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おっさんにミューズはないだろ!~中年塗師は英国青年に純恋を捧ぐ~  作者: 天岸あおい
六章 おっさんにミューズはないだろ
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こんなおっさんに命をかけるな

   ◇ ◇ ◇


 予報通り、ライナスが去ってしばらくしてから雪が降り始めた。


 作業場にこもっていても、いつもより辺りが静かで、しんしんと降り続いているのが分かってしまう。もう飛行機で東京へ向かってしまっただろうか――とライナスのことを一瞬だけ考える。


 だがすぐに作業へ集中し、無心になって漆器を研いでいく。少しでも頭が動いてしまうと、別れたばかりのライナスの姿がよぎってしまい、胸に鈍い痛みが広がってしまう。

 その度に、これで良かったんだと自分に言い聞かせる。


 俺はライナスと出会う前に戻っただけだ。死ぬまでずっと独りで漆器と向き合い、夜よりも深い黒を追求していく――それを心から望んで生きてきた。


 独りでいいんだ。俺の人生に誰かを巻き込みたくない。大切な者にここの寒さも、孤独も、背負わせたくない……だから俺は特別な相手を作らずに生きてきたんだ。


 ふと作業机の奥に置いた時計を見れば、もう夜の八時を過ぎようとしていた。


「……何か食べないとな」


 ため息をついて立ち上がり、台所へと向かう。廊下も、居間も、どこもかしも寒々しくて、思わず俺の体がブルルと震える。


 ライナスがいなくなっただけで、家中の温度が下がってしまった。

 料理を作るのも面倒でカップ麺をすするが、いつまで経っても体は温まらない。口の中は熱いのに、体の芯まで熱が届かない。


 こたつを熱くしても、風呂に入っても、体の奥が寒いまま。


 早く寝てしまおうと布団の中に潜り込んでも、体が冷えて仕方がなかった。

 俺は頭まで布団を被り、背中を丸め、自分を抱き締めてどうにか体を温めて眠りにつこうとるす。


 ……寒い。ライナスの温もりを知ってしまったせいで、体が自分だけの熱では満足してくれない。


 ああ、こうなるから特別な奴を作りたくなかったんだ。

 一度でも覚えてしまえば、独りの寒さに気づくから。自分の部屋で初めて孤独の寒さに震えたのは、両親が離婚して、母親がこの家を出て行った日の夜だった。


 俺が成人して間もなく、離婚した母親。いつも寡黙で何を考えているか分からない親父の背が、明らかに縮こまって小さく見えて、動揺と落胆が俺にも伝わってきた。


 本当なら、心細い時に手を取り合って乗り越えてきただろうに――その相手がいなくなってしまった。どれだけそれが辛いことなのか、離婚後の親父の姿が如実に教えてくれた。


 目に見えて何も言わなくなり、気力が抜け出て、あっという間に老け込んだ。あまりの変化に、俺は恐怖すら覚えた。


 誰かを傍に置いた後、こんな孤独と苦しみを覚えてしまうぐらいなら、最初から作らないほうがいい。


 俺は味わいたくない。傍に置きたいほど心を許した相手にも、こんな思いをして欲しくない。


 痛みすら覚えるほどの寒さに、俺は息を詰める。そして心から思ったことを口にする。


「……やっぱり、ライナスにはこうなって欲しくないな」


 俺と一緒にやっている間は幸せかもしれない。

 だが俺が亡くなった後、ライナスがここで独りで苦しむなんて……嫌だ。考えたくもない。


 あれだけ俺に陶酔しているんだ。どれだけ絶望しながら生きるのだろうか?

 だから苦しむのは俺だけでいい。若くて有望なライナスに孤独は似合わない。多くの人間に囲まれ、力を貸してもらい、描きたい世界を全力で描く――きっとこれからはそんな人生を送るだろう。そのほうがいい。


