見るに見かねて
俺の発言に全員が固まる。
自分でもかなり無謀なことを言ってるのは分かる。何年もかけて技術を学び、勘を養い、身をもって漆との付き合い方を学んでいくのを、一年経たずで身につけさせるなんて、我ながら馬鹿な発言だ。
だがライナスの筋はいい。何より集中力の化け物だ。コツをもったいぶらずに教えれば、きっと――。
「ライナス、やれるか?」
俺に話を振られ、即座にライナスは頷く。
「やります。カツミさん、お願いします」
まだ了承していないのに、俺たちだけで勝手に決める流れになってしまい、ローレンさんがわずかにオロオロする。しかしすぐに調子を戻し、俺を睨みつけた。
「上手くできたとしても、せいぜい数万から数十万でしょう? ビジネスとして考えると、絵画よりお金を生みませんね。それを私が認めても損をするだけ――」
「漆芸で絵を描くこともできます。作るかどうかは分かりませんが、ライナスの知名度が既にあるなら、絵を入れて高く売ることはできるかと」
「……絵、描けるのですか?」
ローレンさんの目が点になる。異国の伝統工芸に詳しい人などなかなかいない。彼女が蒔絵を知らなくて当然だ。俺はしっかりと頷く。
「金や螺鈿などで模様を付けたり、風景を描いたり、虫や動物を描いたりもできます。どんな内容になるかは本人のセンス次第ですね」
ローレンさんは何度も小さく頷いた後、ライナスに向けて早口に何かを伝える。
俺の隣で「おっ」と辻口が声を上げた。
「必ずクライアントが納得できるものを作りなさい、って言ってるな。良かった。克己の提案を呑んでくれたみたいだな」
納得してくれたなら良かったと胸を撫で下ろしていると、
「ミスター幸正」
ローレンさんに呼ばれて目を合わせると、彼女はニヤリと笑った。
「必ず彼に素晴らしい作品を作れるよう、教えて下さい。そのためなら手取り足取り、何をされても構いませんから」
「もちろんそのつもりです。ライナスには覚悟してもらいます」
俺の返事を聞き、ローレンさんは再度俺に手を差し出してくる。
つい先ほど不本意そうなやり取りをしたが、それとは明らかに重みが違う。
必ず売れる作品を作れ、というプレッシャー。望む所だと挑むように俺はローレンさんと固い握手を交わした。
漆芸館から出て、スーパーで食材を買い込んだ後の帰り道。俺は運転しながら口数が少ないライナスへ話しかけた。
「今日の件で時間がなくなったから、死ぬ気で頑張ってもらうぞ」
「……はい。よろしくお願いします!」
間は空いたが、ライナスから良い返事が飛んでくる。これなら教えている最中は、漆芸に必死に打ち込んでくれるだろう。後は集中力の純度を高めてやれば、きっとライナスは著しく伸びるはず。そのためにはなるべく我慢させないほうがいい。
俺は素早くこれからの方針と考えをまとめると、さらりと自分の覚悟の現れを見せた。
「漆芸に専念してもらいたいから、俺に対しての我慢はしなくていい。抱きたかったら抱け。手を出されても文句は言わん」
「えっ、カツミ、さん?」
「ムラムラしてたら漆に集中できんだろ。適度に発散して、昼間はしっかり学べ」
言いながら俺は、羞恥で頭をハンドルに打ち付けたくなる。
俺がここまでする必要はあるのか? と思いたくもなるが、ライナスにはよく効くだろう。俺の言動ひとつでやる気を跳ね上げることも、嘆き悲しんで物事が疎かになることもあるような奴だ。目的を果たすためなら、俺の体も利用してやる。使えるものはなんだって使ってやる。
てっきり大喜びするかと思ったが、ライナスはしばらく口ごもり、家へ到着する間際に「ありがとう、ございます」と礼を告げてくれた。
家より少し離れた空き地――俺たちで雪を退かした所へ車を停めると、降りようとして各々にドアを開く。ライナスの動きは油の足りない玩具のようにぎこちなかった。
◇ ◇ ◇
元々漆に対して真摯に向き合っていたライナスだったが、さらに集中して漆芸に取り組むようになった。
