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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

婚約破棄された令嬢は最初からいなかった

作者: 千藤かざみ

 モンチェス王国の王室が主催する舞踏会は、すでに始まっている時刻だった。


 流れるような銀髪を持つシルファード公爵令嬢アデットは、自宅の応接室にあるソファにしどけなくドレスを広げて座っていた。

 この日のために誂えたドレスだ。深紅の滑らかな生地は異国から取り寄せたもので、細かな装飾や刺繍が施されている。


 アデットは扇を広げて顔に伏せ、溜息をひとつつく。青い瞳が苛立たしげに光った。


「……来ないつもりだわ、あの人は」


 本来なら、婚約者である王太子ステファンが訪ねてくるはずだった。そして、二人で舞踏会へ出かける予定だったのだ。

 しかし、来る気配どころか、なんの連絡もない。せめて現れない理由くらい知らせてもいいはずなのに、それさえも怠っている。


 まったく。婚約者を蔑ろにするにもほどがある。


 どうせ他の令嬢を連れていったのだろう。彼はアデットが気に入らないようで、わざとのように無視したり、暴言を吐いたり、いろんな令嬢と浮名を流していた。


 今のお気に入りはボスラン伯爵令嬢のルシルだ。

 愛らしい顔をしているが、腹の中はまるっきり違い、相手を王太子という肩書きでしか見ていない。とはいえ、ステファンは見かけにしか興味がないのだから、ある意味、お似合いでもあった。


 そんな彼の行動にも慣れてしまっていたアデットだったが、まさか王宮の舞踏会へのエスコートさえもすっぽかすようになるとは思わなかった。


「お嬢様、どうなさいますか?」


 ソファの後ろに立っていた執事のサファムが静かな声で尋ねてきた。

 彼は艶やかな黒髪と赤い瞳を持つアデットの専任執事で、いつも行動を共にしている。どんな命令も断ることはない。もっとも、こちらも理不尽な命令を下したことはなかった。


「お望みなら、私が始末をつけますが」


 物騒なことを平気で口にするが、彼はただ自分に忠実なだけだ。

 思わずクスッと笑ってしまう。


「あなただって分かってるでしょ。お父様との約束があるから手を出してはダメよ」


 彼の目が鋭い光を放ち、それからスッと細められる。


「あと少しではありませんか?」

「ええ、そうね。あと少しの我慢よ……」


 アデットは立ち上がり、サファムを振り返る。彼は恭しく胸に手を当てて礼をした。

 彼の熱い眼差しに見つめられて、頬が上気していく。


 愛してる。わたくしのサファム。


 駆け寄って、抱きつきたいけれど、今はダメなのだ。父との約束を果たすまで。

 彼も同じ気持ちだというのは分かっている。それでも、確かめ合うために、口づけを交わしたいという激情にかられることがあった。


 だけど……それは今じゃない。


 ステファンのことが片付かなければ、二人の愛は実らない。


「お出かけですね?」

「ええ。あなたがパートナーになって」

「承知しました」


 彼の赤い瞳が煌めくと、今まで身に着けていた執事らしい服が瞬時に正装へと変化する。たったそれだけで、彼は生まれながらの立派な貴族に見えた。


 アデットは目を細めながら、その様子を見つめていた。


 魔法を使う者――魔族はこの国では異質だと知りながら。

 海の向こうの大陸には、醜悪な魔物を従える魔族の国があるという。国が荒れ、民の祈りが神に届かなくなれば、魔族がやってくるという伝説がこの国にはあった。


 でも、サファムはサファムよ。それだけだ。


「相変わらず素晴らしい魔法ね。では……行きましょうか」


 手を伸ばすと、彼がその手を取る。

 そうして、二人は王宮の舞踏会へ出かけたのだった。



    ◇◇◇



 王太子ステファンは王宮の大広間で、伯爵令嬢ルシルと踊っていた。


 彼女は金色の髪を揺らしながら、笑顔をステファンに向けている。とても楽しそうだ。自分が贈った高価なドレスや装身具が気に入っているに違いない。


 身体が揺れるたびに豊満な胸がドレスから飛び出してきそうだ。しかし、彼女の魅力はこの胸だけではなかった。顔が可愛らしいのに、動作のひとつひとつに色気が漂っている。そのアンバランスなところが気に入っていた。


