誰よりも最初に認めてもらいたい
「いいえ! ここにいるために、蒔絵を知りたいです」
「温泉が取りえの山ノ中で、温泉入れんのになしてここおりたいんや?」
「漆を学びたいからです」
「他にも漆やってる所あるんやぞ? ここでなくてもいいやろ」
「カツミさんがいます。カツミさんの漆が良いんです」
「ほんなら、幸正のせがれに習えばええやろ。一応できるハズやろ」
「カツミさんと一緒にいるために、水仲さんの蒔絵が必要なんです」
ライナスの言葉に水仲さんが顔をしかめる。
「なしてオレの蒔絵が必要なんや?」
思いがけず耳を傾けてくれた水仲さんへ、俺はすかさず「実は……」と事情を伝える。
海外に通じる作品を漆芸で作らなければ、ライナスがここにいられなくなる。そのための技術を水仲さんの蒔絵を見て学びたい。水仲さんの手間は取らせない。ただ蒔絵をしている姿を見せてくれるだけでいい。
たった一回。本気で蒔絵に向き合う水中さんを見ることができれば、ライナスは多くを学んでくれる。だから――。
俺の話を聞きながら、水仲さんは服を脱いで風呂へ入る準備を進める。そして肩にタオルをかけながら、ボソリと呟いた。
「オメェ、幸正の所にどれだけいる気なんや?」
「ずっとです。家族になって、ずっと、一緒にいます」
ライナス、さりげなくプロポーズするな。
思わず俺はうつむき、赤面していく顔を隠す。ライナスの言葉をどう取ったのか、水仲さんは小さく唸るだけで何も言わなかった。ただ背中を向けて浴場へ向かおうとした時、
「一回で済む訳ないやろ。気が済むまで来りゃあいい」
水仲さんからの予期せぬ承諾に、俺は弾かれたように頭を上げた。
「水、仲さん……本当に良いんですか?」
「余所もんやないなら応えるだけや」
俺たちに背を向けたまま水仲さんが浴場へ消えていく。
しばらく俺たちがポカンとなっていると、周りで様子を見ていたじいさんが俺に話しかけてきた。
「水仲のじいじ、あれ、喜んどるわ」
「喜んで、ますかね?」
「誰にも相手されんって、いつも愚痴っとるから。家族もよう寄り付かんし、黙々と仕事するだけやから……あれ、ぜってぇ照れとるわ」
昔気質の職人は仕事に没頭するあまり家族との交流が薄く、自分の領域に立ち入れられることを拒む人が少なくない。俺の親父がそうだった。どれだけ凄いことをしていても、身内だとその凄さがよく分からず、雑な扱いをされるというのも珍しい話じゃない。
俺が知っている職人の中で、水仲さんは扱いが難しい人だ。家族も接するのが大変だからと距離を置いているのが見て取れる。
人を拒んでいるようで、本当は必要とされたかったのか?
心の中で首を傾げていると、苦笑しながら近づいてきた辻口がポン、とライナスの肩を叩いた。
「思った展開じゃなかったけど、話が進んで良かったなあ」
「はいっ、ありがとうございます! 辻口さんのおかげです」
おかげ、なのか? まあ確かに辻口が連れて来てくれなかったら、話は進まなかった。俺は「そうだな」と頷いてから、濱中にも礼を伝えようとその姿を探す。
――いつの間にか服を着た濱中に気づき、俺は軽く驚く。
「濱中、もう上がるのか?」
「俺も軽くのぼせたので……ライナスの付き添いは俺がしますから、館長と幸正さんはゆっくり入られて下さい」
どうやら無防備過ぎる辻口は、濱中にとっては刺激が強すぎたらしい。今も全裸で堂々とする辻口を直視できず、濱中の目が泳いでいる。これ以上は彼の目には毒だ。
「ありがとな、濱中。じゃあ辻口、さっさと入って出るぞ」
「分かった。じゃあ頼んだぞー濱中」
何も知らない辻口が濱中に近づき、肩をポンポン叩いてから浴場へ向かい出す。
罪作りな奴だ、と辻口に思う日が来るなんて……。息をついてから俺も立ち上がり、ライナスを見る。
「じゃあ行ってくる。しっかり休んでいてくれ」
「はい、待ってます。早く家に帰りたいです」
にこやかに微笑むライナスの目に、明らかな熱が宿っている。
俺だけに向けた、俺にしか分からない気配。危うく「コラ」と言いかけて、どうにか飲み込む。
頼むから不意打ちで俺を動揺させないでくれ。せめて人前だけはやめてくれ。頼むから。
切実にそう思いながら、俺は浴場へ向かった。
帰りの車の中は静かだった。いつもなら行きも帰りもライナスが俺に話しかけ、俺が相槌を打つなりツッコミを入れるなりするが、今日に限って無言だった。
山のほうへ向かう間際の信号で停まっている間、俺は横目で助手席のライナスを見やる。やけに引き締まった横顔でドキリとした。
真っ直ぐに先を見据えている目。総湯で倒れたことを落ち込んでいるようには見えない。ふと気になって俺からライナスに話を振った。
「何か考え事でもしているのか?」
「はい。カツミさんとの先を、考えていました」
「あんな豪雪でヘクサも多い辺境で、ずっと俺と一緒なんてつまらんだろ?」
「ずっと二人だけでいられるなんて、サイコーです!」
溜めなしの即答に思わず俺は吹き出してしまう。
「普通は俺みたいなおっさんと二人きりなんて、むさ苦しくて遠慮したいもんだがな」
「ワタシにとっては大切なミューズで、たったひとりの愛しい人です」
ライナスらしい答え。もう疑いも反論も俺からは出ない。そして普段なら恥ずかしくて何も言い返さないが、今日だけは俺の口も軽くなる。
「俺も……後にも先にも、お前だけだ」
「ではさっきの答えはイエスですか?」
「保留だ。まず目的を果たさんと、どうしようもないだろ」
「頑張ります! ローレンにも、他の人にも、認めてもらいます」
不意に視界の横で、ライナスがこちらを向く動きをとらえる。
そして身を乗り出し肩を叩かれて振り向けば――チュッ、と音を立てながら軽く唇を奪われた。
もう辺りは薄暗く、前後に車はない。それでも俺の羞恥を煽るには十分だった。
「ライナス、お前……っ」
「カツミさんにも、絶対に認めてもらえる物を作ります。誰よりも最初に、カツミさんに認めてもらいたいです」
言いたいことだけ言って、ライナスはさっさと助手席へ座り直す。停止中でも運転している時はやめろ、と言いたかったが、あいにく信号が青になり、走り出すしかなかった。




