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おっさんにミューズはないだろ!~中年塗師は英国青年に純恋を捧ぐ~  作者: 天岸あおい
三章 ライナスのぬくもりに溶かされて 
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冬が始まる

   ◇ ◇ ◇


 俺はライナスに漆芸を教える。


 ライナスは時間が空いた時に絵を描く。


 漆はすぐに乾かない。だから作業ができない時間が発生しやすい。ライナスが漆芸と絵画を両立させることは、決して難しいことではなかった。


 それでも絵画と距離を取りたいのか、長い時間を費やすことはなかった。

 漆芸館へ出向かない日の昼食後、ライナスは鉛筆を握ってスケッチするようになった。モノトーンでも色彩を感じさせる描写力。正直羨ましい。俺は蒔絵こそできるが、絵自体は下手だ。


 鉛筆を軽やかに動かして自分の世界を作ってしまうその様に、俺は何度も見入ってしまった。そんな俺にライナスが気づくと、嬉しそうに口端を引き上げた。


「好きなものは見たくなりますよね。ワタシも同じです」


 一緒にするなと言いたかったが、やはり同じかと俺は内心頭を抱える。


 ライナスは俺の漆芸のファンで、俺はライナスの絵のファン。

 好きなものを作る作業はどれだけでも見たい。皮肉なことにライナスの絵を見たあの日以来、今まで理解できなかった俺に対するライナスの言動が分かるようになってしまった。


 自分が惹かれる物を作ってくれる相手の手の動き、作品への眼差し、真摯に向き合う横顔――確かに褒め称えたくなる。美しいと感じてしまう。


 絵を描くライナスに何度も見惚れ、我に返り、自分もこんな風に見られているのかと心の中で悶絶する。そして自分がライナスと同じ場所にいることを自覚して、ふと考えてしまう。


 ライナスが恋愛対象として俺を見ているなら、俺もライナスをそう感じるようになるのか?


 今はあり得ないと即答できる。異性ですら付き合いたいと望んでいないのに、男と関係を持つなんてあり得ない。


 だが漆芸と絵画。ジャンルは違えど、お互いに心の深くにあるものを形にした作品に惹かれ合ってしまった。ファンになった相手からの『好き』は心が揺らぐ。前のようには流せない。せいぜい平静を装うことで精一杯だ。


 ずっと誰も寄せ付けないようにしてきたツケが回っていきたんだ。懐の中へ誰かを入れることに免疫がなくて、無様に振り回されている。


 もう四十にもなったおっさんなのに、動揺し続けるだなんて情けない。しばらくすれば慣れてきて、ライナスの無遠慮な好意も気にならなくなるのだろうと思いたい。


 年を食って、大抵のことは時が解決してくれることは身に染みて分かっている。

 慣れるまでの辛抱。だが、これから本格的な冬が始まる。寒さと雪に閉じ込められてしまう冬が――。





「はぁぁ……寒くなってきたなあ、克己。もうタイヤは変えたか? 去年は雪が少なくて楽だったが、今年はすごいらしいぞ――」


 朝、漆芸館の控室で準備を進めていると、ノックしてすぐに辻口は部屋に入り、ヒーターの前へ陣取った。


「辻口。俺のヒーターを取るな」


「館長権限で、今だけ俺のだから」


「お前の頭の中は未だにガキか? 今度お前の家に行ったら愛娘に言っておくからな」


「ああっ、言わないで。最近娘の目が厳しいから。親父ギャグ言おうものなら、絶対零度の眼差しで睨まれるから」


 謝りながら辻口は、ストーブ前から体を半分だけずらす。完全に譲らないあたり辻口らしいと思うが、ヒーターを点けていても部屋は肌寒い。温風が俺に届くようになったからいいかと、辻口が暖を取ることをそのままにする。