 婚約者のアデットとは大違いだ。


 彼女は美しいが、気の強そうな顔をしている。それどころか、やたらと上品ぶっていて、たまにこちらを見下しているような目つきをすることがあった。


 なんでも何ヵ国語も外国語を習得していて、多岐の分野に亘る知識もあるという。礼儀作法も完璧だと、母である王妃から聞いた。そのせいで傲慢な態度を取るのかもしれないが、そんな女を妃にしなければならないかと思うと、本当に嫌でたまらなかった。


 だいたい色気がなさすぎる。ステファンの好みでは全然なかった。


 この国には側妃制度がない。王族に限り許可されてもいいのではないかと思うものの、神殿の連中が許可しないのだ。王族であれども、ただ一人の伴侶と添い遂げるのが正しいのだそうだ。


 でも、だからこそ……アデットとは結婚したくない。


 ステファンは心の底からそう思っていた。


 あの女ではなく、ルシルを妻にしたい。そうすれば、どれだけ幸福な結婚生活が送れるだろう。毎日、彼女の笑顔を見て、彼女の甘ったるい声を聞くのだ。そして、彼女が望むままにたくさんの宝石やドレスで着飾らせる。


 そうだ。どうしてアデットなんかと結婚しなければならないのだろう。


 ステファンの心にそんな考えが忍び込んできた。


 今夜も本当はアデットを伴って出席しなくてはならなかった。けれども、結局は彼女を迎えにいくこともなく、ルシルをパートナーにした。そのことを誰も咎めることはなかったし、今だってルシルと何度も踊っているのに、揶揄するような声も聞こえない。


 それならば……ルシルを花嫁にしてもいいのかもしれない。


 そんなことを考えていると、踊るステファンの視界にアデットが入ってきた。

 彼女は黒髪の男を伴っている。長身でスラリとした体格で、顔もいい。女性達がその男に目を惹きつけられているのを見て、嫉妬心が湧き起こる。


 アデットなんかどうでもいいが、笑い者になるような不細工な相手ではなく、女性が見惚れるような男を伴ったことが許せなかった。


 アデットは俺より下であるべきなのだ。

 ルシルをパートナーにしたことに少し罪悪感はあったのだが、それが吹き飛んだ気がした。


 あいつも浮気してるじゃないか!


