豆腐は、住民票が九割
四十二階の窓に、街の灯りが映っていた。三上凛子はもう、自分の住むタワーマンションと、隣のタワーマンションの灯りを区別できなかった。
時計は深夜二時を指している。クライアント企業の社長の不倫炎上を鎮めるための謝罪文を、凛子は七十八回書き直していた。同じ言葉を並べ替え、語尾を変え、一行削り、また足す。
机の引き出しを開けると、住民票の写しが七枚、無造作に重なっていた。過去七年で七回、引っ越した。会社からの距離、駅からの距離、コンビニからの距離。それだけを基準に選んできた部屋。どの部屋でも、彼女は蛇口の水を一度も飲まなかった。冷蔵庫のミネラルウォーターと、コンビニのペットボトルだけで、七年が過ぎた。
パソコンの画面に通知が一行、滑り込んだ。明日、九時、人事面談。
翌朝、上司は紙を一枚、机の上に滑らせてきた。
「白沢豆腐店、経営再建案件」
「奥水町って知ってるか」
「いえ」
「日本海側の山あい。雪が二メートル積もる町だ。豆腐屋を一軒、三ヶ月で立て直してこい」
「立て直せなかったら」
「お前のキャリアも畳む」
帰り際、すれ違いざまに同期が冗談めかした。
「凛子さん、豆腐? 似合わないね。豆腐は土地が九割って聞くよ。コンサルなんていらないんじゃない」
凛子は鼻で笑った。
「九割が土地なら、どの店も同じ味でしょ。違いを作るのが私の仕事」
このやりとりは、三ヶ月後、彼女の胸の中で何度も反芻されることになる。
奥水町に着いたのは、夕方だった。新幹線、在来線、最終バス。バスを降りると、雪の重みで町全体が沈黙していた。空気を吸うと、肺の奥が痛むほど冷たい。スーツケースの車輪が雪に埋まる。
商店街は、半分がシャッターを下ろしていた。JAのガソリンスタンドが一軒、酒屋が一軒、奥に「白沢豆腐店」の木の看板。看板の文字は、何度も塗り直されたのか、墨の痕が層になっていた。
戸を開けると、湯気が顔にぶつかってきた。豆を煮る、土の匂いと、わずかに甘い香り。店内は四畳半ほど。低いガラスケースに、豆腐が三丁、揚げが五枚。それだけ。
奥から女性が出てきた。背は凛子の肩までもない。腰は曲がり、手は節くれ立ち、目だけが鋭く澄んでいた。
「東京の人だがね」
「三上です。よろしくお願いします」
凛子は名刺を差し出した。きよはそれを受け取り、エプロンのポケットに無造作に押し込んだ。
「東京の人は、急ぐねえ」
それだけ言うと、店の戸を閉め始めた。時計はまだ午後四時だった。
翌朝六時、凛子は店を訪ねた。きよはすでに、店の奥で大豆を選別していた。仕込みの水はもうとうに汲み終わっているらしく、土間の隅に大ぶりの寸胴が三つ、湯気を立てていた。手元に小さな笊。傷んだ豆を一粒ずつ、爪の先で弾いていく。
「お話を聞かせてください。三ヶ月後の目標を共有させていただいて」
凛子はノートパソコンを開いた。きよは顔も上げない。
「東京の人は、座って話すんかね」
「あ、いえ」
「立って」
凛子は立った。きよはひたすら、豆を弾いていた。一時間。凛子はノートパソコンを閉じ、立ったまま、きよの手元を見ていた。
「ECを始めましょう。全国に発送すれば、売上は倍に」
「無理だがね」
「物産展もあります。首都圏で」
「無理だがね」
「フランチャイズなら」
「あんた、豆腐は住民票が9割だって、誰かに教わらんかったかね」
凛子は黙った。
「教わらんかね。ほんなら、あとで分かる」
きよは笊を置き、立ち上がった。
「奥で、湯を見てくる」
暖簾の向こうへ消えていった。凛子は、追わなかった。
その夜、凛子は本社からの電話を受けた。「進捗は」「信頼関係を構築中で」「三ヶ月だ」。
電話を切ると、彼女は決めた。明日、無断でEC通販サイトを立ち上げる。東京の知人三十人に試験発送する。実績を作って、きよを説得する。
翌日、彼女は店の冷蔵庫から豆腐を三十丁、保冷剤と一緒に箱に詰めた。きよは見ていたが、何も言わなかった。発送伝票に署名するとき、ペンを持つ凛子の手は微かに震えていた。
夕方、彼女はもう一度、井戸を見に行った。井戸の前に、もう一つ桶が置いてあった。雪を踏んで近づき、かがみ込んで覗くと、湧き水が湯のように湯気を立てていた。冬は、地下水のほうが空気より暖かい。雪の上に、足跡が並んでいた。きよのものではない。もっと大きな、男の長靴の跡。
