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第一話

「ちょっとハチミツ取ってよ」

 リットにとって、この日はチルカのこの言葉が始まりの言葉だった。

 昨夜は馴染みの酒場で深酒をしてしまったせいで、リビングのテーブルに突っ伏したまま眠ってしまったのだ。

 お腹がすいて起きてきたノーラとチルカは既に、テーブルに座り勝手にご飯を食べていた。

 ただリット目の前にハチミツの入った瓶が置いてあったのだ。

 だからチルカが声をかけた。

 なんてことのない日常の一幕だ。

「これくらい取りに来いよ……」

 リットは手で乱暴に瓶を押して、テーブルの上を滑らせた。

 勢いに乗った瓶はスピードを上げてチルカに向かっていく。

 テーブルから瓶が落ちて割れる前に、チルカは飛び込むようにして体を張って瓶を止めた。

「ちょっと! 危ないじゃない!」

「ちゃんとテーブルの端で止まるように計算済みだ」

「嘘ね。絶対に落ちてたわよ」

 言い合う二人の間にある瓶を手に取ったノーラは、パンにハチミツをたっぷり塗り込んだ。

「旦那もチルカも。朝から喧嘩はよくないっスよ」

「別に喧嘩したくてしてるわけじゃないわよ。あまりに人のことを考えずに生きてるからムカついてるだけ」

 チルカはリットをひと睨みすると、ハチミツ瓶の元まで飛んでいった。

「人のことは考えてるぞ。妖精のことを考えてねぇだけだ。なんせ、ここは人間の家だからな」

 文句があるなら出ていけと言いたげなリットに、チルカは舌打ちで応戦した。

「アンタね……妖精に呪われるわよ。そろそろ儀式なんだから」

「儀式って、木にムカつく奴の名前を書いて燃やすのか?」

「そんなみみっちいことするわけないでしょう。精霊との交流会のことよ。噂があるのよ。儀式の用意をしている妖精の邪魔をすると呪われるって」

「その噂の元って妖精だろう。どう考えても、都合よく改変されてるだろ」

「つまり信憑性があるってことよ。精霊との交流会中は、妖精も精霊並みの魔力が使えるらしいからアンタも終わりね」

「それで、今まで呪いをかけたことはあるのか?」

「あるに決まってるでしょ。ムカつくやつに片っ端からかけてやったわよ。便秘になったり逆剥けができたり、どいつも散々な目にあってるわよ」

「そりゃ怖いわな」

 リットはあくびを一つすると、酔い覚ましに水を半分ほど飲んだ。

「信じてないわね……。アンタが不幸になる呪いをかけてやるわ」チルカは目を閉じると、リットに手のひらを向けた。そしてブツブツ言葉にもならない呪文を唱え終わると、「はい! アンタは呪われたわ!」と元気よく宣言したのだった。