 それなら、心置きなく捨てられる。いや、捨てるべきだ。王太子である自分を蔑ろにしたのだから、当然のことだった。


 勝手な考えだと分かっている。しかし、今のステファンは自分の衝動を止められなかった。


 ダンスが終わると、ステファンはルシルの肩を抱いて、アデットのほうへ向かった。


 アデットは無表情でこちらを見ていたが、自分のほうに歩いてくる王太子をさすがに無視できなかったのだろう。両手でスカートを摘まんで挨拶をしてきた。


 その上品な仕草にもなんだか苛立ってきてしまう。


 ああ、そうだ。どうせなら、この場でこの女を捨ててやろう。その無表情な顔が苦痛に歪むのをぜひとも見てみたかった。


 そう思うが早いか、ルシルの肩を抱きながら、ぐるりと周囲の人々を見回した。誰もが興味津々で見つめている。何が起こるのか、期待しているに違いない。


 この俺が楽しい噂話を提供してやろう。

 高慢な公爵令嬢が王太子に捨てられれば、しばらくの間、多くの人々が話題に困らないはずだ。


 ステファンはルシルの肩を抱き寄せながら、手を突き出した。


「シルファード公爵令嬢アデット! おまえの傲慢な性格にはもう我慢ならない。私はおまえとの婚約を破棄する!」


 周囲の貴族達からはどよめきが聞こえる。しかし、それなのに当のアデットは表情ひとつ変えなかった。


 この期に及んで、往生際が悪い奴だ。それとも、驚きすぎて声も出ないのか。


 ステファンはさらに続ける。


「私はこの愛らしいボスラン伯爵のご令嬢ルシルと新たな婚約をするつもりだ」


 ルシルはステファンの腕の中で感嘆したような声を洩らした。


「まあ……嬉しい! ステファン様……わたくし、誠心誠意、ステファン様に尽くしますわ!」

「皆も私の新しい婚約を祝ってくれ!」


 貴族達は躊躇いながらも拍手をする。もっと盛大な拍手をしてくれてもいいのに、きっとアデットが公爵家の娘だから、遠慮しているのだろう。


 こんな生意気な女に遠慮することはないのに。


 アデットに視線を移すと、彼女はなんと微笑んでいた。


「……なんだ? どうして笑うんだ? 負け惜しみか?」


 彼女は悔しがるか、泣き出すか……そのどちらだと思っていたが、そのどちらでもなかった。余裕綽々の笑みを見せている。


「いえ、そうではありません。わたくし、嬉しかったものですから」

「嬉しい? 何を言ってるんだ? 今、おまえは王太子である私に婚約破棄を告げられたんだぞ? もう王太子妃にも王妃にもなれないんだ」


 事情が呑み込めないのかと思い、説明してやったが、彼女は相変わらず微笑んだままだった。そうして、彼女はドレスを両手で摘まんで華麗な礼をする。


「はい、分かっております。婚約破棄、確かに承りましたわ」


 アデットはすっと上を向いた。それから、声を張り上げる。


「お父様! わたくし、務めを果たしましたわ!」


 彼女の父親といえば、シルファード公爵のことだ。この大広間のどこかに彼女の父がいるのかと思ったそのとき――。


 たくさんのシャンデリアの光が揺らぎ、大広間が薄暗くなる。人々が何事かとざわめきだしたその瞬間、強い光が切り裂くように窓から入ってきて、雷鳴が轟いた。


 思わず目を閉じる。


 再び目を開いたとき、アデットの前に一人の黒いマントを身にまとう男が立っていた。


 その男は黒髪を長く伸ばしていて、壮年にも見えたが、どことなく若いようにも見える。年齢は不詳だ。金色に光る瞳が不気味で、怪しい雰囲気を醸し出している。


 この男は……人間なのか?


「だ、誰だ……?」


 ステファンの声は何故だか震えていた。


 俺は怖くなんかない。怖いわけがないだろう。俺はこの国の王となるべき人間で、王太子だ。国王の次に身分が高いのだ。


 しかし、それでも身体の震えが止まらなかった。


「我を忘れたか? 愚かな人間よ」


 地獄の底から聞こえるような恐ろしい声だった。


「愚かな人間だと? 王太子に向かって……不敬な奴め!」


 ステファンは大広間を警備している衛兵にこの男を捕らえさせようと、辺りを見回した。だが、衛兵はおろか、誰もいなかった。


「え……?」


 音楽を演奏し続けていた楽団もいない。


 そうだ。雷が鳴ってから音楽も止まったままだった。こんなに静かになっていたのに、どうして気づかなかったのだろう。しかも、あんなにたくさんいた男女がいつの間にいなくなったのか。


 ステファンは振り返った。

 両親がいた玉座にも誰も座っていない。

 それどころか――。

 肩を抱いていたはずのルシルも煙になったかのごとく消え去っていた。


「嘘だ……っ。どうして……?」


 ここにいるのはステファンと怪しい男。そして、彼の後ろにアデットとそのパートナーの男がいるだけだった。


 何が起こったのか、さっぱり分からない。ステファンは震えてうずくまりそうになる脚をなんとかまっすぐにして、男に問い質した。


「いったい何をしたんだ? おまえは……まさか魔族かっ?」


 魔族とは魔物を操り、魔法を使い、人間を害する者達のことだ。荒れ果てた国に現れ、国民を死に至らしめると言われていた。


「いや、まさか。魔族なんておとぎ話の存在じゃないか。それに、この国は父王の治世の下、繁栄している。魔族が現れるはずがない」


 男はせせら笑った。


「この国はもう滅んでいるぞ」

「馬鹿なことを……!」

「愚かなのはおまえだ。……さあ、思い出せ。すべてを」


 いつの間にか男は目の前にいた。彼は手を突き出し、人差し指でステファンの額を押す。すると、額に激痛が走った。


「やめろ!」


 手で額を押さえながら、後ずさる。

 額から頭の中へと何か鋭いものが突き刺さり、かき回されているようだった。


 ああ、そうだ……。

 そうだった! この国はもう滅んだのだ!


