第二十三話
「こりゃまた……壮観だな……」
リットは上空から見える風渦の壁を見て生唾を飲んだ。
まるで龍が口を開けて飲み込もうとしているかのように感じるからだ。
だが、その恐怖から逃げる訳にはいかない。今からその喉元へ飛び込まないといけないのだ。
「そんな言葉で片付けないでもらえる? アンタは知らないでしょうけど、風の壁っていうのは鉄よりも硬いのよ。それに鋭いの。下手したらバラバラになるわよ」
「そりゃまた…………壮観だな……」
リットは思わず自分で想像して身震いした。
どんなに恐怖を感じて震えようが、どんなに楽観的になって現実逃避をしようが、リットはチルカのタイミングに合わせるしかないからだ。
しかし、リットが目を閉じて覚悟を決めても、一向にチルカが風渦の中に飛び込むことはなかった。
なにしてんだよという言葉をリットは思わず飲み込んだ。
それほどチルカの顔が真剣だったからだ。
いつものような茶化し合いだけではなく、必要最低限な会話さえも邪魔になってしまいそうな雰囲気があり、リットは黙っているしかなかった。
小動物が消え、湖や森の音もかき消され、暴君となった風の音だけが呼吸を繰り返していた。
「行くわよ……」
チルカは唾液を飲み込もうとしたが、緊張により水分が減った唾液はなかなか喉を通っていかなかった。
「行けよ」
てっきり合図かと思っていたリットだが、チルカが動く気配はない。
「アンタは無知だから恐怖を感じてないだけ。こんなの無理よ!!」
「あのなぁ……恐怖はこれ以上ないほど感じてんだよ。こっちはオマエに命の手綱を握られてんだぞ」
「そうじゃなくて……あの風の渦。あれ……魔力の塊なのよ。下手したら肉片も残らないかもしれないのよ……」
「オマエが情報を小出しにするから、複雑過ぎてもう大変さが伝わらねぇよ……」
大変な事態に陥ってることは理解しているリットだが、この状況でそれがどう影響するかまで考える余裕はなかった。
「仲良く死ぬってことよ。これ以上わかりやすい説明がある?」
「失敗したらどのみち死ぬだろうよ。春先の湖に落ちても死。風に弾かれて地面に叩きつけられても死。チルカの言う通り魔力の壁に叩きつけられても死だ。……自分で言ってて背筋が凍ってきた……」
リットがいっそ小さいままのほうが、この先幸せでいられるかもしれないと思った時だった。
同じく諦めた時のことを考えていたチルカは、羽をなくしたままでいるなんて耐えられないと、身投げするかのように風渦の中へ飛び込んだ。
その時リットは空を飛んだように感じた。
実際には落ちていっているのだが、合図もなく急にチルカが風渦へ飛び込んだせいで、リットの身体は落下と浮遊感とを勘違いしたのだった。
その勘違いはリットだけではなく、羽を失ったチルカも感じていた。
空を浮かぶ浮遊大陸の一部となり、風の歴史を見ている。
二人が感じているのは時間と季節だ。
枯れ葉と水滴が混ざる風渦の中なのは変わらないが、風が朝の気持ちのいい香りを運んだり、芳醇な秋の香りを漂わせたり、瞬間でいくつもの年月を過ごしているかのように思わせる風だった。
思い浮かぶはどれも懐かしい光景ばかり。
この湖の歴史ではなく、自分の記憶とリンクしているようで、リットはあっという間に子供時代まで遡った。
そして夢から覚めたかのように、突然現実に戻されたのだ。
まばゆい光に襲われたのは、周囲から風渦がなくなっている証拠。
二人がそう思った時。同時に地面へ叩きつけられた。
リットより先に顔を上げたチルカ目に映ったのは、盛られた土の上で元気に芽を伸ばす種の姿だった。
「やった? やった……。やったわよ!!」
チルカはここが精霊の浮かせた大地の上だと気付くと、声を張り上げて喜んだ。落ちた時にお腹をぶつけて苦しんでいるリットも無視で、問題解決だと先走ってテンションを上げていた。
「よくねぇよ……」リットはのそっと起き上がると、周囲に精霊の姿を確かめた。「なにも解決してねぇ」
「そういえば……」チルカもリットと同じように周囲を確認すると、ここに置き去りにされている可能性に気付いた。「ちょっと出てきなさいよ。ノーム! サラマンダー! ウンディーネにシルフ!」
チルカの声がこだますると、シルフが風となって姿を現した。
「えっと……試練クリア? おめでとう?」
「なんで疑問形なんだよ」
リットは声がする風を強く睨みつけた。