 ライナスの分を俺が苦しんでいると思えば、この辛さも嫌ではない気がした。


 布団に入っても一向に体が温まらず、俺は一度体を起こし、ストーブの前まで這い寄る。背中に布団をかけ、赤々とした光に手をかざしていると――。


「ん?」


 一瞬、静けさが乱れた気がした。

 何か音がした訳ではない。それなのに、雪に閉じ込められていく中、突然異物が混じったような……。


 ふと気になってしまって、俺は立ち上がり、青いはんてんを着て部屋を出る。そして二階へ上がり、廊下の窓から外の様子を見た。


 屋根雪が積もり、窓が半分埋もれている。わずかしか分からない中、俺は目をよく凝らしてみる。


 ――誰かいる。


 白い世界を照らす街灯の下、こちらに近づく人影。

 大きな背丈。体格は男性のものだ。荷物を背負い、雪で歩きにくそうにしながら、ゆっくりと俺の家に近づいて来ている。思わず俺は息を呑んだ。


「ライ、ナス……なのか?」


 こんな雪の中を歩いて来るなんて。恐らく集落前の道路はまだ除雪されていないはず。車では来られない。となれば、町から歩いてきたと考えたほうがいい。


「あの馬鹿、何をやっているんだ!」


 俺は慌てて一階へ降りて玄関へと向かう。

 しかし長靴を履いて、ドアに手をかけようとして思い留まる。


 ここで受け入れてしまえばライナスのためにはならない。残酷でも突き放すべきだ。だが破門を覚悟して豪雪の中を戻ってきたほどだ。家に入れてもらえないからと引き返すか?


 一度こうすると決めたら、何をしてでもやろうとする男だ。だから俺は押し切られて、アイツの温もりを知る羽目になって、すべてを許すまでになった。


 俺が許さないことはしない奴だから、無断で家に入る真似はしない。きっと家の前まで来て、俺が玄関を開けるまで待ち続ける気なのだろう。


 目的のために向ける凄まじい集中力は、俺が誰よりも知っている。普通なら命の危険を感じて引き下がることでも、ライナスは構わず続ける。


 ……ああ、くそ。だから厄介なんだ。

 こんなおっさんに命をかけるな。重いだろ。外へ羽ばたいて欲しくて追い出したのに、即日凍え死ぬだなんて本末転倒だ。人の覚悟も想いも無駄にしやがって。後で嫌になるほど説教してやる。だからそのために――。


 俺は心に勢いをつけてから、ガラリと玄関ドアを引き開けた。目の前は上も下も雪景色。音もなく小さな粒雪が降り続けている。


 いつの間にか雪が膝上まで積もっていやがる。この調子だと、朝には腰近くまで積もるかもしれない。


 今家に入れたら、またしばらく一緒だ。

 思わず俺の手が震える。それが寒さのせいなのか、恐れなのか、喜びなのか、よく分からなかった。


「ライナス……っ!」


 俺が名を呼びながら外へ出ていくと、ぼんやりと見える人影が一旦立ち止まる。そしてザッ、ザッ、ザッ、と雪を踏み締めながら俺に駆け寄って来た。


「カツミさんっ!」


 街灯に照らされたライナスの顔は、真夏の太陽が霞みそうなほどの破顔だった。


「……っ、と、とにかく家に入れ。話はそれからだ」


「はいっ!」


 俺は睨みつけて怒り顔を見せているはずなのに、ライナスが晴れやかな返事をする。昼間の別れのやり取りはなんだったんだと思わずにいられない。


 一秒でも早く怒りたくて、俺はライナスの手を掴み、家へと引っ張っていく。


 出てきたばかりなのに、俺の足跡にもう雪が溜まり始めている。一歩進む度に長靴の中へ雪が入る。足先が冷たさを通り越して痛みを覚える。それを気にするほど俺には余裕がなかった。


 なぜ戻ってきた? 俺がどんな思いでお前を送り出したと思っている。またあの痛みと向き合わせるんじゃない。


 心の中でライナスの文句を散々垂れながら、俺たちは家の中へと入る。互いに雪だらけ。無言で玄関の土間で各々に体に積もった雪を払っていると、


「カツミさん……ありがとうございます」


 不意にライナスから礼を告げられ、俺は息をつきながら顔を上げた。


「家の前で凍死されたら困るからな。だが、雪かきして大通りに出られるようになったら追い出すからな。そのつもりで――ライナス、お前、顔……っ!」


「え? どうしましたか?」


「顔が白くなり過ぎだ! 今すぐ風呂に入れ! そのまま寝ると死ぬぞ」


 ライナスがあまりに生気が消え失せた真っ白な顔をしていて、俺はカッと目を見開いてしまう。


 すぐさま家に上がり、風呂に湯が溜まるよう温水器を操作する。居間のストーブは急速点火を押し、こたつは最大出力。呆然とするライナスの上着やリュックを脱がすのを手伝い、取り敢えず上辺だけ温めさせる。

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