第八話
「いやー長い一日でしたね……」
ノーラは萎びた梨を一口かじると、疲れを吐き出すかのような長い長いため息をついた。
「というか、まだ一日が終わってないんだけど……」
チルカは窓枠に置かれたコップに入り、夜空に浮かぶ月を見上げながら言った。
商品を全て売って帰ってきても、結局商人の体調が良くなることはなく、今日は町に泊まることになってしまったのだ。
少しでも急ぎたい旅の途中ではあるが、夜道をノーラ一人に歩かせるよりも、朝を待って馬車に乗ったほうが早いのは言うまでもないので、状況を考えて仕方なくの一泊だ。
「なに言ってるんスかァ。お湯につかって、のんびり夜空を見上げる。どう考えたって一日の終りってなもんスよ」
ノーラは湯気越しに映るチルカの影を見て言った。
コップの中には花びらが数枚浮かび、チルカはそれをタオルのように絞ると顔を拭き始めた。
「いいでしょう。長風呂できるチャンスなんて、今日が最後かもしれないんだから」
妖精は普段から水浴びをし、チルカも例外ではない。妖精には羽があり、濡れると上手く飛べなくなってしまう。
お湯の場合は羽の鱗粉も取れやすく、乾くのに時間もかかってしまうので、人間の暮らしになれたチルカでも長くお湯につかることはない。
今はその心配がなくなったので、チルカはお湯で体を温めることを思う存分楽しんでいるのだった。
「それなら文句を言う必要がないと思うんスけど。ところで、めんどりになった気分はどうっスかァ?」
ノーラは床に目をやり、種に松明の明かりをかざしているリットに言った。
「最悪に決まってんだろう。ただ花が咲くだけだぞ」
「旦那もそうやって大きくなったんスよ」
「やめてよね……。こんな花が咲いたら大変でしょう」
チルカはコップから顔だけを出すと、テーブルにいるリットを睨みつけた。
「燃やすぞ。この気持ち悪い植物を……」
リットは松明を種に近付けた。すると、朝よりも双葉が育っているのが見えた。今すぐにでも、双葉の間から新しい芽が生えてきそうだ。
「そんなことしたら、アンタも一生小さいままよ」
お湯で体が温まったことにより、心が落ち着いたチルカは、リットの悪態に対して冷静に対処した。
もう一蓮托生なので、どう下手に出ても上から目線で見下しても、リットが協力することには変わりない。
種を任せるのも安心というわけだった。
「弱ってる時に、もう少し叩いておきゃよかった……」
翌朝。睡眠と食事をしっかりとった商人は見事に復活を果たした。
何度もノーラに感謝を述べると、馬車を動かすための準備を始めたので、その間ノーラはリットとチルカをカバンのポケットに入れて、町をゆっくり歩いて暇をつぶすことにした。
家畜の鳴き声が近くから遠くから響き、農家の町という音が響いている。
だが今日は違った。
あちこちから昨夜妖精が来たという話をしているのだ。
「昨夜なんかやったんスかァ?」ノーラはリットチルカが町中を回って人助けをしたのかと思ったが、すぐにそんなはずがなと考え直した。「してるわけないっスよね」
「んな暇じゃねぇよ。気味の悪い人形を売り払ったのに、わざわざ人助けなんてするか」
「その言葉が聞きたかったんスよ」
リットとチルカが関わっているわけじゃないなら、とりあえず安心だとノーラは胸を撫で下ろした。
「でも、不思議ね。あの人形を買った時から、みんな幸せになってるじゃない」
「幸せってのはなくしてた指輪が見つかったとか、仲直りをしたとかそんなもんだろ」
この町に訪れたのは大きな幸せではない。小さな幸せの積み重ねだ。
だが、妖精や精霊といった類や、魔力が関係してるわけではない。人形を購入して前向きになった住人が、身近にある小さな幸せにすり寄っていたのだ。
