしなかった。
しかしそれは会話が苦痛であったからではなく、ワタシたちの両方が無口だったわけでもなくて、むしろ彼は放っておくと壊れたオモチャのように喋り続ける賑やかな男だった。
彼と知り合ってから、ワタシたちはあれこれと会話をしたものだ。
仕事、最近読んだ本、電子レンジの原理、相対性理論、近所のコンビニの前を毎日同じ時間に通るお爺さん・・
そうやって二人の距離を埋めるべく、ワタシたちは月にとどくほどの言葉を重ねてきた。
そして彼が「君と付き合いたい」という言葉を重ねてくれたのは、知り合ってから一年経った頃だった。
唐突な告白に当初ワタシは戸惑い、少し考えて「どうして?」と聞き返すと彼はこう答えた。
「君の一番近くでもっと話がしたいんだ。」
・・いいじゃない、今だって充分アナタはワタシの近く、一番近くと言っていいほど傍に居るし、ワタシはそのバランスを崩したくはない、そう思って少しびっくりした。
・・だけれども・・ワタシもやっぱり同様に・・アナタの傍に・・一番近くに居たい・・今よりももっと近くに・・
彼のいつになく真剣だけど、照れくささが隠しきれないその上下に泳ぐ眼差し、高揚して固唾をのんだ唇、汗ばんだ手の仕草一つ一つが、霞みのように掛かっていたワタシの心の迷いを晴らしていき、その木漏れ日の中でワタシはゆっくりと笑って・・頷いた。
付き合い始めてからも、ワタシたちはさらに言葉を積み重ねた。
彼はやっぱりお喋りだったし、ワタシも彼と話すことが何より楽しみだった。
それからは、"流行り"と呼称される類いの飾り気が微塵もない、本棚や机やベッドといった必要最低限の家財道具しか置かれていない手狭な彼のワンルームマンションで同じ時を過ごすようになる。
道路の脇で夜空を眺める親子がふと目に留まった。
父と母の間に小さな女の子。
この子の表情こそは見えないけれども、夜空を見上げて忙しなく首を振っている。
初めてこの時期この場所で花火が上がったときは何らかの意味を持って上げられたのだろうけれども、今は花火を上げること自体が喜びとなってしまったのではないか・・そんなことをボンヤリと考える。
ただ確かなのは、こうして花火が上がることで人々もまた足を止めて夜空を見上げ、一瞬の喜びに浸るということ。
この空の下で誰かが喜びを感じているということ。
そんなワタシの思考を遮るように、夜空にはまたしても花火が上がった。
眠り続ける彼に目を向ける。
ワタシたちが初めて身体を重ねたとき、それはお互いに不慣れなものだったし、ワタシは快楽に程遠い痛みを感じた。
行為が終わると、彼は「ごめん」と言っていつものように途切れることなく話をしてくれて・・飾り気のない殺風景な部屋は彼の優しい声で満たされた。
しかし、何度も回数を重ねるごとにワタシは快楽を感じるようになり、いつしか部屋はワタシの喘ぐ声で満ちていった。
記憶は記憶を呼ぶ。
ワタシの頭の中をグルグルと巡る記憶の断片たちは、やがて次々に繋がっていき、いざ捕らえようとするとスルスルと解けていく。
――最適化
そんな言葉がふと脳裏をかすめた。
「最適化って知ってる?」
ある日、彼がワタシに聞いてきた。
「この世の全てのものは楽な方向へ移行する・・ってやつ?」
「そう、全ては楽な方へ行く。
投げ上げたボールは最終的には下へ落ちるし、水を凍らせば結晶を作るし、僕らは冬にコタツから出ることをためらう。
全ては本質的に同じことなんだよ。」
彼の好きな話題。
"本質"なんて胡散臭い言葉を得意げに使う彼は可愛い。
「それって、ワタシたちにも当てはまるの?」
彼は右手をあごの下に当てて、少し考えてから結論を出した。
「エデンのリンゴみたいなものかもね。」
「うん?」
その回答にワタシはキョトンとなって聞き返した。
「僕たちがこんなふうにずっと話しているのは、それが一番楽だからなんだ。
だけれども話すことよりも楽なことを知ってしまうと、そっちに流れちゃうだろうね。」
あれから身体を重ねる回数に反比例して会話は減っていった。
減っていった言葉を取り戻すことがワタシは出来ず、それは高いところから落ちる感覚に似ていたし、冬にコタツから出られない感覚にも似ていて・・
あれほど高く遠く積み上げた言葉たちは、もはや紙一枚分の厚さほどしかなかった。
夜空はしばらく沈黙した。
その後、今度は夜空に五つ光が上がり、遅れて五度空気が震え、ワタシの身体を脈打つように響かせた。
彼は依然としてベッドの上に横たわっており、五度目の花火の音と同時に寝返りを打った。
ワタシはまだ彼と一緒に花火を見たことがない。
彼が花火を見て言うであろう言葉を探してみた。
――あれはストロンチウム、あれはアルミニウム、あれは銅・・
そうだ。きっとそうだ。
彼は理系特有の無機質で無粋な言葉をあえて言うだろう。
薄ら笑いを浮かべて言うだろう。
ワタシはベッドの上に横たわる彼の寝顔に目をやる。
・・と、彼は少し笑っているように見えたが、すぐまた寝返りを打って俯せになった。
――リアカー/ナキ/ケームラ/カロウト/スルモクレナイ/バリョク――
ワタシは小さく唱えた。
高校の時に化学の先生から教わった呪文。
炎色反応の語呂合わせ。
言語としての意味を持たない、冷たい呪文。
その無機質な言葉に潜む歪なリズムが、寝ぼけた頭を何度も廻った。
――リアカー/ナキ/ケームラ/カロウト/スルモクレナイ/バリョク――
もう一度、唱えた。
数年ぶりに口にしたその呪文は、花火の音に消されることなく宙に浮かび、散っていく。
その呪文を何度も唱えた。
呪文を唱えれば花が咲いた。
ストロンチウム、アルミニウム、銅・・
ワタシの魔法はすぐに夜空に消える。
けれども、今、この瞬間を繋ぎ止めようと繰り返した。
――リアカー/ナキ/ケームラ/カロウト/スルモクレナイ/バリョク――
「何見てんの?」
目を覚ました彼があくびとともに隣にやって来て、もったりと手すりに寄り掛かった。
ワタシはニヤけた顔を隠すように目線を夜空へ向けたまま――
「ただの炎色反応よ。」
寝ぼけ眼の彼はくわえた煙草に火をつけ、寝癖でボサボサの頭を二度ポリポリと掻いた。
「ああ――」
そして彼はクスリと笑いながら、
「――確かに、ただの炎色反応だ。」
ワタシたちは夜空に咲いては散っていく火の花の最後の一輪を見届けるまで言葉を重ね、道端の人々が歩きはじめ、ベランダの人々が部屋に戻る頃、再び眠りについた。
《完》