提案
俺の返事を待たずにライナスが辻口とともに事務所を出ていく。まるで戦いにでも行くかのような気迫に、俺も濱中も息を呑む。
「濱中、ライナスから何か聞いているか?」
「いえ。幸正さんのことでしか相談を受けてなかったので……彼の事情は俺もさっぱり知らないです」
互いに顔を見合わせ、どうしたものかと目で相談し合う。
俺を置いて向かったということは、できれば俺と件の来客を会わせたくないのだろう。ライナスの意図を汲むなら、このまま待つべきなのかもしれない。
しかし俺はライナスの師匠で、一緒に住んで面倒を見ている。トラブルは放置できない。
俺の中では答えが出た。濱中はどうだろうと伺えば、覚悟を決めた目つきをしていた。
「行くか、濱中」
「はい。何かあったら困りますから」
各々に椅子から立ち上がり事務所を出ると、ハスキーな声で女性が英語でまくしたてるのがここまで聞こえてくる。
意味は分からないが興奮した様子。女性の怒気を感じながら騒がしさを頼りに近づいていけば、館内のエントランスホールで一方的に会話を続ける金髪の女性と、ライナスと辻口の姿があった。
三人は俺たちに気づいて一斉に目を向ける。
俺と似たような背丈の中年女性は、顔に深いシワを刻みながらも覇気を漂わせ、鋭い目で俺を睨む。どこか俺を非難している目。少なくとも友好的な目ではない。
ライナスと同じ毛質の金髪は背中の中ほどまであり、軽やかに波打っている。服はこの雪に合わせたのか、白いパンツルックに黒のダウンジャケットだ。
俺を殴りたそうに早歩きで近づきかけたが、ライナスに腕を掴まれて彼女は足を止めた。
険しい目がライナスへ移る時、彼女の眼差しから敵意が一切消える。そして悲しげな色を称えながら何かを訴える。状況がまったく分からず棒立ちする俺たちの横に、ススッと辻口が並んだ。
「克己、お前は逃げたほうがいい。話がこじれそうだ」
「そう言われてもな……せめて状況を教えてくれ」
「彼女はローレンスさん。ライナスの叔母さんで画商だ。ライナスの絵を売り込んで、名声を高めてくれた人らしいぞ」
彼女の正体が分かった瞬間、揉めている理由がなんとなく見えてくる。
突然ライナスが絵を描かなくなった上に、こんな異邦の田舎で漆芸を学び始め、永住する気でいる。ローレンさんからすれば青天の霹靂だっただろう。絵を売り込んでいたぐらいだから、彼女もライナスの才能に惚れ込んだ一人だと思う。ならば筆を置くきっかけを作った俺に、怒りを向けるのは当然だろう。
英語で言い合い続ける二人を見ながら、俺はわずかに息をつく。
「辻口、翻訳を頼む」
「え? 急にどうした……って、おい、行くな克己。彼女を刺激したら――」
辻口の忠告に構わず、俺はライナスとローレンスさんの元へ歩いていく。
「ライナス、彼女から手を離すんだ」
俺の声にライナスが目を丸くし、勢いよく首を横に振る。
「ダメですっ、叔母さんが――」
「構わんから」
眼差しを強めてライナスに念を押せば、戸惑いながらゆっくりとローレンさんから手を離す。
日本語が分かるのか、彼女は激情を抑えて俺を見つめた。
「初めまして。ローレン・ケイト・コンウェイです」
荒い息のまま日本語で名乗り、ローレンさんが雑に手を差し出す。
「幸正克己です。初めまして」
俺も手を差し出して握手を交わせば、ローレンさんが男顔負けに力を込めてくる。彼女から苛立ちと怒りがひしひしと伝わってくる。しかし俺は顔をしかめず、負けない程度に力を込めた。
揺らがない俺に軽く目を見開いた後、ローレンさんは小さく笑った。
「ワタシの大切な甥を愛して下さる方と、お会いできて光栄です」
