第十一話
「旦那ァ……。チルカァ……。私はもうダメっす……。どうか私に構わずお先へ……」
ノーラは右の二の腕を押さえると、倒れ込むように急にうずくまった。
「早く歩けよ」
リットが冷たく言うと、ノーラはこの世の終わりのような絶望の表情を浮かべた。
「こんな状態の私に歩けって言うんスかァ?」
「歩きなさいよ」
「チルカまで!? どうやら……私はお荷物どころか敵に回ったようですね……。無常……これもまた人生」
ノーラ絶対に立ち上がらないと、その場でしゃがんだままだ。
これには理由がある。
怪我をしたわけでも、腹痛に襲われたわけでもない。
歩きながら摘んでいたハーブにかぶれてしまったのだ。
「道草を食うってのは、そういう意味じゃねぇんだぞ」
「旦那達と私じゃお腹の減り方が違うんすよ。とにかく無理っスよ。もう痒くて痒くて……」
ノーラが赤くなった二の腕を掻きむしろうとすると、チルカが頭から飛び降りてきて慌てて止めた。
「ダメよ! 傷口が化膿するわよ。待ってなさい。良く効く薬草を探してきてあげるから。そうね……」
チルカは周囲を見渡した。この辺りの雑草は背が高い。だが、がっしりとした茎を持つわけではなく、ヒョロヒョロと長く伸びていた。
これは日の当たらない場所に咲いた植物が、太陽を求めて上へと伸びるためだ。
他にも葉の色やツルの巻き方などを考えて導き出した答え――それは歩くと言うことだった。
「世話をかけますねェ……」
ノーラは出ていない目尻の涙を拭うと、リュックの中から水筒を取り出した。もう完全に休憩に入り、動かない姿勢を見せていた。
「いいのよ。私とリットに任せておきなさい!」
「――今度から良い格好をしたいなら、自分の名前をだけを出してくれ」
リットは密集する草をかき分けながら、チルカの指示通り山の森にある――更に小さな雑草の森で悪態をついていた。
「植物の知識は私の方があるけど、こういうところを歩くならアンタの方が詳しいでしょう。あっ、それ触るとノーラみたいに被れるから気をつけなさい」
リットは掴んでいたから雑草から素早く手を離した。
「もっと早く言えよ」
「大丈夫よ。植物っていうのは、大抵汁とか分泌液に気を付ければいいんだから。触るだけで死んだり、病気になる植物だなんて限られてるてわよ」
「それもそうだったな」
リットはいつも通りの淡々とした答え方だったのだが、チルカは急に大人しくなった。
「あー……その……悪かったわよ」
素直に謝ったのは、リットの父親であるヴィクターの死因が植物に含まれている遅効性の毒ということを思い出したからだ。
「謝るなら巻き込んだことを謝れよ」
「それは何度も謝ったでしょうが」
「あれが謝罪か?」
「謝罪もあったでしょう。頭が悪いから気付かないのよ」
「頭が良いなら思い出してくれよ。いつどこでどの謝罪の弁を述べたかよ」
リットとチルカがいつものような口喧嘩を始めていると、急に大粒の雨が降ってきた。
地面に叩きつけられた一粒の雨粒は、大きな振動を起こして、泥水を跳ね上げさせた。
「ちょっと……これ大雨になるわよ。青空が見えてるから通り雨だと思うけど」
さすがに喧嘩をしている場合じゃないと、チルカは雨宿りをできそうな場所を探したのだが、ちょうどいい岩の隙間は二人の大きさでは届かない場所にある。
「あれか?」
リットは葉の隙間から、チルカが見つけた岩を見た。
岩と言っても、それは二人から見てだ。実際は大きな石であり、どこかの種族の子供が暇潰しに積んだようなものだった。
「そうだけど。登れないでしょう。早く探さないと大変よ。水溜まりができたら、最悪川まで流されるわよ……」
チルカは早く次の雨宿りの場所を探さなければと焦っていたのだが、リットはゆっくりとした足取りで別の方向へと歩き出した。
「ちょっと! どこいくのよ!」
「雨宿りするに決まってんだろう。あの岩がちょうどいいって言ってたじゃねぇか」
「アンタが飛べるならね。ぶっ飛んでるのは、その意見だけにしなさい」
「切り倒しゃいいんだ。人間は古来からこうして生きてきたんだからな」
リットは普段は砂利と呼んでいる小石を掴むと、それを乱暴に近くの石にぶつけた。
砂利は割れると、破片となって周囲に飛び散った。
「危ないでしょう……いきなりなんなんのよ!」
「切り倒すって言っただろう」
リットは飛び散った破片の中から、なるべく鋭利で硬いものを探して選ぶと、それで茎を切り倒した。
長い茎は木が倒れるように、岩に向かって道をつくった。
「そういうことするなら先に言いなさいよ……」
「言ったら自然を破壊するなとか言うだろうが」
「言わないわよ。木じゃないのよ。枝とか茎なら、アンタが切ったところから枝分かれして勝手に増えるもの」
「それこそ先に言えってんだよ……」
リットは先に茎を渡って岩の隙間に辿り着くと、もたつくチルカの腕を引っ張った。
「何をするか知らないんだから言えるわけないでしょうが。でも、助かったわ……」
本降りになった雨を見て、チルカはゾッとしていた。
このまま地面にいたら、雨水に流されていたことは間違いないからだ。
「ノーラは流されてないだろうな」
「ノーラが流されるくらいの大雨なら、私達の方が危険よ。それにしても変ね……」
チルカは隙間から少しだけ顔を覗かせると、雨の様子を確認した。
これだけの雨ならば、事前にチルカは気付くことができる。だが、その予兆の一つもなかったのだ。
子供の気まぐれのような突然の出来事だった。
「羽のせいじゃねぇのか? ってことは……妖精の本体ってのは羽か?」
