降り積もる雪の中で
◇ ◇ ◇
朝食を終えてライナスは出かけて行った。
俺のやることは変わらない。ライナスがいてもいなくても、俺は作業場で黙々と漆と向き合い、塗りと研ぎを繰り返すだけ。この仕事に就いた時から、ずっと変わらない俺の作業。納期があるからには手を止める訳にはいかない。黙々と続けるだけだ。
頭では分かっているのに、一人で家にいるのが落ち着かない。
ライナスが俺の所へ住むようになって、初めて単独での行動。それまで俺が嫌だと拒んでも、アイツは俺の作業を見たいからと、どこにでもついて歩いた。
今までがおかしかったんだ。むしろ外出は健全に変わる変化の印。良いことのはず。俺から離れてライナスが行動しているんだ。それは喜ぶべきだ。俺が望んでいた距離感になるのだと――。
「ああ……っ、クソ、集中できん」
俺は作業の手を止め、並べていた椀を風呂へ戻す。
そうして立ち上がって居間へ行くと、こたつに入ってバタンと後ろに倒れた。
見慣れた古しい天井を仰ぎながら、俺はハァ……と大きく息をつく。
「どうしてこんなに腹ん中がモヤモヤとするんだ? これじゃあまるで俺が――いや、そんなはずはない」
ふと浮かんだ考えを追い出すように、俺は首を何度も横に振る。
なぜこうも割り切れないんだ? 俺がアイツに惚れたとでも?
起きているだけモヤモヤしてしまう。それなら一度、思考を止めてしまえ。
俺は目を閉じて体の力を抜く。今は午後三時近く。昼寝するには少し遅いが、一旦眠って流せるようにしたい。意識して呼吸を深く、ゆっくり吸い込み、眠りの世界へ自分を誘う。
まぶたの裏にライナスが浮かぶ。
今朝も申し訳なさそうな顔をして出て行ったのに、一番目にしてきたのがライナスの朗らかな笑顔のせいで、まぶたに焼き付いているのは笑顔のままだ。
ズキリ、と胸が痛む。もうこの顔が見られなくなったら……と思うと苦しくなる。同居して二か月も経たないのにこの有様。だから嫌だったのに――。
フッ、と意識が浮上してきて目を開ければ、もう外は真っ暗だった。
慌てて飛び起きて時計を見れば、もう夜の八時を回ろうとする頃。軽い昼寝をするつもりが、こんな時間まで寝てしまうとは……。
俺は頭を掻きながら流し台へ行く。ライナスがいないからと、手抜きして食べたのはカップ麺。ゾゾ、と麺をすすれば、ほのかな味噌の風味が鼻を抜けていく。ここ最近食べていなかったから、久しぶりに食べると美味く感じる。
俺は元々、食に関してはズボラだ。腹に入ればそれでいい。味は食べられないほど不味くなければいい、という人間だ。
ライナスが来る前まではカップ麺の頻度は高かった。袋麺ですら作るのが面倒だと考えるほどだったのに。気づけばライナスがいるからと、まともに料理を作って食べている。
追い出したいならカップ麺ばかりで済ませれば良かったのに、と今さらながら思う。だがアイツのあまりの無計画さに流されて、作ることになってしまった。ここがどんな所か知りもせず遠い国からやって来て、俺を見つけて押しかけて――。
出会った時はライナスが理解できずドン引きしたが、今なら少しは分かる。感性のひらめきは一期一会。後先考えられなくなるほど、俺の塗りの世界に惹かれたのだろう。
「……っ」
急に顔がカッと熱くなる。
俺もライナスと同じように、アイツの作品を一目見て惹かれてしまった。その時の衝動の強さをライナスは俺に対して抱いたのだと思うと、悶絶したくてたまらなくなる。
外からあれこれ言われても響かないのに。自分が感じたことに絡まり、俺の内から一緒に込み上がって胸をくすぐられると心が乱れる。
顔の熱が頭の芯まで移ってくる。このままだと知恵熱を出してしまいそうな気がして、俺は無理やり考えを切り替える。