「こりゃおもしれぇ。早速呪いが聞いてきて、頭が痛くなってきた……」

「私の呪いをバカにしないでよね。そんな二日酔いの症状じゃ足りないわよ。どんなことになるのかしらね。アンタにとって最悪の不幸が訪れるように呪っておいたわよ」

「そのわりには呪文が適当でしたね。八割は旦那の悪口でしたよ。バカとか死ねとか」

 チルカの隣りにいるノーラはしっかり呪文の言葉が聞こえていた。

「呪いってのはそんなものよ」

 チルカは最後にリットに向かって歯を剥き出しにすると、ノーラが割ったパンをハチミツに浸して食べ始めた。

 それからリットの体になんの変化も訪れることなく、夜には再びカーターの酒場へ来ていた。

「見ろよ」と酒場でカーターに見せられたのは、高そうな細いコップだった。「洗いにくいせいでカビが生えてる……」

「その日うちに洗えってメッセージだよ。神様からのな。つーかそんな汚ねえもの見せんなよ。まさか、そんなコップに酒を注いでねぇだろうな」

「バレるようなコップを使うかよ。絶妙に汚れたコップを使い回してるに決まってるだろう」

「それで今日はこんなに客が少ねぇのか。全員腹でも壊したのか?」

「忙しんだよ。リットは知らないだろうけど、もう少しで祭りだからな」

「知ってるよ。豊作を祈る祭りだろ? ちゃんと夜には酒を飲んで、ついでに豊作も祈ってる」

「普通は飾り物作ったり、大掃除をしたりするもんなんだ」

「それをカーターがオレに言うか?」

 リットは何も変わらない酒場の内装を見渡した。必要以上に掃除をした跡もなければ、飾り物があるわけでもない。いつもの客のいない酒場だ。

「しょうがねぇだろう。綺麗にしても酔っ払いがすぐに汚すし、飾り物をしてもすぐに壊すだろう……酔っ払いが」

「そんなことしねぇよ」

「数年前にオレが作った置物のカカシはどうだってんだよ」

「壊してねぇだろう。酔った女が外したブラをつけて、店の一番高いところに飾り直しただけだ。それも、オレじゃなくてローレンがな」

「あの日からしばらく女の客はうちの酒場に来なくなったんだぞ」

「元から冒険者以外はほとんど来ないだろう、女の客はよ」

 リットは立ち上がると、コップをカウンターに置いた。

「おい、もう帰るのか?」

「なんか飲む雰囲気じゃねぇしな」

 リットはあまりに静かすぎる酒場に居心地の悪さを覚えていた。

「おいおい、困るぜ。リットが飲まなければ、誰がうちの酒を飲んでいくんだよ」

「その手は通用しねぇよ。どうせ、次のろくでなしがそろそろ店に現れる頃だろ」

 リットが言うのと同時に「よう」と馴染みの客が酒場に入ってきた。

 リットと軽く世間話をすると、カーターに酒を注文し、一番端のテーブル席へ腰掛けると、もう一人の時間を楽しみ始めた。

 一通りその行動見てから、リットは酒場を出た。

 感じ慣れない光に気付き、ふいに空を見上げた。

 いつもと違う奇妙な色の月。熱した鉄のように赤い色をしている。だが、お酒が入っていることもあり、すぐにどうでも良くなってしまった。

 少しふらつく足取りでさっさと家に帰って、ベッドに沈み込んだ。



 翌日リットはシーツの上を泳いでいた。

 寝返りを繰り返し、腹ばいに動き、本来ならばとっくに床へと落ちているはずなのだが、一向に床の硬い感触にありつくことはなかった。

 ひたすらシーツの上。これはおかしいと思ったリットは、ようやく目を開けた。

 ベッドの上。テーブルにはほとんど溶けたロウソクの塊がすっかり冷え固まっていた。

 一見して何も変わらないベッドルームなのだが、すぐにいつもとは違うことが起きた。

 普段の何十倍も大きくなったノーラが「旦那ァ……まだ寝てるんスかァ?」と部屋に入ってきたのだ。

「ノーラ?」

「旦那ァ?」

 二人が目を見合わせてから、悲鳴を上げるのは同時だった。

 何事かと、庭からチルカが飛んで来る。

 その目に映ったのは、いつもと何も変わらないノーラと、自分と同じサイズまで縮んだリットの姿だった。

「これは夢?」

 チルカは思わず立ち尽くした。まさかリットが自分と同じサイズになるとは思っても見なかったからだ。

「そりゃこっちのセリフだ……。どう考えても昨日の呪いが原因だろうが」

「どう考えても、妖精にそんな力があるなんて思わないでしょう」

「聖なる力はねぇだろうけど、悪の力はあるだろうよ。そして、これはどう見ても悪の力だ。妖精ごときと同じサイズになってんだぞ!」

「アンタ……呪いじゃなくてバチが当たったんじゃないの? とにかく、私は関係ないわよ。妖精の呪いなんてないんだから」

 チルカはバカみたいとこぼすと、リットを一瞥してから庭へと戻っていった。

「まぁ、とりあえずご飯を食べましょうよ。いっぱい食べれば、その分だけ大きくなれますって」

 ノーラの慰めの言葉は、実際に出された料理の前では嫌味にしか聞こえなかった。

「どれだけ食えってんだよ……目玉焼き一つで絨毯くらいの大きさがあるんだぞ」

「旦那ァ……自慢ばっかりしないでくださいよ。変われるなら変わりたいくらいなんスから。本当ですよォ。だって、永遠に美味しいものを食べられるんスよ。それも格安で。一人分じゃないっスよ。一口分でお腹いっぱいなんスから」