「滑るがね」
振り返ると、きよが立っていた。
「常連さんが来るんですか」
「四時半に並ぶ。佐久間さんは一番」
「水を、汲みに?」
「うちの水で、ご飯炊くんよ。みんな。五十年、ずっと」
凛子はかがみ込んだまま、湯気の立つ水面に手を伸ばした。雪の重みで、足が滑った。桶ごと水に手を突っ込み、コートの袖まで濡れた。
きよは黙って、エプロンのポケットから手ぬぐいを取り出した。
「水は、急がんで」
凛子は受け取った。手ぬぐいは、糊の利いていない、よく洗われた布の柔らかさだった。
翌朝、東京の知人から続々とメッセージが届いた。
届いたけど、これ、いつもの白沢豆腐? 水浸しになって崩れてた。
冷蔵で送ってくれたよね? 味が違う気がする。前に食べたのと別物。
ごめん、廃棄しました。
同じ手で、同じ日に、同じ豆腐を箱に詰めただけだった。なのに、東京に着いた瞬間、別物になっていた。
凛子はきよに頭を下げた。
「申し訳ありません。無断で発送して」
きよは茶を一口すすった。
「水は、揺れたら帰りたがるんだがね」
「揺れたら」
「箱で運ばれて、何時間も揺すられて。豆腐は、揺すられたらもう、ここの水じゃなくなる」
「物理的な、話ですか」
きよは茶碗を置いた。
「あんた、東京を出てもう四日経つがね。本当ならあんたの体の水も、もう半分くらいは、ここのに入れ替わってもいい頃なんだがね」
凛子はその場に立ち尽くした。
その夜、彼女は宿の窓を開けた。雪の匂いがした。雪に匂いがあるとは、東京にいた頃は知らなかった。
翌朝、彼女はスーツを脱いだ。トランクの底からジャージを出した。学生の頃に部活で着ていたもの。なぜか七年間、捨てられなかった一着だった。
店に行き、頭を下げた。
「弟子じゃなく、手伝いです。三ヶ月だけ、置いてください」
きよは何も言わずに、新しい笊を一つ、凛子の前に置いた。
「豆を選びんさい。傷んでるのは、爪の先で弾く」
凛子の指は、最初の三十分で皮が剥けた。
その週末、凛子は旅館を引き払い、店の二階に布団を運び込んだ。元はきよの娘の部屋だったという。十年以上使われていなかった畳は黄ばみ、押入れの襖には子供の手のひらほどの薄い指の跡が残っていた。窓を開けると、雪の屋根が斜めに広がっていた。階下から、煮立った大豆の匂いが、床板の節を抜けて上がってきた。
四時起きで、井戸の水を汲んだ。最初の一週間、彼女は毎朝、桶ごと水をぶちまけた。雪に滑り、井戸の縁にぶつかり、足元で湯気の中に座り込んで泣いた日もあった。きよは何も言わなかった。
二週間目の朝、井戸の前で老人と会った。背が低く、紺の作業着の上に厚手の半纏を羽織っている。
「東京の姉ちゃんかね」
「三上です」
「佐久間です。元、郵便局」
佐久間は桶を雪の上に置き、神棚のある方角を、何でもないことのように指差した。
「うちのね、十年前に逝ったんだけど、家内も、ここの豆腐が好きでね。毎朝、神棚に上げてから、自分が食べるんよ。それで、まだここにいられる」
凛子は何も言えなかった。佐久間は桶を持ち上げ、雪を踏んで帰っていった。
その夜、凛子はノートに書きつけた。「白沢豆腐店、顧客一名、佐久間氏(75)、用途:供物、頻度:毎朝、十年継続」。それから、ペンを置いた。書きながら、自分が何を書いているのか、分からなくなっていた。
一ヶ月が過ぎた頃、凛子のSNS動画が小さくバズった。早朝の井戸、湯気の立つ豆腐、きよの曲がった手。コメントが千件ついた。
そして、視察の連絡が来た。
大手食品グループの担当者が、黒いコートで現れた。彼は店の中を一瞥し、奥の作業場まで踏み込み、きよに事業計画書を差し出した。
「白沢ブランドで、全国展開しませんか。工場で大量生産、水は、奥水町からタンクで毎日運びます。きよさんは監修料を頂くだけで、もうこの寒い朝に水を汲まなくていい」
凛子の心臓が跳ねた。これなら、本社に持ち帰れる。左遷を取り消せる。
きよは、湯気の向こうから、ゆっくり顔を上げた。
「タンクの水は、何時間揺られて、何度フィルターを通すんかね」
担当者は資料をめくった。
