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おっさんにミューズはないだろ!~中年塗師は英国青年に純恋を捧ぐ~  作者: 天岸あおい
一章 押しかけ弟子は英国青年
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ヘクサの洗礼

   ◇ ◇ ◇


 食後に空き部屋へ案内すると、さっそく想定外の現実を目の当たりにしたライナスは固まっていた。


 間もなく冬を迎える、山に囲まれた限界集落。最新の家とは違う気密性の低い古民家。使っていない空き部屋。これらが組み合わされれば発生するのは――。


「カ、カツミさん……この、ニオイは?」


 ドアを開けた瞬間、鼻が悶えそうなほど青臭いニオイがして、慌てて俺たちは自分の鼻を摘まむ。


 電気を点け部屋を照らして現れたのは、日当たりの良い八畳の洋室。

 部屋の脇には乱雑に段ボールが積まれ、床はホコリとともにある物が無数に散らばっていた。


 困惑しているライナスに出て行きたくなりそうな手応えを感じつつ、俺は淡々と説明してやる。


「ヘクサだ。カメムシのことな」


「もしかして、床に落ちている黒いの、ぜんぶ……」


「おう。数年使ってないからな。その分溜まってる。頑張って掃除して使えよ」


「は、い……」


「俺の所でやっていくなら、常にこれとの戦いだからな。ほら、生きているヤツもいるぞ。カーテンの所にも何匹もいる。これがここの当たり前だ。慣れないようなら諦めた方がいい」


 俺がカーテンにしがみつくヘクサを指さすと、ライナスから息を引く音がする。

 明らかに部屋の惨状にドン引きした気配がライナスから漂う。しかし、


「慣れます! 慣れてみせます……っ」


 グッと拳を握って持ち直す。やはりライナスの根性は目を見張るものがある。チラリと見やる横顔は青ざめ、逃げ出したくてたまらなさそうだが。


 道具を渡さなかったらイジメになると思い、俺は近くに立てかけてあったホウキとちり取りをライナスに渡した。


「じゃあ頑張れよ。俺は台所で後片付けしているから、寝る場所が確保できたら呼びに来てくれ」


 踵を返して台所へ向かおうとしていると、かすかにライナスの「うー……」と臭そうに唸る声がする。


 ヘクサの臭いは長年慣れ親しんだ俺でも未だに慣れない。というかヤツらを見ただけで、俺は背筋がざわついて逃げ出したくなる。あれは慣れるものじゃない。生理的な嫌悪感はライナスでも耐えられはしないだろう。


 漆芸を学びたいのは良い。だが、俺の所は止めておけ。この場所がどんな所かも、俺がどういう人間なのか分からないヤツが、ここで学び続けるなんて――。


 居間の鍋や食器を片付け、洗いながら俺は苦笑を漏らす。


「明日には弟子辞めたりしてな。そうなってしまえばいい」


 ヘクサは自然が豊かな所に出てくる虫。だから町中の塗師に弟子入りすれば、ここまで酷いヘクサ地獄を味合わなくても済む。せいぜい数匹程度だ。


 まあ、たまに町中でも大量発生する年もあるが、この家ほどではない。


「カツミさん、ちょっといいですか?」


 食器を洗い終えていない時に話しかけられ、俺は驚いて思わず肩が跳ねる。


「早いな、ライナス」


「まだ掃除、終わってないです。ゴミ袋、取りに来ました」


「そうだな、悪かった。市指定の専用袋だ。これに詰めてくれ。不要なら部屋の物は全部捨てても構わん」


「え? 何かのトロフィーもありましたよ?」


「いらん。昔の結果を惜しむ趣味はないんだ」


 もらってすぐに捨てるのは気が引けたから、空き部屋にしまっていただけ。未練があった訳じゃない。形に残すのは作品だけでいいんだ。


 完全に割り切っている俺とは違い、ライナスは不本意そうに顔をしかめた。


「じゃあ私、欲しいです。シショーのトロフィー」


「別に構わんが、ゴミじゃないか?」


「シショーのものは、全部ゴミじゃないです。宝です。捨てるなんてもったいないです」


「いや、使わなけりゃゴミだろ。しかもヘクサ部屋に放置だ。ニオイが染みついているぞ?」


「いいです。それでも。下さい」


 本当に物好きな奴だ。呆れながら「お前がいいなら」と言えば、ライナスは破願した。


「大切にします。シショーの一部、ですから」


 ……なぜそんな顔で笑える? 心底嬉しそうで、このまま死んでも良いと言い出しそうな表情しやがって。


 ああ、調子が狂う。俺を無暗に認めるな。俺の中身は、ただ漆黒を極めて沈みたいだけの陰険男なのだから――。




 その日の夜、俺が寝る時間ギリギリにライナスは部屋の最低限の掃除を終えることができた。


 俺の寝室から廊下を挟んで斜め向かいの部屋――親父が寝起きしていた部屋。もう絶対に使うことはないと思っていた部屋に誰かが寝ている。離れているのに気配を感じて落ち着かなかった。