「なるほどな……」とリットは少し考えると、ノーラの頭に乗り酒場へと向かった。



「これがリットか? ……こりゃまた面白いことになったな。……なぁ、あっちの方も小さくなったのか?」

 縮んだリットに、カーターは面白い生き物を見るような視線を浴びせていた。

「くだらねぇことを言ってると、この引っぺがしたカビを鼻の穴で増殖させるぞ」

 リットはささくれのような細い枝を持って、コップの中から出てきた。

「そう言うなよ。人間の手伝いをするのが小人だろう。昔そんな話を聞かされたぜ。母親にな」

 カーターは汗だくのリットをからかった。

 リットがコップの掃除をすることになったのは、ただで酒を飲もうとしたからだ。

 このサイズならば数滴でもお酒を楽しむことができ、このチャンスにカーターの酒場の高級酒を全部味見してやろうと考えていたら、飲みたいなら掃除を手伝えと、手の入らない細いコップの掃除を頼まれたのだった。

「ほらよ、これでいいだろう」

 リットはカビを全部取ったぞと、自分と同じ大きさくらいのコップを叩いて鳴らした。

「完璧だ。ほら、存分に飲め」

 カーターは近所の女の子から借りた人形のおままごとに使う小さいコップをリットの前に置いた。

 小さいと言っても、リットに対しては大きく、樽のようなサイズのコップを抱えて、手でお酒を飲んでいた。

「チルカの大変さがわかりますねぇ。どうっスかァ?」

 ノーラは鴨の煮込みを口一杯に放り込んでから、口にものが入っている状態でモゴモゴと偉そうに何かを言っているのだが、リットには何も聞こえていなかった。

「今のところ、人に乗って移動出来るし、酒はたらふく飲めるし最高だな」

「こっちも最高だ」

 リットがいくら飲んだところで大した量にならないので、カーターはウキウキしていた。それどころか、この機会に手の届かないところの掃除をさせようとさえ思っていたところだ。

「でも、実際問題どうするんです? このままいるつもりですか?」

 ノーラは汁まで舐めとった皿を掲げると、カーターにおかわりを頼んだ。

「どうするもなにも、このままでいるしかねぇだろ」

「あらら、随分前向きなことで」

「今回は得が多いからな。焦って元に戻ることもねぇよ」

「旦那は異変に慣れすぎなんですよ。普通は焦りますよ。背が縮んだってなったら」

「そこがガキとの違いよ。大人は酒で現実逃避をする」

「旦那の言う大人って、おままごとのコップを抱いて、管を巻く人のことですかい?」

「理想の大人に慣れた。乾杯だな」

「すっかり酔ってますねぇ……旦那がいいならいいんですけど」

 それからノーラはお腹いっぱいになるまで食事を楽しみ、満腹感からいつの間にか眠ってしまっていた。

「起きろ、ノーラ」と、リットに頬をつねられて起こされたのは、朝になってかなり経ってからだった。

「旦那ァ……たまには店を閉めましょうよ。こんな時に開けても良いことないですよ」

「なに言ってんだ。元に戻る方法を探すぞ」

「旦那こそなにを言ってるんスかァ……。昨日と言ってることが違いますよォ。……もっと考えがまとまってから話してくださいな」

「もうまとまってんだよ。これ以上まとめるなら、人類の絶滅を願うぞ」

 リットの様子がおかしいので、ノーラは目を開けてみた。

 すると、顔も服も真っ黒にしたリットが鬼のような形相で睨んでいたのだ。

「旦那ァ……一体どうしたんスかァ」

「どうしただ? どうしただと? 列を作るバカどもに聞け」

 リットが指を向けた方では、リットに頼み事があると客が列を作っていたのだ。

 頼み事のどれもが、隙間に入ったものを取って欲しいや、狭いところの汚れを落としてほしいと言うものだ。

 リットの体が縮んだことは一夜にして知れ渡り、こんな都合のいいことはないと、親しい住民は全員朝からリットの元へ来ていたのだ。

「旦那ってば働き者っスねェ」

「好きで働いてるように見えるか?」

「普段のツケをこの機会に払わされてるように見えます」

「わかってんじゃねぇか。さっさと元の姿に戻るぞ。自分が悪いだけに、頼み事は断りにくい……」

 リットは今までの迷惑の分だとわかっていても、次から次へと頼み事をされるのには参っていた。

「それなら、やっぱり――」

 ノーラが酒場の外に目をやると、リットも同じように外を見た。

 床を明るくする日差し、その輝きは妖精の羽明かりのように優しかった。

「――チルカだな」

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