顔が熱いのはカップ麺のせい。料理をするようになったのは、ライナスが包丁を研いでくれて切れ味が良くなったせい。
食べ終わって息をつけば、部屋の静けさに心が落ちついていく。
俺しかいない部屋。誰の気配もなく、耳が痛みを覚えそうなほどの静けさ。特に冬の時期は――。
「はっ、まさか!」
嫌な予感がして俺は居間のカーテンを開ける。
白くてフワフワしたきれいな厄介ものが、窓の外で降り積もっていた。
暗い中に無数の雪。もう長靴が全部埋もれるほど積もっている。この積雪ペースだと、明日の朝までには一メートル近く積もるかもしれない。
一応いつ雪に閉じ込められてもいいように、食料や水は用意してある。いつもならば、げんなりして諦めの極致に至って眠りにつく。この地に住む者の運命だ。
だが、今はライナスがいる。
俺は慌ててテーブル上のスマホを手に取る。ライナスからの連絡は入っていない。まさかデートに夢中で積雪に気づいていないなんてことは……。
一瞬躊躇したが、緊急事態だと判断してライナスに電話をかけてみる。呼び出し音が続いた後、留守番電話のアナウンスに切り替わってしまう。
こうなったらメッセージを送って反応を待つしかない、と俺はライナスに伝言を送る。
『今どこにいる? 取り敢えず連絡をくれ』
手早く操作し、後は返事を待つのみ。
ソワソワしたところでどうにもならないと分かっているのに、俺は部屋の中をうろついてしまう。
ふと、濱中の顔が浮かぶ。今ライナスと一緒にいる可能性が高い相手。もしかしたら別の相手とデートかもしれないが、当たってみる価値はあるだろう。
俺は濱中に連絡を入れてみる。三コール目で『はい』と声が返ってきて、俺の胸がドキリと跳ねた。
『どうしましたか、幸正さん?』
「濱中、ライナスはいるか?」
『いえ、いませんけど……今日は顔も合わせていませんし』
「じゃあどこへ行ったか知ってるか? 昨日、ライナスが出かけることを話していたんじゃないのか?」
俺の質問に濱中が口ごもる。明らかに何かある気配。俺は口調を強めて言い迫る。
「この雪だ。何も知らないままだと帰れなくなる」
スマホの向こうから、小さく息を引く音がする。そしてかすかに唸ってから、濱中は静かに教えてくれた。
『多分、今日は俺の知り合いのバーに行ってると思います。昨日、ライナスが知りたいことを教えてくれる知人を紹介したんで……』
「知りたいこと?」
『内容は本人から聞いて下さい』
一体何を知りたがったんだ? 漆のことなら俺に聞くだろう。だとしたら漆以外のことで、俺に聞きにくいこと……よく分からん。
頭を悩ましていると、濱中の声で俺は我に返る。
『早く帰るよう知人が促していると思うので、帰ろうとしている最中じゃないかと――』
「分かった。教えてくれて助かる」
俺は通話を切ると、部屋の隅にかけてあった赤色のジャンパーに袖を通し、玄関のラッセルを手にして玄関を開ける。
サァァ……と積もっていた雪が玄関前に雪崩れる。
未だ降り止まぬ雪を見上げて息をついてから、俺はラッセルで雪かきを始めた。
幸い、積もり立ては雪が軽い。ラッセルを押して道を作り、動きにくくなれば集めた雪を脇に退かす。
雑でいい。ライナスが帰ってきた時に家へ入れるよう雪を退かしていく。俺しかいない限界集落。しんしんと降り積もる雪は、俺が立てる音ごと包み込もうとしてくる。
ふと振り返れば、退かした所がもう新たに積もり始めている。焼け石に水。分かっている。だがライナスがここへ帰ろうとしているなら、せめて家に入ることができるようにしてやりたい。
俺が誤解していなければ、アイツは雪が酷いからと外で一泊するような奴じゃない。俺の元へ意地でも戻ろうとするはず。