俺の動作を盗み見ながら下地を塗り、研ぎを施し、美しく均一な形を作り上げていく。
良い物を作るためには、良い道具が欠かせない。最初に刃物の研ぎを仕込んだおかげで、扱いやすいヘラを削ることができたし、刷毛の状態も良かった。
目に見えて成長していく姿は、横で見ていて嬉しい。師匠として優秀な弟子は誇らしい。もちろん、まだライナスの絵画の価値には届いていない。だが土台は出来上がりつつあった。
雪が降ったり止んだりで、減らない雪に囲まれ、一日中家の中で二人で過ごす日々。漆芸が終われば、否応なくお互いを向き合う時間となる。ここは問題ないだろうと軽く考えていた。
――まさか許した途端に、今までよりもライナスが俺に手を出さなくなるとは、夢にも思わなかった。
「――あっ……」
黙々と作業している中、唐突にライナスが声を上げる。
顔を上げて目を向ければ、ヘラに取った下地がライナスの手の上にボトリと落ちているのが見えた。
「早く取って、テレピンで拭いておけ。後回しにしていると、しばらくかぶれて大変だぞ」
漆は肌に着くと、きれいに拭き取るだけではかぶれてしまう。テレピン油をティッシュに染み込ませた物で拭く必要がある。
言われた通りにライナスが作業台の脇にあるテレピンを手にし、ティッシュに出しかけ――ドペッと多めに出てしまい、テレピン独特の甘みと油臭さが混じったにおいが部屋に広がる。
「ああ……す、すみません……っ」
申し訳なさそうにうつむきながら、ライナスは零してしまったテレピンを拭き取り続ける。その姿を見て俺は密かに息をつく。
ここ数日、ライナスの調子が悪い。明らかに他愛のないミスが増えている。しかし弛んでいるかといえば、やる気は十分過ぎるほどある。空回りして気疲れを起こし、手元が狂う――何が原因かはなんとなく察している。
「おい、ライナス」
俺は立ち上がって蓋つきのごみ箱を手にし、ライナスの所へ持っていく。
「こっちに入れろ。それだけ量が多いと、キツいにおいがずっと中に充満するからな」
「あ……は、はい」
言われてライナスがモタつきながらゴミを捨て終えた時、俺は居間の方角に向かって顎をしゃくる。
「休憩するぞ。一緒に来い」
少し言い方が雑だったせいか、ライナスの表情がさらに翳る。
ローレンさんとやり取りした後から、眩しいばかりの笑顔を見ていない。正直面白くない。
先に立ち上がり、俺はライナスの頭を撫でてやる。ほんの一瞬、俺を見上げるライナスの目に熱と喜びの輝きが宿る。
しかしギュッと固くまぶたを閉じ、ライナスはブンブンと頭を振ってから立ち上がる。その時にはもう元の沈んだ目に戻っていた。
作業部屋を出て一緒に居間に足を踏み入れてすぐ、
「ライナス、ちょっと屈め」
「……? これでいいですか?」
「おう。丁度いい」
俺は顔が近くなったライナスに口付ける。頬や額じゃなく、逃げずにしっかり唇に自分からキスをかます。
今までならライナスが勝手にやってきたこと。俺からするのはこれが初めてだ。
驚いているのか、ライナスの唇に力が入って固くなっている。ここまですればコイツから動くだろうと思っていたが、予想に反して動きは皆無。これでも足らないのかと舌も差し入れてみるが、ビクッと跳ねるものの、反応が返ってこない。
人が勇気を出して、慣れないことをしているのに……っ。
次第に腹が立ってきてキスを切り上げ、ギロリとライナスを睨む。
「もう俺に飽きたなら飽きたと言え。そんなことで破門はせんから」
「まさか! 飽きるハズがないです。ただ……」
俺を見下ろすライナスの顔が泣きそうに歪む。そっと俺の頬に手を当て、やけに切なそうに覗き込んできた。
「ワタシのために、無理しているのが分かって……辛いです。カツミさんに無理させたくないです」
お前な。初対面から俺に無理を押し付けてきたくせに、今さらそれを言い出すのか。そうやって俺に無理をさせ続けて始まった関係だ。今になって無理強いしたくないだなんて、ふざけるな。




