天国か地獄か
背中に熱さを感じ目を覚まし飛び起きた。背中を触ってみるとパジャマがびっしょりと濡れている。砂地の地面から紫色をした湯気がモヤモヤと立ち上がっていた。見渡す限り砂地だ。砂丘のようで所々から紫色の湯気が上がっている。
一体、ここはどこなんだ、と首を傾げた。わしは病院のベッドで寝ていたはずだが。
病院のベッドで横になり、自分の余命はわずかだということを覚悟していた。ついにわずかな余命がつきて天国に来たのか。天国にしては辛気臭い場所だ。ここは地獄なのか。
「まさかな」と一人言が出た。
遠くの方に何かが見えた。人間のようだ。だんだんとその姿は大きくなってくる。
わしは目を凝らした。やはり人間がこっちに歩いて向かって来ているようだ。
その顔が確認できる距離まで近づいたところで、それが女だとわかった。女と目が合ったところで女は立ち止まった。そこでわしに向けて一礼をした。わしもペコリと頭を下げた。女はニヤリと笑みを浮かべた。
女は若い。年齢は三十過ぎくらいだろうか。長い黒髪を後ろに束ねている。黒いスーツ姿で背が高く痩せている。顔は小さめだがそれぞれのパーツは大きい。目の周りは青く、唇は真っ赤だ。目立つ顔に自然と視線がいってしまう。
女はまた一歩、二歩と近づいてきた。わしとの距離が五メートルくらいになったところで、彼女が口を開いた。
「いらっしゃいませ」
女はニヤリと笑みを浮かべた。
「は、はあ」
今の状況が把握できないので、曖昧な言葉を発した。
「木原さん、ですよね」
女がわしの名を呼んだ。
「そうだが」
なぜわしの名を知っているのか怪訝に思った。
「人生、お疲れ様でした」
女はそう言ってわしに向かって慇懃に頭を下げた。
人生、お疲れ様でしたということは、やはりわしは死んでしまったということだろうか。
「こ、ここはどこだ」
とりあえず訊いてみた。
「ここは死後の世界です」
女はそう言ってからまたニヤリと笑みを浮かべた。
「死後の世界? ということは、やはりわしは死んだのか」
「そうです、あなたの人生は先ほど無事終了いたしました」
無事終了しただと。やはりわしは死んでしまったのか。病院のベッドの上で死の覚悟はしていたが、こうして聞かされるとショックだ。妻と息子たち、孫たちの顔が頭に浮かんだ。もう会えないのかと思うと胸が詰まり言葉が出なかった。
「……」
「ショックを受けているようですね」
女はバカにしたようにニヤリと笑った。
「笑うことないだろ。ショックを受けて何が悪い。自分が死んだとわかってショックを受けないやつがどこの世界にいる」
「それは失礼いたしました」
女はそう言ったあともニヤリと笑みを浮かべた。本当に失礼だと思っているのかと腹が立った。
「わしはもう家族にも会えないのか?」
「残念ながら、そういうことです」
彼女はまたニヤリと笑みを浮かべた。
なぜ笑みを浮かべる。演技でも眉をハの字にして、悲しそうな表情を浮かべろよと思った。
「一体、あんたは誰なんだ?」
女を睨むようにして見た。
「私はあなたの人生の審判をするためにやってきました」
「審判だと。あの天国か地獄かとかいうあれか?」
「そうです、よくご存じですね。今からあなたの85年の人生を振り返り、この後、あなたは天国に行くべきなのか、それとも地獄に落ちるべきなのかを審判させてもらいます」
こんな小娘に審判されるのかと思うと胸くそが悪かった。こいつにわしの人生の何がわかるというのだ。
「わしは地獄に落ちるようなことはやっとらんよ。審判なんて必要ない。さっさと天国に行かせろ」
「うーん」
女は顎に手をやり首を傾げた。その態度が気に食わない。
「なんだ、その態度は。わしの人生にケチでもつけるつもりか」
「ケチをつけるわけではありません。ただ前もってあなたの資料に目を通させていただきましたが、天国に行けるようなことが見当たらないんです」
「そんなはずはない。わしは悪いことなど一切やっていない。天国に行けるに決まってるはずだ」
「あなたは生きている間に他人の為になることをやりましたか」
「他人の為になることか?」
「そうです、他人の為になることを数多くやっていれば天国に行けます」