「タイヤはライナスが替えてくれた。手際が良くて驚いた」


「おお、良かったな。便利な弟子が来てくれてよかったな」


「弟子は雑用させるもんじゃないぞ。いつの時代の弟子だ、それは?」


「克己、お前……随分と変わったな。あれだけライナスの弟子入りを迷惑がっていたのに」


「事情が変わったからな。もう迷惑だとは考えていない。真剣にライナスに応えるだけだ」


 俺が本音を漏らすと、辻口が声を上げる。


「そいつは良かった! って、まさかもう絆されて付き合ったなんてことは――」


「ある訳ないだろうが、馬鹿野郎」


 すかさず即答した俺に、「だよな」と辻口は愉快げに笑う。


「こんなに早く受け入れるなんて思わなくて、つい……な。でも、それだけお前もライナスに見込みあるって思ったんだな」


「辻口……お前、最初からライナスの正体に気づいていたのか」


「いいや。メールでやり取りしてた時はまったく知らなかった。俺が知ったのは、克己に迫っているのを助けてやったその後からだ」


 一旦ぶるりと体を震わせてから、辻口が口元を綻ばせる。


「車に載せてた絵を俺に差し出して、この最後の絵を寄付するから、克己に弟子入りさせて欲しいって土下座されてなあ……応えてやりたくなるだろ。今までの人生を捧げられたら」


「……そうだな。俺にその価値があるとは思えんのだがな」


「克己はもう少し自分の価値を認めろ。お前も凄いから」


「凄くないぞ、俺は。親父やじいさんに比べたら、まだまだ未熟だ。二人が生きていたら、こんな腕で弟子を取るなんて……と顔をしかめられそうだ」


「いや、鬼才と人間国宝と比べたら駄目だろ……」


「俺の師はその二人だ。どちらもいない今、比較しながら腕を磨くしかないだろ」


 親父とじいさん。いつも黙々と作業する背中を見て俺は育ってきた。物心ついた頃から人間国宝にまで腕を極めた祖父と、変わり種を好んで作っていた祖父を見てきたのだから、今思えばとんでもない英才教育を受けていたなと思う。


 職人気質というのか、二人とも物静かで漆芸に人生を捧げてきた。家族仲は悪くないが、深く交わろうともしない。そんな時間があれば漆に向き合いたい。そんな人たちだった。俺も同じだと思っていたが――。


「とにかく自信を持て。卑下するな克己」


「下手に自信を持ったら成長できない気がするんだが……」


「自虐も成長にならんからな。ライナスに褒められて、もっと自分を認めるようになれ」


 辻口がやけに俺に言い募ってくる。反論するだけ疲れそうだと思い、「まあ努力する」と適当に話を切り上げる。


 そしてボソリと呟く。


「ライナスが褒めてくれるなら、少しは自分を誇れる」


「え……?」


「独り言だ。気にするな」


 他の誰でもない、ライナスの言葉だから受け止められる。俺が心から惹かれる作品を手がけるアイツの言葉なら――。


 一旦言葉を止め、俺を凝視してから辻口が呟き返す。


「ホント、変わったな克己」


「まあな」


「このまま付き合うことになっても、俺は心から祝福するから安心してくれ」


「笑えん冗談は言うな」


 ムスッと返した俺に、辻口は真顔で首を横に振った。


「冗談じゃなくて本気。弟子でも恋人でも大切にしろよ」


 余計に笑えんことを言うな。

 心で呟きながら、俺は何も返さなかった。





 午前の塗りのデモンストレーションを終え、ライナスと昼食を取るために研修室へ呼びに行く。


 いつもは読書しているライナスが、何やら真面目な顔をして濱中と向き合っていた。


「おう。どうしたんだ?」


 俺が声をかけると、二人ともぎこちなくこちらを向いて視線を泳がす。

 もしかして俺の話でもしていたのか? まさか悪口の言い合い――いや、この二人に限ってそれはない。しかしなぜか部屋の空気が気まずい。


 こちらが戸惑いを見せていると、濱中が立ち上がり、俺に会釈した。


「お疲れ様です幸正さん。俺は一旦家に戻りますので……失礼します」


 いつも以上に淡々とした声で、濱中の感情がまったく見えてこない。様子がおかしいことは気になったが、深入りする訳にもいかず、俺は「おお、そうか」と答えて道を譲ることしかできなかった。


