別れの時
「ありがとうございます、ミスター幸正。ライナスのために……」
「私ができるのはここまでです。後はよろしくお願いします」
「もちろんです。私の可愛い甥ですから、あの子の道がより良いものになるよう力を尽くします」
ローレンさんはぎこちなく会釈すると、ソファから立ち上がり、ライナスを追って事務所を出た。
残された俺が大仕事を終えて息をついていると、
「克己……お前、本当にこれで良いのか?」
辻口に声をかけられ、俺はゆっくりと振り向く。
「良いも何も、最初からこの予定だったんだ。漆芸を続けるにしても、絵画に戻るにしても、アイツはここで埋もれていい奴じゃない」
「それは分かるが、今は昔と違う。こんな田舎からでもネットで世界に発信することはできるんだぞ」
「確かに可能だろうが、でもそれはライナスのためにならない。アイツは俺に夢中になり過ぎるから……」
ふと脳裏にライナスとの日々がよぎって、胸の奥が甘く疼く。
一緒にいるだけ、どこまでも二人だけの世界に沈んでしまう。俺たちしかいない限界集落で、漆黒だけの世界に没頭する。夢中になるほど二人だけになって、感覚すら溶け合って、ひとつでいられるような気すらしていた。
それはあまりに心地良くて、胸が満たされる。余分なものが俺たちの間に入り込まない、特殊で幸せな時間。付き合って一年も経たないのに、ライナスとの日々は俺を虜にし、愛に溺れさせた。
今もまだ俺は甘くて愛おしい世界から抜け出せていない。一人だけでは寂しさが募るだけなのに。
それでも俺は、これ以上ライナスとはやっていけない。
俺と愛し合うほどに、ライナスの世界は俺だけになってしまう。その先にあるのは、漆黒よりもさらに深い闇の世界だ。だから――。
「幸正さんの気持ち、分かります。でも俺、ライナスの気持ちも分かるので、自分のことじゃないんですけど……ちょっとショックです」
淡々とした濱中の声に振り向くと、珍しく泣きそうな顔をしている。もしかすると叶わぬ恋をライナスに重ね合わせ、自分を慰めていたのかもしれない。
期待通りにならなくて悪いな、と思っていると、さらに濱中が話を続ける。
「見たところ、ライナスには寝耳に水だったみたいですね。二人でもう少し話し合えば、別れなくても折り合いが付けられるのでは――」
「悪いが無理だ。俺が突き放す理由は、別にあるんだ」
「別の理由、ですか?」
「……濱中、辻口。良かったらこれからもライナスのサポートをしてくれ。俺がいなくても漆芸で活動ができるように……頼む」
俺が深々と頭を下げると、辻口から大きなため息が聞こえてきた。
「そういうことか……まあ、なあ。順番からすれば、俺たちのほうが早いもんな。ライナスとは十六歳差だし」
「どういうことですか?」
まだ察しがつかない濱中へ、俺の代わりに辻口が教えてくれた。
「克己はあの家でライナスを独りにしたくないんだ。事故や病気がなければ、先に亡くなるのは俺たちのほうだ」
「あ……」
「あそこへ縛り付けて独りにさせたくない……克己、お前本当にライナスが好きなんだな」
俺が頭を上げると、隣に並んだ辻口がポン、と背中を叩いてくる。顔を合わせた辻口の表情は、意外にも笑みが零れていた。
「俺も似たようなこと考えてるから、克己の気持ちはよく分かる。俺にはやめろだなんて言えんわ」
「辻口……」
「分かったから、せめて孤立はするなよ。俺からは以上だ」
この人懐っこい人脈おばけが、俺に理解を示すとは思わなかった。
分かってくれるなら助かると思っていると、濱中が小首を振った。
「年齢差なんて、何をやっても変えられない理不尽なものじゃないですか。それが要因だなんて……」
「そうだな、理不尽だな。それでも俺は……自分のエゴでアイツを苦しめたくない」
本音を言えば離れたくない。ずっと温かなまま過ごしたいと願ってしまう。しかし俺が亡くなった後のことを考えると、俺は自分の幸せのためにライナスを犠牲にできなかった。
何を言っても心が変わらないと悟ったのか、悔しげに顔を歪めながら濱中が口を閉ざす。
