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彼女が日本国籍でなくなると聞いて

作者: 五日北道
掲載日:2026/03/18


 昭和の後半のことだった。

 彼女とは、同じ公立小学校に通っていた。彼女は、私の家からごく近いところに住んでいて、一緒に遊んだこともある。


 そこはいわゆるニュータウンというところで、まだ専業主婦がたくさんいて、よく井戸端会議が開催されていた。

 だから、もしかしたら彼女の家のことは、大人たちのあいだでは話題になっていたのかもしれない。おばちゃん達の会話にまるで興味がなかった子供の私は、その会議でどんなことが議題に上がっていたのか、今もって知らないのだ。


 彼女の家庭環境は良くなかった。

 彼女の家からはたびたび、父親の怒鳴り声や窓ガラスが割れる音、彼女か、もしくは彼女の弟妹が泣き叫ぶ声が響いていた。彼女の母が、目や頬を腫らし大きなあざを負っているのを目撃したこともあった。

 家庭内暴力があったのだ。


 彼女の家の前に、ヘラヘラしたお巡りさんが二人組で交番からやって来るのも、何回か見ている。


 いわゆるDV法が成立するよりもだいぶ前のことだ。家庭に介入するのは彼ら警察の仕事ではなかった。

 子どもを助けるという正義感?

 そういうものが彼らにあったのかどうか、私は知らない。仮にあっても彼女の家の前で発揮された場面を見たことはない。あったところで法に基づかない行動はできないのが仕事というものだ、と大人になった私は(さか)しらに考える。


 とにかく、彼女は家庭内暴力が日常化した家に生まれ、誰からの助けも救いもないまま、育っていた。

 ここまでは家が近かったので、私が直接見聞きしたことだ。




 その後、私が直接見聞きすることは減った。


 たしか、小学校の高学年になる頃、彼女の名字が変わったのだ。彼女の両親が離婚したらしい、ということは私にもわかった。離婚に伴って、彼女の母と彼女と弟妹は、同じ学区のどこか違う住所に転居したらしい。

 そのときにはもうクラスも別々になっていて、日常で詳細を知ることはなくなっていた。

 さらに、中学校は学区が分かれたようで、会うことがなくなった。


 それでも、高校に進学したあとには、時折、駅で彼女の姿を見かけることがあった。地域の公共交通機関はバスか電車の二択だったから、バスでなければ駅で見かけるのだ。登校時間など、どこの高校も似たようなものである。