「なに言ってるんだ。やってるに決まってるだろ。会社のため、家族を養うために必死で働いてきたんだぞ」
「それは他人のためではなく、会社のため、家族のため、ですよね」
「会社のため、家族のための何がいけない。家族のために頑張るのは当たり前のことだ」
「そうなんです。勤務する会社のため、家族のために頑張るのは当たり前のことなんです。会社のために働くことで給料はもらっているわけですし、家族のために頑張るのは最終的には自分の生活ためでもありますからね。ですから、それくらいのことで天国にはいけません。もっと自己犠牲してでも他人のためになることをやってませんと天国にはいけません」
生意気な女だ。なにが自己犠牲して他人のためだ。
「お前にわしの苦労の何がわかる」
「あなたの人生の全てをあなた以上に把握しています」
「バカなことを言うな」
「あなたは定年後に子供達の交通安全の為に毎朝、通学路に立ち子供達を見守りをしてましたね」
「そうだ、それは他人の子供のためにやったんだ。わかってるならそれを先に言え」
「はい、でも資料で拝見しましたが、天国行きには決定打に欠けます。ちょっとと言うかだいぶ弱いですね」
「なぜ弱い? 意味がわからん」
「知り合いに依頼されて渋々引き受けた感があります。健康の為になるからと自分自身に言い聞かせながらやってたわけですからね。子供たちの安全の為という気持ちは弱かったようですね」
「わしは、間違いなく家族の為、会社の為、社会の為に一生懸命に働いてきたんだ」
「だから、そんなの当たり前なんですよ。それくらいは、やってもらわないと人間界にいる資格はないんです。それよりあなた、地獄に落ちるようなことをやってますよね」
「そんなことは絶対にない。わしはずっと真面目に生きてきた」
「学生の頃に万引きしてますよね」
「なにわけのわからんことを言ってる。そんな遠い昔のことを持ち出すな。わしが中学生頃の話だ。未成年で興味本位で魔が差しただけのことだ。それも安い菓子を盗んだだけだぞ」
「今も昔も関係ありません。あなたの一生を審判してるわけですからね。それから、ここでは少年法なんて関係ないですから未成年でも関係ありませんし、もちろん時効なんてありません」
「そんな、汚えぞ。お前はわしを地獄に落としたいだけなんじゃないか」
「そんなことはありません。公平に審判しているだけです」
女は無表情で言った。
「納得いかねえな」
わしは腕を組んで女を睨み付けた。
「あなたに納得してもらおうとは思っていません」
女はわしの顔をじっと見てそう言ってから口角を上げた。
このままだと地獄に落とされそうだと思った。ここは態度を変えた方が良さそうだ。反省した素振りだけでも見せておこう。
「万引きしたことは謝る。申し訳ないと思っているし反省はしている。軽い罪だ。これで許してくれ」
わしはペコリと首を折った。
「謝っても反省しても、犯した罪は消えません」
平然と女は答えた。
「なんだと」
女の胸ぐらを掴みたい気分だ。
「犯した万引きの罪が重いか軽いかは、あなたが判断するものではありません。ここでは被害にあった方が、それが原因でどんな思いをしたかで判断します。なのであなたが軽いと思っていても被害にあった方が、それが原因で辛い人生になっていたら重い犯罪になります。なので、菓子一つ盗んだだけでも地獄行きになることはあります」
「地獄に行くのは殺人とか凶悪な犯罪をした人間が行く所じゃないのか」
「あなたの考え方は生きていた頃と同じで甘いんです。悪いことをすれば地獄に落ちます。絶対に天国には行けません」
「何とか助けてくれ。お願いだ」
ここはムカつくが堪えて、泣きつくしかない。地獄に落ちるわけにはいかない。
「私はあなたを助ける為に、ここに来ているわけではありません。自分が悪いことをしておきながら、誰かに助けてもらおうという考えが甘いんです。最近の人間界の甘さが、あなたを見てよくわかります」
「……」
わしはどうしたらいいのだ。どうすることもできない。ただ唇を噛みしめていた。
「小学生の頃、同級生の加奈子さんという女の子の容姿を馬鹿にして、いじめてましたよね」
