初夏の憂鬱
◇ ◇ ◇
漆器まつりを終えた後。俺から塗りを学びながら、ライナスはローレンさんに漆芸への転向を納得させるための蒔絵の図案を考えるようになった。
いくらライナスの呑み込みが早いからといっても、できることは限られてくる。限られた技術で、いかに自身の世界を表現することができるか――こればかりは俺が教えることはできない。ライナスが自分で考えて答えを出してもらうしかない。
俺にできることは候補の図案を見ての感想を伝えることと、海外用に作った漆のパネルを手配すること。
漆器は乾燥に弱い。国内なら心配はないが、国外だと乾燥が酷すぎて漆器が割れて駄目になることもある。だから海外の乾燥に耐えられる技術を持つ所に連絡し、ライナスがローレンさんに渡す蒔絵を施せる漆のパネルを特注した。
費用は俺持ち。ライナスは遠慮したが、師匠の顔を立ててくれとゴリ押しで進めてしまった。
本来俺は、誰かのためにここまで強引に動く人間じゃない。ライナスと一緒にやってきたせいで、強引さが移ってしまったのかもしれない。夫婦は顔や性格が似てくるという話は聞くが、俺たちもそうなのだろう。
別に結婚した訳ではないが、俺たちはほぼ四六時中一緒にいる。共働きの世間一般の夫婦より、一日を共有する時間が長い。
確実に俺たちの間で特別な繋がりが生まれている。それが嬉しくもあり、心苦しくもあった。俺がこの地にライナスを縛り付けている気がして……。
こんな俺の引っ掛かりに、普段のライナスなら気づいていたかもしれない。
だがライナスは蒔絵の図案に手こずり、煮詰まっていた。芸術に対して目の肥えたローレンさんを納得させる作品に、何を描けばいいのか見えてこない、と言っていた。
俺は何も言えず、ライナスを見守り続けた。
気づけば梅雨が終わり、初夏を迎えようとしていた。
「はぁ……」
夕食を終えた後、ライナスは居間でぐったりと倒れ込んだ。
「そんなに暑くないのに、息がしにくいです……病気でしょうか?」
「これからの時期は湿気が酷くなるから、そのせいだろうな」
俺は苦笑しながらライナスの隣に座り、少しでも息が楽になるようにと背中をさすってやる。
「地元民じゃないと、ここの夏は厳しいだろうな。もっと暑くなると、常にお温泉の中を泳いでいるような感じになるぞ」
「す、すごい所ですね……」
「ここの湿度は世界屈指だからな。まあ慣れるしかないな」
いつもなら「頑張ります!」と力を込めて答えるだろうに、煮詰まって滅入っているせいか、ライナスから元気な反応が返ってこない。
はぁ……と、再び物憂げなため息が返ってきて、俺は苦笑するしかなかった。
「少し夕涼みに外へ出るか? 今なら良いものが見られるかもしれない」
「良いもの、ですか?」
「ああ。ほら立て。行かないなら俺だけでも行くぞ」
「ひとりで夜に出歩くのは危険です! ワタシも行きます」
勢いよくライナスが起き上がり、俺の袖を掴んでくる。
これが同業者の寄り合いで集まったおっさん、じいさん連中なら、絶対に引き留めない。女性や子どもならともかく、男なら何かあってもどうにかするだろうという一種の信頼。見ようによっては放置が当然の、心配とは無縁の扱い。
まあ雑で無関心な扱いのほうが俺は楽だ。だからライナスがちょっとしたことで俺を心配してくる姿を見ると、大げさだと思わずにいられない。
もし辻口が相手だったら、「ふざけるな」と即座に一蹴していたと思う。しかしライナスに心配されると、どこか心地良さを覚えてしまう。愛されていることを実感して、俺の口元が自然と緩んだ。
「ここは夜のほうがまだ安全なんだが。熊と出くわす心配はないからな」
「ハッ……! これからは昼間も絶対にカツミさんをひとりにしません!」
「いや、お前、それはいつも通りだろ。まさかトイレまでついて来るなんて言い出す気じゃあ……」
「ダメですか?」
「やり過ぎだ。いつも通りでも一緒に居すぎだろうが――」
そんなやり取りをしながら、俺たちは外に出る。夜七時を過ぎても、まだ空はぼんやりと明るい。
宵の中、かろうじてお互いの姿を目にしながら、俺たちは廃屋がまばらに並ぶ小道を歩いていく。
見せたかったものがすでに一つ、二つと虚空に浮かび、俺たちのお供をするかのように並び飛んでいた。
「カツミさん、これは?」
「ホタルだ。ここら辺は自然しかないからな。もう少し行くと……ほら、見てみろ」
俺が森の入り口近くを指させば、ライナスがそれを目にして大きな感嘆の息をつく。
薄い黄緑色に光るホタルたちが、至る所で飛び交い、この寂れた限界集落を賑やかに彩っていた。
物心ついた頃から見てきた光景。子どもの頃は無邪気にこの不思議で美しい景色を楽しんでいた。いつからだろうか。この光景を心から喜べなくなってしまったのは。