今まではなにも思わなかったことが、もしかしたら人形のおかげかもと思うようになり、それが町中に伝染したのだ。
村人の話を立ち聞きしながら、リットがまとめた情報はそんなものだった。
「小さいから幸せって言うのよ。大きいのはそれなりに苦労の代償があるもの。それにしてもいい気分ね。妖精信仰っていうのは」
チルカは町のあちこちから聞こえてくる、妖精を褒め称える言葉にすっかり気分を良くしていた。
「便秘が治ったのも妖精のおかげか?」
「飲み過ぎてお腹を壊しただけでしょう……こいつめ!!」
チルカは余計な噂を立てるなと、妖精の人形のおかげで便秘が治ったと吹聴して回る男に向かって小石を投げた。
小石は見事、男の右側頭部に命中したのだが、そんな小さな痛みなど気にならないほどテンションが上がっているので、小バエがぶつかって来た程度にしか感じていなかった。
「火をつけた木片でも投げたら気付くかしら……」
「ほっとけよ。どうせ明日には忘れる。恩ってはその程度のもんだ」
「アンタの人生って暗いわよね。もっと明るく考えられないわけ?」
「明るくオマエと子育てしろってのか? 昨日はさっさと寝やがって……」
リットは徹夜したんだぞと、種をチルカに押し付けた。
「悪かったわよ……。でも、しょうがないでしょ。お湯につかるのがあんなに疲れるなんて知らなかったのよ」
昨夜月を見ながら思う存分お湯の入ったコップの中にいたチルカは、すっかり湯あたりを起こして、そのまま寝てしまったのだった。
「知るかよ。東の国に住んでるわけじゃねぇんだ。こっちにだって湯に入る文化はあるけどな、湯に入る習慣はねぇよ」
リットは大きなあくびをすると、そのまま倒れて眠ろうとしたのだが、首元に折れたマッチの柄が当たって気になるので、それをリュックの隙間から投げ捨てた。
柄は偶然にも近くにいた少年の頭に当たり、それを少年が手で払ったところ、折れた柄は飛んでいき、近くの焚き火の炎が燃え移った。
それだけなら誰も気付かないものだが、折れたマッチの柄には昨夜ノーラがオイルを入れ替えた時に、オイルがついた手のまま触れたものだ。
妖精の白ユリのオイルを含んだマッチの柄は勢いよく燃え上がり、それも妖精の力と称えられてしまった。
さすがのチルカも「ねぇ……この町にいるのは利口じゃない気がしてきたわ……」と、村人の勘違いによる盛り上がりに引いていた。
「同感だ。さっさと馬車へ戻るぞ。そろそろ用意も出来てんだろう」
リットは早く忘れたい出来事だと、早く町を出ていくことを決めた。
「本当助かったよ。ありがとうな。まさか胸を張って村へ帰られるとは思わなんだ……」
商人は今年は楽が出来るぞと、村へ帰るのが楽しみになっていた。
「いえいえ、困ったときはお互い様っスよ。最後のパンをもらったお礼だと思ってくださいな」
「それじゃあ、吊り合わない。是非村まで来てくれ。お礼がしたいんだ」
「それには及びません。私は当然のことをしたまでですから」
偉そうにするノーラを、商人は本当に偉いと思って感心しいていた。
「冒険者っていうのは、冷たいものだと思ってたよ。商人をやっているとよくあるんだ。冒険者に絡まれることが……。ほとんど山賊だよ、やることが……」
商人は以前冒険者を馬車に乗せたときは、わがままを言われ放題で大変だったと、思い出して肩を落とした。
「私はそんじゃそこらの冒険者とは違いますからね。私一人で三人力っすよ」
ノーラが冒険者と名乗っているのには理由があった。
リットとチルカは隠れているので、商人への言葉は全てノーラを通して言う必要がある。
リットやチルカのアドバイスは、全部ノーラの言葉だと商人は思っているのだった。
草原で休憩中。馬に食べさせた体力を回復させる薬草は、チルカが自分の知識を引っ張ってきて探してきたものだ。
