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おっさんにミューズはないだろ!~中年塗師は英国青年に純恋を捧ぐ~  作者: 天岸あおい
六章 おっさんにミューズはないだろ
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おっさんにミューズはないだろ

 ストーブに当たらせながらこたつに入れても、ライナスに血色は戻らない。なのに当の本人は、


「優しいですね、カツミさん。愛を感じます」


「呑気なことを言っているな! かなり危ない状況なんだからな」


 心配する人の気も知らず、ライナスは俺に怒られてもにこやかなままだ。むしろ喜んでいる。


 風呂が入れるようになったという音が鳴り、俺は「さっさと入れ」とライナスを風呂場へと促す。目の前から姿が見えなくなってから、俺は居間でしゃがみ込み、頭を抱えた。


 大丈夫なのか? 寒さで頭が働かなくて、判断ができなくなってないか? もし今のままが続くなら、救急車を呼んだほうがいいかもしれない。


 だが、この雪で車は入れない。となれば、俺がどうにかしてライナスを病院へ連れて行かなければ。こんなところで死なせてたまるか――と目まぐるしく考え込んでいると、


「カツミさん、大丈夫ですか? カツミさんも体が冷えましたから、お風呂入ったほうがいいと思います」


 いつの間にか風呂から上がったライナスに話しかけられて、俺はバッと顔を上げる。

 にこやかなままの顔に赤みがさしているのが分かり、俺の肩から力が抜けた。


「……はぁぁ……いや、俺はいい。むしろ体が熱いくらいだ」


「でも、入ったほうがいいです。体が濡れて――」


「そんなことより話が先だ」


 ちょっとここ座れ、と俺は自分の前の床をパンパンと叩き、ライナスを促す。


 心配そうに顔を歪めながら、ライナスが俺の向かい側に座る。俺と向き合ってようやく怒っていることに気づいたのか、顔つきが引き締まった。俺は毅然とした態度で尋ねる。


「ライナス、どうして戻ってきた? こんな夜中に豪雪の中を歩いてくるなんて自殺行為だぞ」


「すみません……説得に時間がかかってしまいました」


「ローレンさんのか? まさかと思うが、彼女だけで帰国したのか?」


「はい。しっかり納得した上で帰っていきました」


「俺の説得が出来ていないのにか? 順番が違うだろ」


 ギロリ、と俺は睨みつける。しかしライナスは怯まず、むしろ攻めるように身を乗り出す。


「いえ。他の道を潰さないと、カツミさんを説得できないです。ワタシが他でやっていけないと、分かってもらいたくて」


「お前なあ……やろうと思えばできることを、自分のワガママで逃げようとするな。いいかライナス。お前は若いし才能もある。根性もあって努力もできる。まだまだ伸びるんだ」


「褒めてくれて嬉しいです!」


「本題はそっちじゃない。俺は、お前にもっと伸びて欲しい。広い世界でやったほうが――」


「カツミさん、ちょっと待って下さい」


 ライナスが突然立ち上がり、部屋の隅に置いた大きなリュックの所へ向かう。そしてゴソゴソと中を漁り、取り出したものを俺に差し出す。


 茶色い表紙のクロッキー帳。俺がライナスに絵画をやめないでくれと頼んだ時から描くようになったものだった。


「カツミさん、これを見て下さい」


 言われるままに俺はクロッキー帳を手にし、中を見ていく。


 どこを開いても、俺、俺、俺。見事なまでに俺しか描かれていない。おまけ程度に風景がついている時があるだけで、最初から最後まで、どのページも俺。見ていて恥ずかしくなってくる。


「よくぞまあ、俺ばっかりこんなに……」


「気づいてましたか? 今までずっと、カツミさんだけを作ってました」


 作っていた?