「こんなに早く終わると思ってなかったから。ねえ……もう一周しない?」
「しないわよ!」
こんな苦労は二度としたくないと、チルカは食い気味に叫んだ。
「怖い妖精……。呪い解くのをやめちゃおうかな」
四精霊の一角であるシルフの脅しとも取れるような発言に、妖精のチルカは尻込みしたが、人間のリットはそっちの事情は関係ないと強気に出た。
「ならオレもやめるぞ」
「なにを」とシルフとチルカは同時に聞いた。
「最後のひと仕事をだ」
「なに言ってるのよ……。今ひと仕事を終えたばかりでしょう。交渉材料を間違えてるんじゃないわよ。頼むから……よく考えて……」
チルカの必死の説得にシルフはうんうんと相槌を挟んでいた。
「よく考えた結果。精霊がもう一回顔を出すのはおかしいと思ったんだ」
「それは試練完了だから」
シルフは当たり前のことだと相手にしなかったが、リットが一言付け足すと状況が変わった。
「まだ水をやってねぇからな」
決死の覚悟で風渦に飛び込んだせいでチルカはここがゴールだと思ってしまったが、最初の試練の条件は『二人で水をやる』だ。
チルカが早とちりして精霊を呼んだおかげで、現在リットは優位に立てているのだ。
そして、ほぼ強制的に受けさせられた試験。
妖精の呪いを解くのに、毎回こんな面倒臭いことをするはずがない。
なにかに利用されているとリットは考えていたのだが、結局そのなにかまでたどり着くことは出来なかった。
試練が本当に終わっているのならば、精霊が交渉に応じることはないはずだ。
つまり、まだ試練の途中。
強制的に終了させないのは、精霊側に思惑とは違うことが起こっていることになる。
リットが強気に出ると、チルカも強気出た。
「そうよ! そうよそう!! 水はまだ背中に背負ったままよ! これを捨てれば――ちょっと……捨てたらどのみち戻れないじゃないのよ……」
「捨てるなんて言ってねぇだろうが。お預けにしとくんだよ。今回のことを喋るまでな」
リットが瞳を見たシルフは隠し通せないと判断して、渋々今回のあらましを話し始めた。
まず、今回リットとチルカがやらされていた試験は、魔力を正常に戻すために必要な過程だったということだ。
過去にリット達が解決した『闇に呑まれる』という現象。
実はその影響が各地でまだ残っている。
この湖にもまだ影響が残っていたのだ。
そこで、精霊達はリットとチルカを利用して、魔力を安定させるために色々とやらせていたのだ。
四精霊はそれぞれ『火』『水』『風』『土』を司っている。
その中で山の中腹にある湖に、初めから備わっているのは水と土。
そこへやってきたのは火を扱える人間と、風の魔力を使うドワーフ。
そして魔力の流れを感じられる妖精だ。
第一の試練は湖の横断。風の力を使い水を渡る。
第二の試練は焚き火。風の力で火を起こしそれで水に濡れた服を乾かした。
第三の試練は城作り。水に寝れた土(泥)を使いかまどを作り、それを火(ノーラが起こした風)によって乾かした。
第四の試練は空を飛ぶこと。必要だったのは土のカマド。そこから発生する風。その風を起こす火。それらを可能にするのがこの湖の水で育った植物。そしてその植物とともに生活している虫たちの存在だ。
そして風というのは、風渦のように魔力を混ぜ、そして拡散する力がある。
精霊は必要な魔力を増幅させ、馴染ませるために三人を利用したのだった。
リット達が感じていた香りというのは、闇に呑まれていた間の自然界の記憶の一部だ。
リットとチルカがそれぞれその匂いを懐かしいと感じたのは、四精霊が時代超越し、世界を統一しているという証拠だった。
それぞれが魔力に触れ、どこにでもいる精霊という光景を自分の思い出とリンクして感じたのだ。
妖精が精霊とする交流会というのは、そもそもが魔力のほころびを直すことなのだ。
妖精が運ぶ花。妖精と共に太陽を浴びる種は、陰る夜を知らず一気に成長する。土の栄養がなく成長する理由は、魔力を吸って成長するからだ。
妖精はそれを見抜く力を持っている。
妖精が噂話が好きなのは、異変を世界中に広げるためだ。
風の噂となったものを精霊が拾い上げ、問題があると判断した場合は精霊が修正するという仕組みになっている。
世の摂理の一つだ。
チルカは自分の行動が管理されているみたいで納得しなかったが、リットは納得していた。