 濱中がいなくなった後、未だ様子がおかしいライナスに俺は近づこうとする。


「あ、あのっ!」


 突然勢いよく立ち上がったライナスに、俺は思わずビクッと肩を跳ねさせた。


「な、なんだライナス?」


「明日一日だけ、カツミさんと別行動してもいいですか? 行きたい所があるんです」


「別に構わないが、どこへ行くんだ?」


「あの、それは……ちょっと……」


 珍しく歯切れが悪いな、と思ってから俺はふと気づく。いくら師弟とはいえ、弟子のすべてを把握する必要なんてない。家族にだって言いたくない所へ遊びに行くことだってあるというのに――。


 もしかして濱中と出かけるのか? 二人はここで交流を重ねている。遊びに行く機会ができてもおかしくない。


「せっかくの外出だ、楽しんで来い。そもそも、やることやってたら後は何をしてもいいんだ。そんなに俺の顔色を見なくてもいいんだぞ? どこに行くかは気になるところだが……」


「す、すみません……」


「謝るな。まあ、なんだ。俺のことは気にするな。理不尽に怒るなんてことはせんから」


 俺は腕を組み、ライナスに目配せして移動するよう促す。


「さあ、話はこれくらいにして昼飯食べに行くぞ」


「……あの……夜、遅くなってもいいですか?」


 ライナスらしからぬ密やかな声。改めてその顔を見れば、妙に赤く、羞恥に染まっていた。


 まさか、濱中とデートするのか?

 俺には無縁だったが、決して鈍いほうじゃない。ライナスから滲み出ているのは、恋の恥じらいのような気がする。


 ……お前、俺が好きだったよな? いや、俺に想いをぶつけられても困るから、他に目が移ったのならそれでいい。俺たちはただの師弟だ。おお、理想の形じゃないか。


 俺は心の中で何度も頷く。応える気のないおっさんを追い駆けるより、俺より若くて気が合いそうなヤツを相手にしたほうがいい。


 なんて目出度いんだと、いつになく俺の中でテンションが上がる。それなのに胸がひどくざわつく。どうして俺はこんなに動揺しているんだ? 自分がよく分からない。


「カツミさん? 怖い顔をしていますが、大丈夫ですか?」


「あ、ああ、問題ない。さっさと行くぞ」


 俺は小さく首を振ってから部屋を出ていく。


 いつものようにライナスが小走りし、俺たちの距離を縮めてくる。

 触れていないのにライナスの体温を背中に感じる。明日はこれがないのか。ライナスがいない頃に戻るだけだというのに、どうしてこうも俺は動揺しているんだ?


 俺の気を知らないライナスから、小さな吐息が零れる。物憂げな息。やけに艶があり、色気すら覚えてしまう。


 ああ、ここに誰もいなければ、髪をぐしゃぐしゃに乱して奇声を上げてしまいたい。俺は動揺をライナスに気づかれぬよう、何食わぬ顔で歩いていく。


 何度かチラチラと盗み見れば、ライナスは安堵した色を見せながら、嬉しそうに口元を緩めていた。明日が楽しみで仕方ないらしい。俺と離れて過ごす日を楽しみにしている――。


 胸がチクチクと痛みを覚える。いったいこれはなんだ? と誰かに答えをせがみたい衝動を覚えながら、俺は漆芸館の外へ出る。


 冷えた空気に体はぶるりと震えたが、寒さは感じなかった。

 気が昂っているせいで体が熱い。なるべく明日のことを考えないようにしながら、俺は食事処まで歩いて行った。

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