 お互いに、お互いの姿に気づくことはあったが、でも私は彼女に何を話したら良いのかわからなかったし、彼女も、とくに私に話すことがあったようには思えない。

 それで結局、遠くから小さく手を振ってみたり、軽く頭を下げてみたり、それだけだった。


 高校を卒業してからは、彼女を見かけることもなくなった。

 就職して結婚して引っ越して、私が地域を離れたように、きっと彼女もその場所を離れたのだろう。




 そうして、三十年あまり。

 たまたま帰省していたときに、私は彼女に会った。


 駅から実家に向かって歩いていると、道の向こうからこちらに歩いてくる人影が二つ。

 そのうちの一人になんだか見覚えがある気がして、私が立ち止まってしまったから、彼女も、そのまますれ違って去っていくわけにはいかなくなったのだ。


「……こんにちは」


 まだこの時点では誰だったか思い出していないのに、立ち止まってしまって、とりあえず挨拶して。


「こんにちは」


 彼女のほうもわかっていないようだったから、そのまま挨拶してすれ違ってしまっても、おかしくなかったのに。


「……久しぶり?」

「小学校のとき一緒だった……」

「うん。……久しぶり」


 誰だったかを思い出した。


「元気だった?」

「そうね。だいたいは。そちらは?」

「まあまあ元気。……えぇと、隣は旦那さん?」


 彼女の隣には、彼女と同じくらいの年に見える外国人男性がいた。仲はとても良さそうだ。


「そう。昔……ワーキングホリデーで行った先で出会って」

「そうなんだ」

「そちらも、旦那さん?」

「うん。これから実家に行くところで」

「そっか。何十年ぶり?すごい偶然」


 彼女の夫だという男性が、なにかを彼女に聞いた。たぶん、英語だということはわかったが、何を話しているかまではわからない。

 彼女たち夫婦の様子を見てとって、私は急いで言った。


「ごめんね、引き止めてしまって。なにか用事だったでしょう?」

「ああ、用事……というか……」

「うん」

「私、向こうの国籍になろうと思って。それで……最後にここに来たの。これから帰るところ」

「そっか」


 すっきりした笑顔の彼女と簡単な別れの挨拶を交わして、私と彼女はすれ違った。彼女たちは駅に向かって、私たちは実家に向かって。

 少し歩いて振り返ると、振り向いた彼女がいたので、私は遠くから小さく手を振った。高校生の頃に、駅で見かけたときのように。

 そして私は、彼女の未来に幸あれ、と願ったのだ。




 それで一週間くらいして、今ここなのだが、休日になろう小説を読んでいてハタと気づいた。


 もしかして彼女。

 ドアマットで国外追放されて、追放された先の国の王子に見初められる系ヒロイン枠と似てるな?


 ……彼女の夫である推定英語圏の人は、金髪だった。

 夫というのは、基本的には妻の愛する唯一の人であり、「白馬の王子様」と文語表現することもあるくらいにして、多少幸せ太りしていようと前髪が後退していようと、いちおう追放先の王子枠だろう。


 彼女はワーキングホリデーで行った先で夫と出会ったと言っていたので、追放されたのではなく、自ら出ていったわけだが、シチュエーション的には似ている。

 というか、自身の意思で、喜び勇んで国を出ていくヒロインの話も読んだことがあるような気がする。


 彼女も彼女の夫も、もちろん同世代の私も私の夫も、ヒロインとヒーローというには、令嬢と王子というには……あまりにも普通のおばさんとおじさんすぎて、この類似に、私はこの一週間まったく思い至らなかった。

 思い至らなかったのだが、思いついてしまうと似ているとしか思えなくなり、そして気づくのだ。


 そうか、私は、ざまぁされる元の国の人枠か、と。

 ざまぁされて、ぐぬぬ…となるべき側だったか、と。


 彼女と会ったのは、あの日あの時かぎりで、いつかざまぁが起きるのか起きないのか、私にはわからない。

 でも、それでもやっぱり私は、小学生の頃を覚えている私は思うのだ。彼女が幸せであれ、と。




 案外、小説の中でざまぁされた人たちも、ヒロインやヒーローの幸せを願っていたり……する話もあったような気がするな、そういえば。





蛇足。元凶である彼女の父親に関しては、私の実家の母がささやかな情報を持っていた。


「あら、あの子に会ったの?あの、暴力が酷かったおうちの子よね?あんまり酷くて、うちからも何回か110番したおうちの。そうそう、あそこの旦那さん、家族に逃げられて、ずいぶん前に亡くなったってねぇ。いくつって言ってたかしら、まだけっこう若かったのにね、って思った覚えがあるから、たぶんそこそこ若かったのよ。悪いことなんてするもんじゃないわよねぇ。引き取る人もいなくて、たしか、疎遠だった甥御さん?っていう人が来て。好き勝手して最期まで迷惑な、っていう感じ?なんかそんなふうに聞いたと思うわ。ちょうど、お向かいの遠藤さんが出くわしたらしくてね、……」


井戸端会議のネットワークと、会議で鍛えられたマシンガントークは、今なお健在のようである。



お読みいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
お友だちが最後に故郷に帰ってきた時に逢えるなんて、なんだか運命的なものを感じますね。 つらいことが多かったであろうその土地の記憶が、作者さんと再会できたことで明るくなっていればと思います。 なろう小説…
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