ライナスの正体
「箱よりそっちが気になるか?」
「は、はい。材料は、同じ木の皮ですよね? でも、なぜかバラバラというか――」
「ツギハギな感じがするか?」
「そうです、ツギハギです。別のものと皮を繋げているような感じに見えます」
おお、良い目をしているな。俺は軽く驚きながら頷いた。
「よく分かったな。あれは本物の松の皮と、漆で松の皮っぽくしたものを交互に繰り返して作った物だ」
「えーっ! 違いが分からないです」
「そうだろう。今まで俺が知っている人間の中で、誰も初見でそれに気づいた奴はいない
「すごいですね、カツミさんのお父さん」
「まあな。寡黙で笑わんクセに、妙な遊び心はあったんだ。金になるかどうかより、自分の狙いを形にしたい人だったんだ」
親父は変わった物を作りたがった。今でこそネットで調べれば親父の作った物と似た物は出てくるし、変わった物も入手しやすい。だが昔は今より情報が見つけにくく、周囲と違う物を作ればよく目立った。
ただ自分の作りたいものを作るために漆芸に打ち込み、生涯を漆に捧げた親父。
景気が悪くなって売り上げが下がり、それでも売れる物より作りたい物を優先して、生活の質が落ちても気にせず、それで母親が耐えられず離婚して出て行っても変わらず作り続けた。
俺が人と距離を取るようになったのは、親父と、両親の離婚の影響が大きい。誰かの顔色をうかがいながら物を作るぐらいなら、最初から近づかず、己が目指す漆芸と向き合っていきたい。誰にも分かってもらえずとも――。
「カツミさんのお父さん、すごいです。でも、カツミさんもすごいです。漆の黒、カツミさんのほうが深く見えます」
ライナスの突然の褒め言葉に、俺は思わず目を丸くする。
どうして分かる? 俺は親父のような感性はなかった。だからより深い黒を生み出そうとしてきた。
誰が見ても気づくことはない。俺だけが分かる世界。まさか漆芸を身に着け始めたばかりのライナスが気づくなんて。
「……ライナス、お前――」
いったい何者なんだ?
問いかけそうになり、俺はグッと言葉を飲み込む。
こっちの迷惑を考えない行動力に集中力。時折感じさせる非凡さ。
俺はもしかすると何も知らない子犬ではなく、猛獣を相手にしているのかもしれない。ふとそんな考えがよぎってしまう。
「なんでしょうか?」
「いや。他の所を見ていくか?」
まだ閉館までには時間がある。ライナスの返事を聞かず、俺は踵を返して展示室を出ようとする。
不意に、俺の視界へ色が飛び込んできた。
ロビーの壁に飾られた一枚の油絵。ぼやけた色彩の風景画だ。川の上にかかった橋。灰色のような、水色のような色合いに、赤みがいくつか入れられている。
思わずフラフラと絵に近づき、俺は額の中の世界に見惚れてしまう。
不思議な絵だ。霧がかっているようにも見えるし、朝日が水面を照らして輝いているようにも見える。
芸術の世界に身を置いてはいるが、絵画は専門外。絵を見て心が動くなんてことは、今まで経験したことがない。しかも風景画。美術の教科書で名画と呼ばれる風景画を見たことはあったが、心に響くものは何もなかった。
それなのにこの絵は一目見ただけで心が揺れた。
いつの間にこんな絵が飾られたんだ? つい最近だよな? 前からあれば気づいているはず――。
絵の下に小さなプレートがあることに気づく。書かれていたのは作者名。
『ライナス・モルダー・コンウェイ作』
俺はしばらく無言で立ち尽くす。ライナスは何も言わない。俺の背後でずっと立っているだけ。
ゴクリ。大きく唾を飲み込んでから、俺は振り向かずに尋ねた。
「この絵、ライナスが描いたのか?」
「はい。最後に描いたものです」
「最後……だと?」
「漆を学ぶために、油絵はやめました」
バッ、と俺は勢いよくライナスに振り向く。
今までと変わらない様子のライナス。自分の絵を目の当たりにしても一切変わらない。それだけでもう、ライナスの心に未練がないのだと分かってしまう。
優しく微笑みながらライナスが告げる。
「カツミさんの塗りに一目惚れしたあの日、完全にやめました」
こんな絵を描けるのに、俺が原因でやめた。
思わず足元がよろけて後ろへ下がってしまう。すかさずライナスが駆け寄って俺の腕を掴み、倒れないように引いてくれる。
間近になった顔があまりに一点の曇りがなくて、俺の胸が詰まった。
「ここへ来たのは漆をもっと知りたかったから、でした。絵を描きながら学ぶつもりでしたが……カツミさんに出会ってしまいました」
「いや、お前、どっちもやればいいだろ。やめる必要なんか――」
「カツミさんと同じ世界を、見たいと思いました。何十年も漆と向き合い続けた、貴方と同じ世界を……」
ライナスのことを知らないようにしてきたのに。
知ればそれだけ深く向き合うことになる。触れ合わなくとも心の熱が分かってしまう。だから何も聞かなかった。