「えーと、塩素処理を、首都圏到着後に」
「ほんなら」
きよは茶碗を置いた。
「それは、もう、うちの水じゃないがね」
担当者が帰ったあと、きよは凛子を見上げた。
「あんた、住民票はどこにあるかね」
凛子は答えられなかった。
その夜、凛子は二階の布団の中で、天井を見ていた。階下できよが何かを煮ている、低い音が床板を通して伝わってきた。本社への返事を、彼女はまだ送っていなかった。
翌朝、井戸の前に佐久間が立っていた。いつもより早かった。桶は足元に置いたまま、雪の上に動かない長靴の跡が深く残っていた。
「あんた、昨日、東京の偉い人と歩いとったね」
「あ、いえ、視察の」
「役場の前で、土地の話、しとったって。商工会のもんが聞いとってね。みんな、もう知っとる」
凛子は答えられなかった。
「あんた、この店、東京に持ってくのかい」
凛子は目を逸らした。雪の上の、湯気だけが揺れていた。佐久間は何も言わずに、桶を持ち上げた。けれどその朝の桶は、いつもより半分しか水が入っていなかった。
翌朝、佐久間は井戸に来なかった。
翌々朝も来なかった。
三日目、近所の人が叫び声を上げた。佐久間が自宅で倒れていた。意識はあったが、脱水。冷蔵庫には、買い置きの豆腐が一丁、賞味期限切れで残っていた。
病室で、凛子は枕元に立っていた。点滴の落ちる音が、静かに数を刻んでいた。きよが横で、ぽつりと言った。
「あの人はね、五十年、この町の水を飲んだ人だがね。骨も血も、もうこの水で出来とる。毎朝うちの豆腐がないと、もう何で繋ぐんよ、自分の体を」
凛子は枕の上の佐久間の手を見た。茶色く乾いた手の甲に、点滴の針が刺さっていた。
「九割は水だがね、人も。あんたも」
きよは凛子を見た。
「あんた、ここに来て、何度蛇口の水を飲んだかね」
凛子は思い出そうとした。
一度も、飲んでいなかった。
その夜、凛子は井戸の前にしゃがんだ。雪が、まばらに降っていた。湧き水に手を入れると、びりびりするほど冷たい。試しに掌に汲んで、口に含んだ。
鉄の匂い。舌の奥が痺れるほどの冷たさ。そして、わずかな甘み。
七年間、彼女はずっとペットボトルの水だけを飲んでいた。どの町に住んでも、蛇口をひねらなかった。引き出しの七枚の住民票には、どの土地の水の味も、染みていなかった。
住民票とは、住所のことではなかった。
この土地の水が、自分の体の九割になっている、という事実の登録だった。
きよが繰り返した「9割」が、ようやく腑に落ちた。豆腐の九割は水。水はこの町のもの。だから豆腐の九割は、ここに在る、という事実そのもの。
そして、人もそうだった。
朝、凛子は本社に電話を入れた。
「全国展開案件、降ります」
「お前、何言ってるか分かってるのか」
「分かってます」
「キャリアどうなるか分かってるのか」
「分かってます。九割の方を、取ります」
電話を切ったあと、彼女は町役場へ歩いた。雪が踏み固められて、靴底がきしんだ。役場の窓口で、転入届を出した。住所欄に、店の二階の番地を書いた。職員は事務的に書類を確認していたが、ふと顔を上げた。
「水道のご契約も、同時にされますか」
凛子は一拍置いて、答えた。
「お願いします」
水を飲む側として、この町に登録される。
職業欄に、彼女は「豆腐職人見習い」と書いた。書きながら、ペン先が一度、震えた。
退院した佐久間は、また毎朝四時半に井戸に来るようになった。
桶を渡すのは、凛子の役目になった。
「東京の姉ちゃん、まだいたんかい」
「奥水の凛子です、もう」
「ほうかい」
佐久間は微かに笑い、桶を持って雪の中を帰っていった。
三ヶ月後、店の売上は倍にはならなかった。一割増。けれど、店は閉まらなかった。
冬の終わり、夜明け前の井戸。
凛子の手は、あかぎれだらけだった。けれど、桶を持つ手は、もう震えなかった。
湯気の向こうで、きよが豆腐を一丁、布に包んで凛子に手渡した。
「佐久間さんとこ、頼むよ」
「はい」
雪の上を、凛子は歩いた。自分の足跡だけが、後ろに残っていた。
ポケットの中で、薄い紙が一枚、体温で温まっていた。
奥水町 白沢一二三番地 三上凛子。
冒頭、引き出しに七枚あった紙のうちの、どれでもない一枚だった。
(了)