俺たちの関係をどこまで知っているのか分からないが、ローレンさんは『愛』をやけに強調して言ってくる。そして丁寧な応対で好意的に見えるが、目の奥は笑っていない。ライナス同様、本心を隠せないタイプに見えた。
「ミスター幸正、手短に用件を言います。ライナスをアナタから解放してもらえませんか?」
「解放、とは?」
「若くて将来有望なツバメを囲っているようで、アナタは幸せでしょう。しかしライナスは絵画の神に選ばれた寵児。こんな単調な色合いの世界に収まる者ではありません」
ピク、と俺のこめかみが引きつる。
俺はただこの地で黙々と漆に向き合ってきただけなのに。漆に興味を持って、俺の塗りに一目惚れして、勝手に押しかけてなし崩しで弟子になって――全部ライナスが望んでやったことだ。
少しでも穏便に、と思っているのに自分の目が据わっていくのが分かる。さぞ目つきが悪くなっていることだろうと思いながら、俺は取り繕わずに口を開く。
「ライナスは自ら進んで俺の所へ来ました。色々ありましたが、今は弟子として漆芸の技術を教えています。彼は子供ではないのですから、彼の意思を尊重してはいかがですか?」
「え、ええ、そうですね。しかし――」
ローレンさんがチラリとライナスを見やる。
「彼には大勢のファンがいます。多くの人が彼の絵を求めています。それなのに一方的に絵をやめると言われ、逃げるように国を出て……これを見て下さい」
不意にジャケットの内ポケットからスマホを出すと、ローレンさんは素早く操作し、画面を見せてくる。
海外のニュースサイトの記事だ。ちゃんと俺に分かるように、わざわざ日本語訳に直してくれている。
見出しは『若き絵画の寵児、日本に囚われる』。
一瞬翻訳に違和感を覚えるが、すぐに翻訳のズレに気づく。漆は英語でJapanと言われることもある。だから『日本』と訳されたのだろう。わざわざ創作のジャンル替えをしただけでニュースになるほど、ライナスの存在があちらのほうでは有名らしい。
ライナスの絵は確かに凄い。このニュースに驚きはするが、同時に納得もしてしまう。
これだけ影響力のある芸術家なのだ、ライナスは。それなのに今まで手にしてきたものを放り出して――。
俺は一度息をついてからローレンさんに告げる。
「ライナスの絵が素晴らしいことは知っていましたが、ニュースになるほどだったことは初耳です」
「まあ、彼の絵を知っていましたの? 日本にはまだ卸したことはありませんのに」
「彼がこの町の博物館に最後の絵を寄贈したので、それを見ました」
特に隠すことではないと思って口にしたが、ローレンスさんの唇が次第に戦慄き、ただ事ではない気配を強めていく。
そしてライナスに向けて英語で何かを叫び出す。何を言っているのかと首を傾げていると、隣から辻口が教えてくれた。
「えっとな、『最後の絵を売らずに譲るなんて! 貴方がそんな愚か者だったなんて! どれだけの高値をつけられるか分かってるの?』だと。俺、知らずに受け取っちゃったよ」
遠い目をする辻口へ俺は耳打ちする。
「気を付けんとお前もローレンさんの標的になるぞ」
「だろうなあ……」
憂鬱そうに辻口が息をつくと、いつの間にか駆け付けていた濱中と目が合った。
「濱中、俺のことは構わなくていいから、辻口を守ってくれ」
「それは構いませんが、幸正さんは?」
「俺は大丈夫だ」
短く伝えて、俺はローレンさんへ顔を向き直す。
「ローレンさん、俺の話を聞いてくれ」
一方的にライナスに言葉で迫っていたローレンさんが、険しい顔つきのまま俺を見る。
「すみません、ミスター幸正。今、話ができる状態では――」
「今年の秋まで、ライナスが好きに活動できる時間を下さい。絵画のように漆でも認められる腕になるよう、俺が教えます」