 記憶が急激に戻ってくる。

 自分の身にはたくさんのことが起こった。ルシルと結婚したが、子供は生まれなかった。彼女はあんなに可愛く見えていたのに、我儘で贅沢で最悪の女だった。都合が悪くなると泣き喚き、ひどい言葉で罵ってきた。


 ステファンは完璧だった婚約者を捨て、ルシルを選んだことで父王の不興を買っていたので、どんなに妃に振り回されていても、手を貸そうとはしてくれなかった。


 そのうちに父王が崩御し、ステファンは国王となった。

 王妃になったルシルはさらに贅沢三昧になり、彼女の親族までもが権力を振るうようになった。ステファンはそれを止められず、国力は下がりに下がったのだ。


 ちょうど天災や作物の不作が重なったのも悪かったのかもしれない。飢餓や貧困から病が広がり、民がたくさん命を落とした。貴族は国から逃げだし、残った者は暴徒化した民に殺された。


 そうして、伝説どおり、荒れ果てた国に魔物を従えた魔族がやってきた。


 国が滅ぶどころか、民も魔物に食われて滅んだ。この美しかった王宮にも魔族が現れ、ルシルも残酷な殺され方をして――。


 顔を覆っていたステファンは恐る恐る両手を下ろした。


 何もかも思い出した。今はもうあの若かった自分ではない。あれから何十年も経ち、初老になっていた。


 ここもあの美しかった大広間ではないのだ。壁が剥がれ、シャンデリアが床に落ち、おびただしい血が広がっている。王冠が転がっていたが、拾う気にもなれなかった。


 汚い床に力なく膝をついたステファンは男を見上げた。


「思い出した……。おまえは……魔王だ」


 逃げ出すこともできずに、震えて隠し部屋にこもっていたが、王宮に乗り込んできた魔族の一人にここに引きずり出されたのだ。

 ステファンは玉座に座る魔王に命乞いをするしかなかった。


 自分はあの悪妻に振り回された哀れな被害者だ、と。

 どうか助けてくれ。命を助けてくれたら、国王だけが知っている隠し場所にある宝物をやる、とも懇願した。


 魔王が宝物に興味があったかどうかは分からない。慈悲の心を持っていたかどうかも。

 しかし、なんの気まぐれか、魔王はステファンにチャンスを与えてくれた。


「おまえは悪妻のせいだと言ったな。では、結婚する前からやり直してみるといい。おまえが悪女に騙されず、この国を正常に導いてくれる婚約者と添い遂げるならば、命を助けてやろう」

「結婚する……前から……?」


 意味が分からなかった。しかし、藁にもすがる思いで、彼が与えるというチャンスをつかむことにした。


「分かりました。でも、どうすれば……?」

「時間を戻すのさ」


 魔王はステファンの額を人差し指で押した。


 そうして、ステファンは婚約者がいた若き日の自分に戻った。

 ただし、ルシルと結婚した後の未来を忘れて――。


「あ、ああ……俺は……っ」


 若さを失い、統治すべき国を失ったステファンは両手で頭を抱えた。


 自分はなんということをしたのだろう。せっかくチャンスをもらったのに、同じ間違いを繰り返してしまった。きちんと教育を受け、礼儀作法も完璧で頭もいい婚約者を蔑ろにして、豊満な身体で誘惑してくる愛らしい顔の悪女になびいてしまった。


 そして、あの婚約破棄――。


 いや、待て。


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 では、冷めた目で自分を見下ろすこの女は誰なのだ?


 ステファンはゾッとした。


 ここにいる『人間』は自分だけのはずだ。ということは、この女とパートナーの男は魔族なのか?