去年までの俺は、ああ、またホタルの季節が来た、としか思っていなかった。闇夜の幻想的な光を、あるだけ目障りだとすら感じていた気がする。
ただの虫の求愛行動。まるで闇が怖くて、手を取り合う相手を必死に求めているように見えて腹立たしかった。漆黒に沈みたい俺には不要だと思い込んで――。
「カツミさん……きれいですね」
ライナスの囁きに俺は我を取り戻す。ふと顔を向ければ、ホタルの乱舞にライナスが表情を輝かせている。
こんな暗い中でも輝いて見えるなんて、どれだけコイツは明るい世界で生きているんだろうと思ってしまう。
さしずめ俺は光に惹かれて群がる羽虫か。自分から行きたいと望まなくても、どうしようもなく惹かれて体が勝手に向かってしまう。こんなおっさんにたかられて喜ぶのだから、おかしなものだ。
「もう少し奥のほうへ行くか? ホタルまみれになってみろ」
ふと悪戯心が出て、俺はライナスの手を引いて、ホタルの群れへと向かっていく。
俺たちが来た途端、フワァ、と無数の光が仄暗い中を乱舞する。ホタルたちには迷惑だろうが、眺めるだけだ。今日だけ許してもらいたいものだ。
しばらく動かずにホタルを眺めていると、次第にホタルたちは落ち着きを取り戻し、動きを緩めるものや、草木に停まるものが出てくる。中には落ち着きなく飛ぶものもいるが、光の群れは落ち着きを取り戻していく。
そして――フワ。俺の肩やライナスの腕に停まるものも現れた。
「懐かしいもんだ。昔はこうやって毎晩外に出て、ホタルと戯れていたんだ。ライナスは初めてか? イギリスにホタルはいるのか?」
何気なくライナスに尋ねてみるが、答えが返ってこない。
「ライナス?」
首を傾げながら振り向くと、ライナスはその場に立ち尽くし、俺だけを見つめていた。
「……カツミさん。作りたいものが、見えてきました」
俺を見て思いついた?
嫌な予感がして思わず俺はギョッとなる。
「また俺の顔を蒔絵にする気か? やめてくれ。手元に置くならまだしも、売るために作るなら需要を考えろ。おっさんの蒔絵を欲しがる変わり者はお前だけだからな」
「そんなことはないと思いますけど……考えているのは、もっと抽象的な感じです」
言いながらライナスは虚空に何度も円を描き、近くを飛ぶホタルを舞わせるように促す。
俺のほうへ逃げてくるホタルを見て、ライナスがブツブツと独り言を始める。そして次第に声を消していく。深く集中すると、俺の声すら届かなくなる。煮詰まっていたものが消えたようで良かったと思いながら、俺はライナスを見つめる。
宵は夜へと闇を深め、俺たちを呑み込もうとしてくる。そんな中でも暗さに慣れた俺の目は、ライナスの顔をちゃんと認識し、創作に向き合う姿に囚われていく。
俺が一番好きなライナスの姿だ。彼の周りをホタルが舞っているせいか、やけに神々しく見えてくる。
きっと今、ライナスは目まぐるしく頭を働かせ、自分のと漆芸の世界をより深く繋げているのだろう。また一段と成長する手応えを覚え、俺は小さな微笑みを浮かべる。
いったいどんな作品を作るのか、予想はつかない。だが俺は妙な確信を持っていた。ライナスがローレンさんを説得できるだけの作品を作り上げることを。
世界に通用する作品を手がけることができたなら、もう立派な一人前だと言うことができる。俺の力を借りずとも、一人で羽ばたける。あと少しだ。
胸の奥がやけに高揚して、ライナスを抱き締めたい衝動に駆られてしまう。
それと同時に激しい痛みが胸の芯を突き刺し、ツンと鼻の奥が痛む。思わず苦しくて、俺は胸を押さえる。
ああ、夜の帳が完全に降りて良かった。今の俺の顔を見たら、ライナスが無駄に心配するだろうから。
しばらく無言で身動きも取らず、ライナスに好きなだけ思案させる。
――ゆらり。ライナスが動いたかと思えば、こちらに駆け出し、俺の体を抱き締めた。
「カツミさんっ、ありがとうございます! 良い案ができました!」
「そうか。じゃあ後は作るだけだな」
「はいっ。必ずローレンを説得します」
久しぶりに元気のいい返事が聞けて嬉しく思っていると、おもむろにライナスは俺の手を取り、チュッと指先にキスをした。
「家に戻りましょう。案をスケッチしたいです」
「わ、分かった。アイデアは鮮度が命だからな。早く残しておかないとな」
「すぐ終わるので、その後、いっぱい抱きたいです」
「元気になり過ぎだな!? まったく……先に風呂を浴びておく」
俺の答えにライナスがフフ、と嬉しげに笑う。
これはなかなか終わってくれないやつだ。本当に飽きない奴だと思いながら、俺は心の中でそっと覚悟した。