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ。私は普通におかしいって言ってるの。アンタが酒場に行って、酒を飲まないで帰ってきたらどう?」
「おかしいに決まってんだろ」
「だから変だって言ってんのよ。今まではこんなことなかったんだけど……」
チルカは本気で心配していたのだが、散々振り回されているリットは何を言っているんだと呆れていた。
「オマエの今までの情報が、今回の旅で役立ってるか? そろそろ周りより自分を疑えよ」
「ちゃんと精霊がいる山に辿り着いたでしょうが」
「わかんねぇよ。こちとら精霊の気配なんて気付かねぇんだからよ」
「もう少し精霊に興味を持ったらどう? 少なからず関わってんだから」
「だから、もう関わりたくねぇんだよ。今回の雨も妖精の仕業じゃねぇだろうな」
「そんな暇なわけないでしょう。小さくなった人間と羽のない妖精よ。誰が興味を持つってのよ」
チルカはリットと話している間も、定期的に隙間から顔を出してノーラに使う薬草の存在を探していた。
偉そうなことを言って出てきた手前。手ぶらで帰るのはどうもきまりが悪いからだ。
だが、雨に煙る森というのはとても視界が悪い。雨でだけではなく、大小様々な雨だれが木の葉から垂れ落ちてくるせいで、視界が騒がしくなってしまう。普段のチルカなら羽明かりと風の魔法を利用するので、視野が悪くなることはない。今回ばかりはいいように自然に翻弄されてしまっていた。
チルカの体に起こっている変化というのは、羽が消えたことと魔法が使えないということだ。
羽がないから魔法が使えないのか、妖精の呪いで魔法が使えないのかはわからないが、不便なことに変わりない。
だが、魔力の感知は出来るので精霊との交流会がある山へとたどり着くことが出来たのだが、そのことがリットは引っかかっていた。
「今、魔力ってどうなってんだ?」
「こんな時に魔女ごっこ? 勘弁してよね」
チルカはリットの顔を見ずに、雨が止むのを祈るようにずっと外を見ていた。
「この雨に魔力はあるかってことだ。強さのことだぞ」
リットは精霊がこの雨を降らせているのではないかと考えていた。精霊が関わっているのならば、雨に含まれる魔力に違い生まれる可能性がある。
「そんなこと考えたこともなかったわ。そうね……」
チルカが魔力を感知しようと気合を入れた時だ。張り付くようにいた雨雲は、静かに流れてってしまった。
「ほら、上がったから帰るわよ。アンタが気にしてるみたいだし、薬草よりノーラの様子を見に行きましょう」
通り雨だと思っていたチルカはなんの違和感も覚えていなかったが、リットが引っかかるのは出来過ぎた偶然だ。
まるで指摘した途端に逃げたように思えた。
だが、そんなリット疑問はチルカに一蹴されてしまった。
精霊が一人の人間に関わるほど暇がないという言葉は、納得するには十分だった。
少なくとも今は交流会があるので、精霊がちょっかいをかけて場を荒らす意味もない。
リットは一旦疑問を飲み込んでノーラの元へ戻ることにした。
「旦那ァ……。チルカ……。遅いっすよ」
ノーラは倒れた大木に腰掛けて、リット達の帰りを待っていた。
リット達が大雨だと騒いでいた雨はただの小雨であり、ノーラの周りには小さな水溜まりが出来ているだけだった。
それがわかったのは、ノーラの隣にあるリュックの上に座って全体を見回したからだ。
「遅いってね……誰のために遠出したと思ってるのよ」
「遠出って……こっから丸見えでしたよ」
ノーラが指を向けた方角には、雨に濡れた大きめの石があった。それには亀裂が入っており、リットとチルカが雨宿りした石に間違いなかった。
「世界って広いのね……」
チルカは単純に驚いていた。いつもは飛んで移動するだけなので、リットの歩く速度や走りと同じくらいのスピードが出せる。
それがいざ自分の足で歩くとなると、故郷であるリゼーネの迷いの森から出ることも難しそうだった。
「その実感は船に乗った時とか、浮遊大陸に行った時とか、もっとタイミングがあっただろうが」
「そのどれに私の羽がなくなった事実があるってのよ。妖精がここまでやってれば十分でしょうよ」
「やりすぎだろう……」
リットは世界を回りすぎた妖精のチルカに冷ややかな視線を送っていた。
一緒に様々な世界を回ったことにより、チルカも色々な知識が増えてきているので、段々リットを丸め込むことも増えてきた。
本来の妖精の姿とはかけ離れたチルカを見たあと、ドワーフの能力を全く鍛冶に利用していないノーラを見た。
「オレのとこはなりそこないしか来ねえのか?」
「アンタだって人間のなりそこないじゃない。早く一人前になりなさいよ」
「オマエも羽なしの半端者じゃねぇか」
「まぁまぁ二人とも。どっちもどっちってことでいいじゃないっスか。喧嘩するくらいなら先を急ぎましょう」
ノーラに嗜められたリットとチルカは再びノーラのリュックに乗ったのだが、三人ともノーラが植物にかぶれたことを忘れてしまっていた。
口喧嘩で注意力散漫になっていた二人はとは違い、ノーラはいつの間にか完治して痒みも感じなくなっていたので忘れたのだ。
そして、もう一人。
事故により翼が折れたハーピィが近くの木陰で雨宿りしていたのだが、彼女の傷もこの雨により治っていた。
彼女が聞いたのは妖精の声。
そして、石の上には小さな足跡が二つ残っていた。
妖精が癒やしの雨を流すという噂は、ハーピィの羽ばたきの風に乗って空の世界へと静かに広がっていった。