しっかり昼寝したおかげで体力は十分だ。俺の集落の近くを通る主要の道路まで雪をかくと、既に除雪がされており、雪の段差が生まれていた。
踵を返して新たに積もった雪を退かしていこうと考えていると、かすかに人の声がした。
振り向くと、長身の人影が手を振っているのが見える。俺は思わず走り出し、人影に駆け寄った。
ほの暗い街灯が峠道を点々と照らす中、雪にまみれたライナスが姿を現わす。ジャケットを着ているが、帽子やマフラーや手袋はしていない。この豪雪にはそぐわない姿。
俺はライナスへ駆け寄り、すぐさま声をかけた。
「大丈夫かライナス! 車はどうした?」
「……途中のカーブでスピンして、雪の中に突っ込んでしまいました」
詳細を聞かずとも、どの場所でどんな状況で事故を起こしてしまったのか想像がつく。町から山道へ差し掛かったばかりのカーブは、街灯があっても薄暗い。加えてこの吹雪で視界が悪い。常に陰になっている所だから寒くて凍りやすい。
よく通い慣れている地元民でも、うっかりして車をスピンさせることがある要注意ポイント。初めてここの冬を味わうライナスが事故を起こしてもおかしくはない。
どこかおかしな所はないかとライナスを見回しながら俺は尋ねる。
「路面も視界が悪いからな。まあ、ここらじゃあ珍しくない。ケガはないか?」
「は、はい……」
事故を起こしてショックを受けているのか、ライナスがシュンとして答える。加えて体も凍えて、元気が根こそぎ奪われている。
早く家の中に入れなければ。そんな焦りから、俺は迷わずにライナスの手首を掴み、引っ張り歩く。
「車、どこかに連絡はしたのか?」
「あ……いえ、まだ……」
「家に戻ったら連絡しておく。だからライナスはしっかり体を温めることだけ考えろ」
「カツミさん……ありがと、ございます」
ライナスの声が震えている。寒さのせいか、それとも涙目になっているのか。何に対してもめげなさそうな奴だが、さすがにこれは堪えるのだろう。
俺は振り向かず家までの道を早足で進んでいく。ついさっきまで俺が作り上げた雪中の道は、もう積雪で埋もれ始めている。間もなくに完全に消えそうだ。
しばらく雪に閉じ込められることになるのか、ライナスと……。
ふとそんなことを考えてしまい、体の奥が熱くなる。逃げることも、追い出すこともできなくなるのだ。雪が落ち着くまでの間、俺は逃げ場を無くしてしまう。それが嫌で当初はライナスを降雪前に帰ってもらおうとしていた。
だがライナスは根気強く俺についてきて、俺はライナスの絵に惹かれてしまって、前よりも受け入れてしまって――こうして自らライナスを家に戻そうとしている今に、自分が変わってしまったことを実感する。
もう取り返しがつかない所まで来てしまったのかもしれない。
今からでもこの手を離すべきだ。
そう考えても俺の手はライナスを掴み続けてしまう。手放すどころか、吹雪の中で絶対に離れ離れにならないよう強く握り続ける。
静けさの中、俺たちの足音だけが聞こえる。もう間もなく家に着きそうになり、俺はライナスに振り向いた。
「あと少しだ。頑張れ」
「……はい」
青白く凍えたライナスの顔に、笑顔の明かりが灯る。
力が抜けた安堵の笑み。しかしその目は、純粋な喜びに色めき立ったものが混じり、やけに湿り気を感じてしまう。
本当に俺は、ライナスを家に入れてもいいのか?
一瞬だけ俺の頭に疑問がよぎる。だが降り積もっていく雪があまりに酷くて、手放すことはできなかった。
まるでライナスを誰もいない寒々しい中に置き去りにしてしまう気がして――孤独の寒さなんて、ライナスには似合わない。
俺は小さく口端を引き上げると、玄関扉を開けて一緒に中へ入るまで、ライナスの手首を掴み続けた。