最初に現れた精霊ウンディーネは、リットが魔力を乱そうとした瞬間に現れた。
これはこれ以上魔力を乱されては直せないと判断したからかもしれない。
そう考えるとこれまでの流れが実にスムーズに思えた。
初めからか途中からかはわからないが、途中からあからさまに精霊の手が加わったのは確かだ。
「少なくとも……この山に入ってからは干渉してただろ」
悪びれる立場に居ない精霊は「そうだね」とあっさり白状した。「もう少し前から。小さくなった人間が――羽のなくした妖精と一緒に――ドワーフの頭に乗って山にやってきたんだよ。話題にもなるってものじゃない? そしてその面白い組み合わせは使えるって判断したわけさ」
「そうよ! 私の羽は!?」
チルカは子犬のようにその場でくるくる回って、背中の羽を確かめた。
「まだ水をやってないでしょう」
「そうだった」
チルカはどんぐり水筒のフタを開けると、迷うことなく水を種にかけた。
すると芽は一瞬にして蕾を付け、チルカの視界では太陽よりも大きな花を咲かせた。
しかし、花は一瞬にして散って空に舞った。
花びらは風に規則正しく流され、空に模様を作る。
一輪の花から、花畑ほどの花びらが風に飛ばされ湖の空を埋めている。
それは本物の花びらではなく、魔法によるものだというのはリットにも理解できた。
ようやく今回の騒動も終わりかと思うリットの横では、羽が戻らないチルカが慌てふためいていた。
「ちょっと!! 私の羽は? 羽はどこ? このままじゃ死んじゃう! 妖精殺し!!」
チルカがシルフの風を睨むと、「羽のことは知らないよ。……自分の責任じゃないの?」
シルフは妖精の羽を消すのになんのメリットもないと言った。
他の妖精も姿を現し、羽があればもっと早く試験をクリアできたのに、なぜ羽を消さないといけないのかと、逆に質問してきた。
「それは!! それは……わからないから聞いてるのよ」
ここまで来て無駄に終わったのかと、腰砕けになったチルカの頭上に一枚。また一枚と花びらが計四枚落ちてきた。
透明な花びらは本物ではなく、魔力の塊だというのはリットにもわかった。
そして、その花びらはチルカの体に触れると消え、一枚。また一枚と羽が復活したのだ。
チルカはハッとして『羽の衣替え』とつぶやいた。
羽の成長期というのは、妖精が環境になれるために羽を一新するものだ。
普通妖精というのは森に住み、森で死んでいくので、羽の成長期というものは訪れずに一生を終える妖精が多い。
極一部の優秀な妖精は、森から森へ移動しコミュニティを繋ぐ。
大移動するためには強靭な羽が必要になる。
環境に順応するために新しい羽に生まれ変わることがあるのだ。
これは本来羽の修復に何年もかかるものだ。
徐々に魔力を溜めて羽を構築する必要があるので、休息も兼ねて羽のない生活を送ることとなる。
チルカに起こった羽の衣替えの原因も、湖の異変と同じく闇に呑まれる影響だ。
たまたま原因が同じだったおかげで、チルカの羽も一瞬にして修復されたのだった。
そして、チルカの魔力が戻ったということはリットも元の大きさへ戻れるということだ。
「さあ、もう終わったし。消えるよ。精霊が他の種族と関わっても”ろくなことがない”からね」
精霊は今話した内容の殆どは、自分が姿を消すとその記憶も消えると付け足した。
風が森のチリを纏い消えようとするので、リットは慌てて大声で呼び止めた。
「待てよ! なんでオレの身体は縮んだんだよ!」
「知らないってことにしとく。忠告としてはあまり精霊と関わらないことだね。覚えてないはずだけど”ろくなことにならなかった”でしょう?」
シルフは思わせぶりな言葉だけ残して、今度こそ消えてしまった。
そして、その瞬間リットの姿はもとの大きさへ戻った。
人間の大きさに戻ったということは、足場は体重に耐えきれず崩れ去り、湖へ真っ逆さになってしまった。
落ちたのはリット一人ではない。チルカまで一緒になって落ちてきた。
「飛べよ。妖精ならよ……」
リットは思ったよりも浅い湖から立ち上がると、チルカを手のひらの乗せたままジャブジャブと水を蹴って岸へ向かった。
「久しぶりで感覚が掴めないのよ……何日も飛ばなかったことなんてないんだから」
二人が岸へたどり着き、自分の姿を水面で確認し、羽と身長が戻ったことがわかりほっとしていると、交流会に参加する妖精の声がいくつも湖に向かって響いてきた。