揺れる馬車が揺れにくくなったのは、リットが昔クーに教えられた手綱の握り方をノーラに伝えたから。
その全部が効果あったものだから、すっかり商人はノーラを気に入ってしまったのだ。
すっかり英雄扱いのノーラは良い気分になって、調子はずれの鼻歌を鳴らしていた。
しかしそのまま順調とはいかず、またやることが増えてしまった。
なんと、馬が足を捻ってしまったのだ。
捻挫まではいっていないが、しばらく休ませる必要があった。
「それじゃあ、私は『マチマチ草』を探してきますね」
ノーラは腰に手を当てて偉そうにすると、リュックを背負って茂みの中へ入っていた。
「それで、どうすんだ? 小便でもするのか?」
リュックの中にはリットとチルカが入ったまま。
マチマチ草が炎症に効くと言うのは、チルカからの情報だった。
「いやっスよォ……旦那ってば。皆でマチマチ草を探すに決まってるじゃないっスか」
「オレは一言も言ってない」
リットが動かないと腕を組むと、その隣でチルカも同じように腕を組んだ。
「私もよ」
「私は言いましたよ。でも、旦那達が反対するならやめましょう」
ノーラはその場に腰を下ろすと、疲れたと一息ついて休憩した。
「やけに素直じゃねぇか」
「そりゃ、別に私は関係ないっスからね」
ノーラが落ち着いている理由は、自分はこの旅にタイムリミットがないからだ。
「わーったよ……探しゃいいんだろ」
「自分の為っスよ。大きくなりましょうよ、男ならビンビンと!」
「……その擬音間違いはわざとだろ。しゃーねぇ探すぞ」
リットはマチマチ草がどこに生えてるのかチルカに聞いた。
「さぁ、その辺りにあるんじゃない? 釣り鐘型の黄色い花よ」
「それだけか?」
「実物を見れば、私が判断するわよ。そうね少しオレンジになってるのが一番鎮静効果があるわ。圧縮して出てきたオイルを使うの。私達は石を使うけど、アンタならもっと効率良くオイルを抽出する方法を知ってるんじゃないの?」
「そりゃそうかも知れねぇけどよ。肝心の花がなけりゃなぁ……水際に咲くとか日陰に咲くとかあるだろ」
「ないわよ。あちこちでちょっとずつ咲く花なの。群生しない珍しい花なのよ。それぞれがまちまちに生えてるから、マチマチ草。人間がなんて呼んでるかは知らないけど、所謂雑草の類よ。だから見つけるの難しいのよね。でも、どこの草原にも一輪は生えてるものよ」
「んな植物があるかよ」
「あるのよ。アンタの家の森にだって生えてるわよ」
「余計なもの植えんなよ……」
「植えてないわよ。種が勝手に運ばれてきて、勝手に花を咲かせたのよ。アンタの家の森、相当色んな植物生えてるわよ。雲の上から天使に種を投げられてるじゃないの?」
「今度確認しとかねぇと……」
もしかしたら高値で売れる植物が生えてるかもしれないと、リットはチルカと森と化した庭の話をしながらマチマチ草を探し出した。
馬の足首はすぐに治り、再び馬車に乗ったのだが、リットとチルカは死んだように横になっていた。
「すごいな。なんでも知ってる……オレも覚えよう。これから必要になるぞ。オレは決めたんだ。自分の馬車を手に入れるってな! それで毎年さっきの町まで人形を売りに来るんだ! 忙しくなるぞ」
甘い夢を見る商人はテンションが上がり、誉められたノーラのテンションも上がり、馬車内は幸せな笑いに包まれていた。
「ちょっと……良いわけ?」
苦労したのは自分達だと言いたげなチルカだったが、リットにあることを言われるとどうでも良くなってしまった。
「また妖精伝説を増やす気か?」
「……寝るわ。馬の立髪を結ぶだなんて、バカな噂を立てられたくないもの」
チルカは一つ長い息を吐き切ると、汚れた顔のまま寝息を立て始めた。