平和な日々
平和な日々が続いていた。尤も、『ちっとも平和じゃない!』という人もいるだろう。戦争はなくとも犯罪はある。いじめに軋轢、競争の社会。人間であるゆえ避けられないことも多々ある。
しかし、ここ最近はどことなく人々の心は穏やかであった。
理由を言葉にするのは難しい。冬が過ぎ、春が訪れたからそう感じているのかもしれない。稼ぎの良い親の庇護下。株の投資が順調など、安定が保証されているような気分。世の大多数の人間に不安や憂鬱とした気持ちはなかったのだ。
それゆえか、経済情勢も悪くない。そしてそれがまたこの平和な日々を補強している。
なんか気分がいいなぁ、と夜になっても人々から笑顔が消えず、ストレスがなくとも酒はうまいものだ。どこの飲み屋も盛況。酒が入っても争い事はなく、平和であった。
と、このごく普通の男も例に漏れず酒を嗜み、二軒目へ。小洒落たバーに来た。店に入った瞬間、落ち着いた雰囲気に、うっと少し緊張もしたがなんてことはない。この世の中、怖いものなどないのだから。
「ふーっ」
「はぁ……」
と、カウンター席にて、注文した酒を喉に流し込み息を吐いた彼に被った溜息。
彼は、おやと思い体をそちらに向ける。二つ離れた席に座る男。その漂う陰鬱な雰囲気に彼は今どき珍しいなと顎に手をやる。
「……なあ、あんた」
「……はい? 私ですか……?」
「うん、何か悩みでもあるのかなと思ってさ。ああ、まずは一杯奢らせてくれよ」
「はぁ……どうも……」
と彼は臆さず話しかけた。揉め事になることはない、仮になっても大したことにならないとそんな気がしているのだ。
男の隣の席に移動し、グラスを合わせて乾杯。本題に入る。
「それで、どんな悩みがあるんだ? いや、最近そういう人をあまり見かけないものだからさ。同僚や友人も調子が良くてね」
そう言ったあと『誰かの不幸話が聞きたいんだ』などと、下世話に聞こえてしまったかな、と彼は頭を軽く掻いた。尤も事実であるから、そう指摘されたら苦い顔をするしかない。
しかし、その男は特に気にする様子はなく「はぁ……まぁ……」と相変わらず顔を俯かせて溜息を漏らすのみだった。
「良かったら聞かせてくれないか? ほら、こうして会えたのも何かの縁だしさ。案外、力になれるかも、いや、話すだけでも楽になるというしな」
「そうですか……じゃあ……」
お、いいねいいね、と顔に出ないよう彼はキュッと身ごと引き締め、カウンターに腕を置いた。
「……とは言っても、私にもうまく言語化できないというか……」
「あー、まあ、あるよなーそういうの。でも思いのままに話してくれればいいから。それで自分の中の何かに気づくことがあるかもしれないし」
「そうですね、これは……この感情は……飽きた……というか虚しい……ですかね」
「ほう、それはどうして?」
「なんか……こう、同じ日々の繰り返しって嫌じゃありませんか……? 成長も、進歩もない、ただ擦り切れる……そう、摩耗する部品のような……」
「あー、お仕事の話? 新人さん?」
「仕事……そうですね。でも新人じゃないです」
「あー、長いんだ。そうか、そうだよなぁ、虚しく思うこともあるよなぁ」
「お分かりいただけるんですか……?」
「うんうん、あるよ。いや、あったよ。人生とはなにか! ってなることね。まあそれでもやっていくしかないな、って結論になっちゃうんだけどね」
「そう、ですよね……」
「まあ、そうすぐに割り切れないよね。ああ、スランプなのかな」
「ああ……スランプ……そうですね、そうなのかもしれませんね……思えばここのところ仕事に手を付けてもいなくて……」
「それはまずいね。なんやかんや言っても仕事しなくちゃ生きていけないもんね」
「そうでしょうか……」
「そうだとも。だって金を稼がないと、いや、たとえ仕事なしで食べて行けたとしても、ほら、やっぱり仕事っていうのは生きがいだよ」
「生きがい……ですか。でも、誰からも評価されず、続けていくのって苦しくないですか? あっ」
「気づいちゃったね。そう、あんたは評価されないことが苦しかったんだね」
「あぁ……そうだったのかもしれません……でも、それがわかったところで……」
「んー、まあ、人の評価なんて気にしなくてもいいと思うけどね。こう、自分の腕を磨くというか、ただ高みへと一心不乱に積み上げ積み上げ、自分を職人や修行僧のように思えば、そう、いつか誰かが、いや、大勢がいい評価をしてくれるんじゃないかな。今はそう、まだ未熟なんだよきっと」
「あぁ……確かに、うぬぼれていたのかもしれませんね……思えば長く続けていただけで向上心のようなものが私にはなかった」
「うんうん。でも、それに気づけたことが成長だからね。それにそう、俺はあんたを評価するよ。満点さ」
「ありがとうございます……またやってみようかなって思えてきました」
「そうだよ。スランプ解消には、まずとりあえず、でいいんだからさ」
「あぁ、やってみよう。いや、やってみたい。そう思えてきました」
「うんうん、いいねいいね。その意気だよぉ」
「ありがとうございます。じゃあ、私はこれで。ではまた……」
「あ、うん。がんばりな!」
と、背筋を伸ばして席を立ち、店を去る男に彼は腕を上げエールを送った。
どんな仕事かはわからないが、まあ、うまくやるのだろう。誰かを立ち直らせるというのも悪くない気分だ。カウンセラーなど向いているのかもしれない。まあ、最近はそのカウンセラー自体が仕事がないと嘆いていそうだが。と、彼はほくそ笑んだ。
が、ドアが閉まった瞬間、悪寒が彼の全身を包んだ。
これは……どういうわけだろうか……。先程までのあの全能感にも似た感覚はどこへ……。
彼は慌てて酒を注文し、それが手元に来ると一気に喉に流し込んだ。しかし拭えない不安感。それはちらと視界に入ったバーのマスターも同様のようであった。さすが、顔には出さないが手が震えている。
こんなところにいられるか。もう家に帰りたい。たまらず彼は逃げるように店から飛び出し、足早に歩いた。
そして、まるでその陰鬱な気分に引き寄せられるかのように、一台の車が彼を……。
ほんの数週間。まったく死亡事故などが起きなかったことに気づいた者は少なくはない。が、その理由を考えるほどは気に留めなかった。
また波の揺り戻しのように人々が死に始めた。それもまた気にしない。いつものことだ、と。