俺はテーブルに乗ったままのライナスの蒔絵に視線を送る。姿を描かずに俺を閉じ込めてしまった蒔絵。二度と実物を見ることはないだろうと思い、俺はしっかりと目に焼き付けた。
◇ ◇ ◇
ローレンさんの説得もあったのか、家に戻ってからのライナスは俺を困らせることはしなかった。
作業途中の物があるから、それを仕上げてから出ていきたいと言われ、俺は了承した。
日常はそのままにしながらも、終わりの支度をしていくライナス。俺は何も言わず好きなようにさせた。触れたいなら触れさせてやるし、夜も抱きたいようにやらせてやる。でも終わりの期日を変える気は一切なかったし、ライナスも絶対に離れたくないと訴えることはなかった。
それを口にしたら、残り少ない日々すら俺が切り捨てると肌で感じていたのだろう。ライナスは俺の性格をよく分かっている。
どれだけライナスの背中が寂しげでも、俺に微笑む顔が切なげでも、俺は気づかぬフリをして過ごしていった。
本当は無理に抑えないと、俺から手を伸ばして「ここにいろ」と引き留めたくてたまらない。それでもライナスを羽ばたかせるためだと自分に言い聞かせ、変わらぬ日常を演じた。
十二月半ば――ライナスが俺の家から去る日になった。
広々とした土間の玄関で、ライナスは荷物を詰め込んだ大きなリュックを背負い、俺と真っ直ぐに向き合う。
「カツミさん、今までお世話になりました」
「おう。まあ元気にやってくれ」
「はいっ……あの、ひとつ、いいですか?」
「なんだ?」
「一度本国に戻りますが、必ず山ノ中に来て、ちゃんと工房を構えます。そうしたら、カツミさんに会いに来てもいいですか?」
「それなら構わん。二度と会わないとは言っていないからな」
俺の答えにライナスの表情が輝く。だが、
「その代わり期待はするなよ。俺たちはずっと師弟だ」
もう恋人に戻ることはないのだと俺が釘を刺すと、ライナスの目が泣きそうに歪む。
胸が鋭く痛み、俺はそっと目を閉じてライナスを視界から消した。
「ほら、もう行け。ローレンさんが待っているぞ」
「……はい。さようなら、カツミさん」
ライナスが一歩、二歩と俺から離れていく。その足音を耳に入れながら、俺は自分の一番胸の深い所で鳴り響く心音を聞く。
ずくん、と濁った嫌な音だ。吐き気がする。俺の体がライナスと離れることを嘆いているのが分かって泣きたくなる。
だがライナスが俺のことを引きずってしまう材料は与えたくない。奥歯を噛み締め、グッと堪える。
不意にライナスの足音が止まる。まだ玄関ドアは開けていない。立ち止まって俺を見ているのかもしれない。
うっすらとまぶたを開けて見てみれば、ライナスは背を向けたまま立ち尽くしていた。
俺の最後の言葉を待っているのだろうか?
せめて、頑張れよ、と声をかけるべきなのかもしれない。しかし唇を開こうとすると震えてしまい、堪えていた涙が零れ、嗚咽を漏らしてしまいそうだ。
俺の本心をライナスに気づかれたくない。だから俺は無言を選ぶ。師匠失格だな、と弱い自分を情けなく思いながら。
ライナスは振り向かないまま玄関ドアを開け、そして何も告げずに家を出る。優しく丁寧にドアを閉め、家から離れた所に車を停めているローレンさんの元へライナスが向かっていく。
足音が完全に聞こえなくなり、車が走り去っていく音を耳に入れてから、俺は目元を手で覆いながら大きく息をついた。
あっという間に目に熱が集まり、俺の頬へ流れていく。
別れの悲しさもあったが、安堵からの涙もあった。
予報では今日明日中に雪が積もるとのことだった。本格的に降れば、この家は雪に閉ざされてしまう。ライナスの旅立ちに間に合って――雪に閉じ込められる前で良かった。
あとひと冬、あの密度の高い温かな日々を過ごせば、二度とライナスを送り出せなかっただろうから。取り返しのつかない不幸に染まる前に手放してやることができて、本当に良かった。
俺は止まらない涙を拭いながら、唇だけで笑っていた。