誰かの熱を感じたくなくて人と距離を取ってきたというのに。こんなおっさんになって、捨て身で懐に入り込む馬鹿が現れるなんて……。
しかも言葉じゃなく、絵で知る羽目になるってなんだ。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。どんな言葉を重ねるより、己の本質を込めた絵を見せられたほうが相手を理解してしまう。
そうかライナス、お前……俺と同じなんだな。
深く作品と向き合い、どこまでも沈みたい人種。誰のためでもない。自分が望むままに色に沈む。俺は漆黒に。ライナスは油絵の色彩に。
漆芸と絵画。同じ芸術ではあるが、共通することは多くない。それでもライナスは俺に見出してしまったんだ。誰もいない深い世界へ沈んでいたと思ったのに、隣を見たら遠い所で俺が同じように並んで沈んで――。
「もう描きませんから。カツミさんの所で、漆を学び続けます。そしてワタシも漆黒を作りたいです」
顔は人のいい笑みを浮かべているのに、ライナスの目に一切笑いがない。
強い決意が伝わってきて、俺の胸が酷く騒いでしまう。妙に焦ってしまう。だが吐き気まで覚えるものではなく、むず痒い。
俺は鈍い動きで首を動かし、もう一度絵を見る。誰が描いたか分かっても、俺の中の評価は変わらない。
この絵は特別だ。きっと多くの人間に評価され、この絵の世界に引き込まれただろう。見れば見るほど川の水面が輝き、絵の隅々まで美しい。
これが最後だと? 冗談じゃない!
俺はカッと目を見開き、ライナスの胸ぐらを掴んでこっちに引き寄せた。
「絵も続けろ、ライナス。漆芸には蒔絵もある。絵を描き続けて損はない。むしろ役に立つ。落書きでもいいから描くんだ」
「でも、ワタシは塗りの世界を――」
「俺が本気で教える。お前は筋が良いから、すぐに吸収できる」
「しかし……えっと、片手間に漆をやるのは――」
「お前ならどっちも本気でやるだろ。片手間にならない。頼むから続けてくれ」
次第に俺がライナスに縋るような形になっていく。傍から見れば、別れないでくれとでも俺がせがんでいるように見えるかもしれない。
そう見られても、今はどうでもいい。絵を見て揺さぶられた心のまま、俺は止まらない本心をぶちまける。
「俺はライナスの絵に惚れた。お前が俺の塗りに惚れたように……だから頼む。描いてくれ」
口に出して、自分が恥ずかしいことを口走っていることを自覚する。思わず羞恥でうつむき、俺は体を震わせる。
感情が安定しない。十五歳ほど離れている年下の男を相手に、なんて見苦しいワガママを言っているんだと自分に呆れる。
さすがのライナスもドン引きしているだろう。これで離れてくれたらありがたい――と割り切れる俺はもういない。
ライナスは口を開かず、じっとしたまま。恐る恐る顔を上げてみれば、顔を赤くしたライナスと目が合った。
「あの、ホント、ですか? ワタシに惚れたって」
「バ……っ、絵だからな、絵」
「嬉しいです! カツミさんに好かれるなんて、夢みたいです!」
「だから、絵だって……」
「絵、描きます。カツミさんの――私のミューズのために捧げます」
ようやく欲しかった答えが貰えて、俺の顔から力が抜ける。頼むから俺をミューズにするなと心の中でツッコんでしまうが。
この素晴らしい絵がここで途絶えない。心から良いと思えたものがなくならないことが、何よりも嬉しくてたまらない。
はぁ……と安堵の息をつきながらライナスの胸ぐらを解放したその時、
「好きです、カツミさん」
耳元で囁かれ、俺は呼吸を止める。
「……こら、ライナス。一日一回までだぞ。今日はもう言ってるだろうが」
「絵を描きますから、制限なしにして欲しいです」
「調子に乗るんじゃない。一回でもかなり譲歩しているのに――」
「必要なことですから。絵を描くために……」
そっと俺の背中にライナスが腕を回す。
完全に捕らえてくるライナスを、俺は突き飛ばすことはできなかった。
「ワタシの絵は、これから全部カツミさんにあげます。想いは口に出すほど、手が速く動くようになります。早く気持ちを伝えたくて、たまらなくなりますから」
「なんだその不純な動機は」
「不純、違います。純粋に絵でカツミさんを口説きます」
「ライナス、それは純粋な不純だ。普通に描いてくれ」
「でも心がこもらない絵は、よくならないです。そんな絵をミューズに捧げるなんて、できません」
「う……」
「カツミさんが感動できる絵を描かせて下さい」
ついさっきファンになった相手にここまで言われて、拒めるはずがなかった。
俺はぎこちなく、ささやかに頷く。分かりにくい了承でも、しっかりとライナスは汲み取り、俺をギュッと抱き締めた。
「ありがとうございます! カツミさん、大好きです!」
ここぞとばかりに言いやがって……っ。
俺は顔を熱くしながら、無言でバシバシとライナスの背を叩いて抗議した。