 言い方が引っかかり、俺は首を傾げる。


 ――あっ。最初は俺の塗りに惚れ込んだと言って漆芸を学び始めている。ライナスにとって、漆黒を作ることが俺に直結している。


 落書きも俺。蒔絵も俺。改めて考えるとイカれているな……と思ってから、俺は息をつく。


「俺だけっていうのは言い過ぎだろ。現に蒔絵は俺を描いていないものも作って、漆器まつりで売っただろ」


「あれはカツミさんをイメージした植物やデザインの蒔絵です。本当はカツミさんを描きたかったですが、嫌そうでしたから……」


 ライナスの話を聞いて俺は固まる。

 物は言いようだとは思えない。コイツは俺を紛れ込ませた蒔絵でローレンさんを納得させている。


 漆と向き合いながら、ライナスは心の中で俺という存在を凝縮させて、芸術の域まで高めてしまったのだ。最初からおかしな奴だと思っていたが、ここまでだったとは。


 ライナスの想いを俺は捉え違えていたことを痛感していると、大きな手がそっと肩へ乗せられた。


「ワタシの創作は、もうカツミさんだけなんです。カツミさんと離れたら、ワタシはもう何もできません。ずっと言ってますよね。ワタシのミューズと……」


「そんな大げさな……」


「もう、ここを離れたら、ワタシは生きていけないんです」


「ライナス、お前のそれは一時的なものだ。熱はいつか冷める。だから決めつけて思い込むな。他を見ろ。俺のせいでその才能を無駄にするな――」


「カツミさんは、ワタシのミューズです。カツミさんがいるから、ワタシは輝けます!」


 ライナス……やっぱり、おっさんにミューズはないだろ。

 もっとインスピレーションを受けるものが、この世にあるだろ。人でも植物でも、物でも、なんでもあるじゃないか。


 よりによって、どうして俺なんだ。お前は……お前は――。


 ポロリ、と。今まで抑え込んでいたものが目から溢れた。


「馬鹿だ、お前は……っ。ここがどんな所か、この一年で分かっただろうが。どっちかが欠ければ、ずっと独りなんだ……こんな寂しい所で」


「欠けません。ずっと、二人です」


「別れる、別れないって話じゃない。人はいつか死ぬ。順番で言えば俺のほうが先だ。十六も上だからな……俺は、お前にここで、独りになって欲しくない」


「だからカツミさんが独りになることを選んだのですか?」


「俺はいいんだ。ここで生まれて、ずっと生きてきたんだ。俺は……耐えられる――」


 話を遮るように、ライナスが俺を抱き寄せ、腕に閉じ込めてくる。

 ちゃんと体が温かい。もう心配しなくてもいいという安堵感の後、俺の体に温もりが染み込んできて胸が詰まってしまう。


 離れてから一日も経っていないというのに、俺の体はライナスの体温に歓喜して、胸を高鳴らせる。


 あれだけ冷え切っていた体が熱い。とっくに俺はライナスに生かされる体になっていることを感じながら、どうにか息を整えて覚悟を溜めていく。


 もう一度離れる覚悟を……だが――。


「……カツミさん」


 ライナスが柔らかな声で俺に囁く。


「ワタシは、ずっとここにいたいです。カツミさんが居なくなった後も、命がなくなるまでずっと……」


「やめろ。今でも俺に染まり切っているくせに、俺がいなくなったら泣き暮らすだろ、お前は」


「アナタを思い出して泣く時はあると思います。でも……」


 一旦言葉を止めて、ライナスが俺の顔を覗き込んでくる。

 そっと愛おしげに、涙が止まらない俺の目元に口付けてから優しく告げる。


「カツミさんの思い出と気配が染みついたこの家で、カツミさんを想いながら作品を作りますから。ずっとワタシはカツミさんと同じ世界に沈んで生きます」


 俺は息も忘れてライナスを見つめる。少し物悲しげに眉を下げながらも、その瞳は喜びで恍惚とした光すらある。


 慰めではない。本心からの言葉だ。俺がいなくなった後も、ここに価値を見出している。むしろここでなければ、どこへ行っても生きられないと暗に言われている気がする。


 とっくに手遅れだったのか。

 ライナスが俺の塗りを一目見て惹かれたあの時から、もうコイツの世界は俺のみになったんだ。


 じゃあ俺が手を取ってやらないと、ずっと独りなんだな。

 多彩な色が溢れた世界で誰もたどり着くことのない底で独り、自分の世界を紡ぐ――。


「ライナス」


「はい、なんですか?」


「後悔しても責任は取らんからな」


「……? 後悔は絶対しないので、カツミさんは責任取らなくてもいいんです」


 心底分からないと言いたげにライナスは首を傾げる。そして、喜びに顔を溶かす。


「ずっとカツミさんを愛して生きること、許して下さい」


 ゆっくりとライナスの顔が近づいてくる。


 もうここで凍えなくてもいいのか。

 本当はこんな雪に閉じ込められた日、こうして向き合える誰かが欲しかった。だが、この家に縛り付けたくなくて諦めていた。


 我慢しなくてもいい。俺からも温もりを求めてもいい。自分を押さえつけていた枷が外れた気がして、思わず俺は首を伸ばし、自分からライナスを迎える。


 唇の柔らかさと熱い吐息が重なる。数え切れないほどこなした行為なのに、心臓が痛いほど高鳴ってめまいを覚えてしまう。


 辺りは静か。雪が俺たちを閉じ込めていく。

 もうどこまでも二人で温まりながら、沈んでいくしかない。


 未来も、才能も、何もかもを俺が奪ってしまう。そのことに罪悪感は残り続ける。それでも嬉しい。


 俺はライナスの背に手を回し、すべてを預ける。さぞ重たいだろうに、ライナスは軽やかに俺を抱き締め、長く吐息を絡め続けた。


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