 すぐに出て行くはずだ。なぜなら――わぁぁ……っ。ウトウトし始めた時に、ライナスの悲鳴がかすかに聞こえてくる。


 あそこは俺の部屋よりもヘクサがよく出る。多分寝床に落ちて来たんだろう。下手したら顔に……。


 ライナス、お前が俺を選んだせいだからな? ひと晩ヘクサと格闘して考え直せ。生理的嫌悪はなかなか慣れないぞ。


 心の中で本人に聞こえない忠告を呟いてから、俺は目を閉じて眠りにつく。

 いつもは俺だけしかいない家。離れていても人がひとり増えたせいか、ほんの少しだけ空気が温かく感じる。ライナスが来て面倒なことばかりだが、これだけは良いと思える。寒いのは嫌だ。


 ただ慣れたくはない。これが当たり前になってしまったら――。

 ……寝る前に考えることじゃない。小さく首を振ってから、俺は眠るために力を抜いていく。どうかライナスが早く俺の所から離れるようにと願いながら。


   ◇ ◇ ◇


 翌日、俺は愛車の四駆SUVに乗って漆芸館へと向かう。


 町までは峠道。道路は細く、片側は山の斜面が続いている。生え茂る草木は紅葉が進み、観光客には風情がある光景と喜ばれるが、見慣れた俺には冬のカウントダウンにしか見えず軽く憂鬱だ。


 隣には未だ顔が腫れぼったいライナスが乗っている。昨夜はしっかりと寝れなかったようだが、信号待ちで横顔を見やる限りは嬉しそうに笑っている。


 一日だけじゃあ懲りないか。本当に根性だけは異常にある奴だ。そこは認める。


 俺が運転している最中、ライナスから小さな鼻歌が聞こえてきた。


「カツミさんと一緒に居られて、ウレシイです。シアワセです」


「妙なことを言うな。俺なんかと一緒にいて、何が良いって言うんだ……」


「好きな人と一緒ですから。ウレシイに決まりです!」


 時々ライナスは言葉がおかしくなる。俺は眉間を揉みながら、どう注意すべきかを考える。


「ライナス……師匠に対しては好きと言うより、尊敬と言ったほうが適切だ」


「……? シショーでも好きなものは好きですよ?」


「俺のどこがいいんだ。愛想のないつまらん男だぞ?」


「でしたら目的地へ到着するまで、カツミさんの魅力を語ります。まず顔がクール。職人オブ職人。オーラがすごい。料理、上手。瞳がキレイ。ワタシのミューズ――」


 それはもう嬉々とした声で言い募られ、俺の顔が大きく引きつった。


「やめろ。鳥肌が立つ」


「なぜですか? 好きだと言わずに、どうやって好きだと伝えればいいのですか?」


「伝えなくていい。黙っていてくれ」


「……なるほど。分かりました」


 ライナスがおとなしく引き下がってくれる。物分かりがよくて助かったと胸を撫で下ろしながら、俺は漆芸館の裏の駐車場へ車を停める。


 息をつきながら降りると、先に助手席を降りたライナスが俺を迎える。そして――ライナスが俺の頬へ口付けた。


「……っ!?」


 慌てて俺は顔を離し、未だ柔らかな唇の感触が残る頬を手で押さえた。


「い、い、いきなり、何をっ!」


「カツミさんが、好きを言うのはダメと言ったので」


「馬鹿野郎! 行動に移せってことじゃ……ああっ、このっ」


 動揺で上手く言葉が出てこない。口を震わせる俺へ、ライナスが一切悪びれない笑顔を浮かべた。


「なるほどです。言うより伝わります」


「盛大に誤解を招くだけだ! 今のは絶対やめろ! 二度と! お前の所なら挨拶程度かもしれないがっ! 俺にはやめてくれ!」


「誤解……?」


 不思議そうにライナスが首を傾げる。駄目だ。言えば言うほど酷くなる気しかしない。俺はため息をついて首を横に振る。


「とにかくやめろ。いいな?」


「……分かりました」


「じゃあついて来い。辻口に相談しないとな」


 無理に気持ちを切り替えて、俺は漆芸館の裏口から中へと入り、すぐ右手にある来賓室へ行く。そしてライナスをソファに座らせた後、受話器を取って内線をかける。


『はい、事務室です』


「幸正だ。辻口館長は?」


『今こちらにおりますよ。変わります――あ、今そちらに向かうそうです』


「ありがとう。来賓室にいると伝えてくれ」


 事務の女性に伝えてすぐに受話器を置けば、ライナスが俺をジッと見つめていることに気づく。


 漆芸以外も熱心だな。俺のすべてを真似る気なのか? ライナスの感覚は俺には謎過ぎる。


 凝視されて背筋にざわつきを覚えながら、俺はライナスの隣へ座る。もちろんしっかりと間を空けて。しかし俺が保ちたい距離感を無視して、ライナスは軽く腰を浮かして俺との間を詰めてくる。


 体がくっつきはしないが、ほのかに熱を感じる距離。特にライナスは体温が高いらしく、よく伝わってくる。


「こら、くっつくな。距離が近すぎるぞライナス」


「ダメですか? 好きだと分かってもらえると思って」


「くどいぞ。分からせようとするな。お前がなぜか俺みたいな偏屈不愛想男が好きだってことは分かったから」


「ホントに?」


「ああ。だからやめろ」


「分かって、ワタシを置いてくれるんですか?」


 身を乗り出して俺に顔を近づけるライナスの目が丸い。

 なぜ今さら驚く? あからさまに俺が顔をしかめていると、辻口がにこやかに入ってきた。



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