 それに気づいたとき、愕然とするしかなかった。


 つまり、魔族の婚約者を取るか、悪妻を取るかしかない。どちらに転んでも、この国は魔族のものになるということだったのだ。


「わざわざ我が娘を婚約者にしてやったのにな。娘を大切にするなら、命くらいは助けてやったものを」


 魔王は静かに言った。

 それはまるで死刑宣告にも聞こえた。


「もう一度……もう一度だけチャンスをくれっ! そうしたら……」


 頭上から水滴が垂れてきて、はっとする。


 背後に何か気配がして、振り返ると、巨大な魔物が今まさにステファンを頭から呑み込もうと大口を開けているところだった。

 その口から垂れているのは唾液だ。


「わあぁぁぁっ……!」


 ステファンは悲鳴もろとも魔物の口に呑み込まれた。


    ◇◇◇


 ステファンだったものはいなくなった。


 アデットは獲物を呑み込んだ魔物が満足そうな顔をしたのを黙って見ていた。

 あの男に愛も情もなかったが、跡形もなく消えうせると、それはそれで後味が悪いものだ。


「お父様、それで約束は守ってくださいますよね?」


 魔王が気まぐれなのは、今に始まったことではない。宝物など別に欲しくもないだろうし、あの男にチャンスを与える必要だってまったくなかったのだ。


 魔王は振り返った。機嫌がいいのか、笑みを浮かべている。


「ああ、もちろんだ。つまらぬ余興だったが、おまえが協力してくれて、なかなか楽しめた」


 彼はアデットの目を通して、ステファンがどれだけ横柄な真似をするのか見ていた。最後のチャンスをそれとは知らずに棒に振る愚かな男を見て、嘲笑っていたに違いない。


「では、わたくしはセファムの妻になります」


 セファムがアデットの横にぴたりと寄り添い、魔王に恭しく礼をした。


「私は王女殿下をこれ以上ないくらい大事にして、必ず幸せにいたします」


 セファムは魔王に匹敵する魔力を持っていたが、家柄はあまりよくなかった。それゆえ、魔族の王女であるアデットとは不釣り合いだと言われていた。


 しかし、アデットはセファムでなくては、結婚などする気になれなかった。王女と従者という間柄のままでもいいから、他の誰の妻にもなりたくなかった。


 だが、チャンスが訪れた。


 魔王の気まぐれで、ステファンの婚約者という役をすることになったのだ。


 ステファンがアデットを選ぶなら、困ったことになる。が、ルシルを選んで国が滅んだ未来の記憶がないのだから、まずそうはならない。案の定、アデットをさんざん蔑ろにし、婚約破棄を突きつけた。


 結局、彼は時間が戻っても愚かなままだった。魔王だって本当はそれが分かっていたはずだ。分かっていながら、再び彼が自らの死を選ぶさまを見て、楽しんでいた。


 本当に我が父ながら悪趣味だわ。


 だが、その趣味の悪さのおかげで、愛する人と添い遂げることができそうだった。


 セファムはアデットの肩を抱き、優しく囁く。


「王女殿下……一生愛し続けると約束します」

「もうその呼び方はやめて。わたくしはこれからあなたの妻になるのよ」


 彼は少し照れたように微笑んだ。


「はい。アデット」


 彼に名を呼ばれるのは初めてだ。

 アデットはこの上なく満足だった。


 魔王は肩をすくめる。


「おまえ達に結婚の祝いをやろう」

「なんですの?」

「この国だ。まあ、今はとんでもないことになっているが、おまえなら難なく元に戻せるだろう」


 サファムは頷いた。


「もちろんです」


 赤い瞳が煌めくと、廃墟のようだった大広間が綺麗に戻る。いや、元に戻ったのは大広間だけでなく、着飾った人々も戻ってきた。

 そして、楽団が演奏する音楽も。


 あの王宮舞踏会が行われていた時間に戻っていた。すべてが元に戻り、魔王も魔物もいない。


 いや、他にいなくなった者もいる。

 ステファンとルシルだ。玉座にいた国王と王妃の姿もなかった。魔王に関しては、本人が自ら姿を隠しただけで、どこからか見ているに違いない。


 セファムはアデットの手を取り、玉座へとまっすぐ上っていく。二人が壇上に上がると、誰からともなく拍手が湧き起こった。


「セファム国王陛下、アデット王妃陛下、万歳!」


 そんな声も聞こえる。

 つまり元からいた王族はいなくなり、人々の記憶は書き換えられた。セファムが国王になり、アデットは王妃となったのだ。いつの間にか、二人の頭上には冠が輝いていた。


 ここは本来の過去とは違う世界線だ。


 世界線を移動した人々はここが魔族の国となったことも知らず、ダンスを始める。

 すべて何も起こらなかったかのように――。


 アデットとセファムは並んで玉座に座り、それを眺めた。


 もう横暴な王太子などに振り回されることもない。ただ、セファムのことだけを考えていればいい。

 これからはずっと彼と一緒だ……。

 胸が熱くなり、涙ぐみそうになる。


 アデットは彼のほうを向いた。

 彼もこちらを向き、優しい笑みを見せる。


 手を繋ぎ、微笑み合う二人は顔を寄せ――。


 そっと口づけを交わした。

読んでいただきまして、ありがとうございます。

初めての投稿作品です。2025年中に投稿してみたいと思い、短編を書いてみました。

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