羞恥と我慢の攻防
ああ、これ以上話していると手が出てしまいそうだ。俺はググッとライナスの胸を押して体を離すと、小さく首を横に振った。
「悪かったな。この話はもう終わりだ。コーヒー飲むか?」
「ワタシが淹れます! カツミさんは、ここで座っていて下さい」
俺の返事を待たずにライナスが台所へ向かう。
バタバタと足音が聞こえ、転びやしないかと心配していたら――ガシャン! ドタンッ! 派手に転ぶ音が聞こえてくる。
このままいくと家の中を壊しまくった挙句、大ケガをするんじゃないかという不安が膨れ上がっていく。勝手にしろと突き放せるほど、もう無情にはなれない。
「どうしたものか……」
俺はこたつに脚を入れてから、あぐらをかいて腕を組む。
どう動けばいいのだろうかと考えていると、ライナスが台所からコーヒーカップを二つ持って現れる。
――見事にコケた。広がったコーヒーの池はこたつ布団の手前で止まり、まあ助かった。だが畳と敷布の端は濡れてしまい、慌ててライナスはタオルで拭く。おろし立ての新品タオル。あっという間にコーヒー色に染まってしまう。
「……俺が淹れるから、ライナスはここを片付けたら休んでいろ」
「うう、すみません……」
謝るライナスの肩を叩いてから、俺は台所へ向かう。
俺の姿がライナスから完全に見えなくなった所で、俺は溜まりに溜まった息を吐き出す。
一日も早くライナスに吹っ切れてもらわないと困る。そのためには俺が――。
覚悟を決めるために、俺はコーヒーを淹れながら何度も深呼吸を繰り返していった。
夜、風呂を浴びてから、俺たちはさっさと布団の中へ入ってしまう。
ライナスから無暗に絡まなくなってからでも、寝るのは同じ部屋だ。ただ手を出して来ないだけで、俺と一緒の所には居たいらしい。
タイマーがセットされたストーブは、まだ火が落ちていない。暗い部屋の中で赤く灯りながら、俺たちが少しでも心地良く寝られるようにと部屋を温めてくれている。
ストーブが消えたら一気に部屋は冷える。動くなら今だ。俺は唾をゴクリと飲み込んでから口を開いた。
「……なあ、ライナス」
「なんですか、カツミさん?」
「寒いから、その、温めてくれ」
今まで俺から望んだことのないもの。ライナスからも喉が鳴る音が聞こえてくる。
「あの、今は……できません」
「なんでだ?」
「ガマンできません」
「馬鹿野郎。不調になるまで遠慮するな」
なんでこっちの準備ができている時に引き下がるんだ。こんな時ぐらい空気を読め。
我慢できずに俺はライナスの布団を掴み、サッと身を潜らせて中へ入り、俺より大きな図体へしがみつく。布団の中も、ライナス自身も、あたたかくて眠気がじわりと滲む。
このまま目を閉じてしまえば幸せに眠れそうだと思ったが、眠気の誘惑に抗い、ライナスへそっと囁く。
「俺たちは一応付き合っているし、お前が俺に性欲を持っているのも既に知っているし、俺はそれを受け入れたいと思っている……ここまできて、人の覚悟を踏みにじるのか?」
「いえ、そんな……っ。ただ――」
「ただ、なんだ?」
「ワタシのために、仕方なく覚悟したんですよね?」
ライナスが身じろぎ、俺と向き合うように体の姿勢を変える。そして吐息がかかるほど俺に顔を近づけ、ため息をついた。
「カツミさんの気持ち、嬉しいです。でも無理して欲しくない……本当は嫌なのに、ワタシを受け入れたいなんて――」
「勘違いするな。本当に嫌なら、こんな真似はせん」
言いながら俺は自分の気持ちをはっきりと自覚する。慣れないことをして羞恥に耐えながらも、わざわざライナスのために応えようとしているのは――。
「頼むから、察してくれ。恥ずかし過ぎて死にそうだから」
「死なないで下さい! カツミさんが死ぬなんて……」
「たとえ話だ。死にはせん」
「ああ……良かったです」
「良くない。ここまで勘違いするとは……あのな、俺も好きだから。ライナスに応えたいのは、我慢じゃなくて……俺が、そうしたいからだ」
俺が誰かに告白する日が来るなんて。
誰も受け入れずに生きたいと願っていたのに。俺の都合に誰も巻き込みたくなったのに。それでもライナスのぬくもりを覚えてしまった今、もっと欲しくてたまらない。
生涯独りで漆に向き合う覚悟だったのに、ライナスは俺と一緒にこの世界へ沈むことを望んでくれた。誰かのぬくもりを得ながら、自分の望みを叶えられる――ずっと抑え込んでいた欲が胸の奥底から顔を出す。
「俺に変な気は遣うな、ライナス。今まで通り俺を振り回せばいい。それで俺がどれだけ救われているか……」
「カツミ、さん……」
「ここにずっと居たいなら、もっと貪欲になれ。創作のことも、俺のことも、全部かっさらえ。お前にはそれができるだけの力がある」
俺はライナスに顔を寄せる。
「興が乗らないなら、それでもいい。いつでも俺に溜まったものをぶつけてしまえ……それで早く、いつもの笑顔を見せてくれ」
ゆっくりと自分から首を伸ばし、ライナスの唇に口付けた。
――ガバッとライナスの両腕が俺を抱き込む。昼間の無反応とは真逆の激しさに、俺は咳き込みかける。
年上で師匠である俺がリードするべきなんだろうが、キスに応えるだけで精一杯な上に、この先をまったく知らない。しばらくされるがまま唇を許し続ける。
ようやく俺を腕の中から解放したライナスが、俺に覆い被さる。ストーブの灯りでかろうじてぼんやり見えるライナスの顔に、満面の笑みが浮かんでいた。
「ずっと、カツミさんが欲しかったです……もっと早く、抱きたかったです」
「だろうな。バレバレだったからな」
「でも無理させたくないので――」
ライナスは俺の耳元に顔を寄せ、そっと囁く。
「ゆっくり、優しく、カツミさんを愛しますから。いっぱい喜んでもらえるよう、たくさん、たくさん……」
吐息で耳をくすぐりながら、宣言通りにライナスは俺の首筋や頭にもキスを刻んでいく。
漆のにおいが染みついている指にまでキスを贈られた時、頭の芯が一瞬で燃えた。
「愛しています、カツミさん……ずっと――」
「ふ……っ……俺も……あ、愛して……る」
掠れて今にも消えそうな声で告げた想い。ライナスから返ってきたのは感嘆のため息だった。