「いや、いじめと言うほど陰湿なものではない。からかって遊んでいただけだ。子供のじゃれ合いだ」
「先ほども言いましたが、罪の重さは、あなたが判断するものではありません。いじめを受けた加奈子さんがどんな思いをしたかで決まります。彼女が、あなたのいじめが原因で自殺でもしたら、ここでの審判は殺人と罪は変わりませんから地獄行きは確定です」
「そんなバカな」
「それから不倫もしましたよね」
「いや、それも魔が差しただけだ。仕事で悩んでいた時にいろいろと助けてくれた女性で、あの頃は妻ともうまくいってなかったんだ」
「ここはあなたの言い訳を聞く場ではありませんので、魔が差したからとか関係ないですから。何度も言わせないで下さい」
「う、うう」
言葉が出ない。
「では、ここで暫くお待ちください。審判の結果を確認してまいります」
女は踵を返し来た道を戻って行った。小さくなっていく女の背中に向かって叫んだ。
「すまん、頼む。わしを許してくれー」
女は立ち止まり振り返った。わしに向かって頭を下げたのは確認できた。それはどういう意味だろう。許してくれるのだろうか。
暫く一人立ち尽くしていた。座る場所もない。地面に座れば、尻は紫色の湯気で濡れてしまう。ズボンの裾は濡れてしまっている。
女が戻ってきた。無表情でわしの前に立った。
「では、審判の結果です」
女はそこで言葉を切った。
わしは深い息を吐いた。顔は強ばっていただろう。
女はわしのその表情を見て、右の口角だけを上げて笑った。
苦しんでるわしをいたぶるような態度だ。性格の悪い女だ。こいつこそ地獄行きだろうと思った。
「まずは万引きの件です」
女はそこでまた言葉を切ってわしの顔を見た。
「ああ」とだけ相槌した。
「当時、万引き被害に合った方はそのせいで経営難に陥り頭を悩ませていましたね。結局、店を閉めてしまいました。その責任はあなたにもあります」
「菓子一つで何が経営難だ。わしの責任ではない」
わしはそっぽを向いた。
「確かにあなたの万引きだけが原因ではないので、これだけであなたの地獄行き確定にはなりませんでした」
「そうか助かったな。まっ、当たり前だがな。そんなことで地獄行きなら、死んだやつは全員地獄行きだ。バカバカしい審判だ」
「次にいじめの件ですが」
女はわしの顔を覗きこんできた。
「あれはいじめではない」
わしの言葉を女は無視した。
「加奈子さんはあなたのいじめのせいで学校に行きたくない時期もあったようです」
「いじめてたのはわしだけじゃない。わしのはまだマシな方だ」
わしが言うと女はキツい視線をわしに向けてきた。そこでわしは口をつぐんだ。
「あなたからいじめを受けていた加奈子さんですが、彼女をいじめから守ってくれた女友達がいたようです。美知子さんという女性です。加奈子さんは美知子さんのおかげで勇気を持つことが出来て、不登校とか、自殺するとかは、なかったようです」
「そういえば彼女をからかってると、あいつはわしに対して鬼の形相で怒ってきてたな」
「そうですか。その美和子さんのせいで、いじめの件でも残念ながらあなたを地獄行き確定には出来ませんでした」
「ざ、残念ながら、だと」
「そう。残念ながら、です」
女は目を細めた。
「どういうことだ。わしを地獄行きにしたいわけか」
わしは声を荒げた。しかし、女はまたわしを無視した。
「それから不倫については、奥さまから許してもらえて、その後は夫婦円満でしたし、不倫相手の方も、その後幸せに暮らしていましたので地獄行きには出来ませんでした」
「出来ませんでした、だと」
「そうですよ、残念ながら、あなたを地獄に落とすことは出来ませんでした」
「やっぱりお前はわしを地獄に落とそうとしていたのか」
「そうですよ、私たちは出来の悪い人間は出来るだけ地獄に落としてしまいたいんですよ。天国と人間界をもっと綺麗にしたいんです。汚いもの要らないものはさっさと地獄に捨てたいんです。断捨離ですかね。あなたも、もう少しで地獄に落とせたんですが、本当に残念です」
「出来の悪い人間だと」
わしは拳を握りしめた。
「実はあなたを地獄に落とせなかった理由の一つに子供たちを見守った件もあります。あなたが笑顔で見守ってくれていたのが嬉しくて学校へ行くのが好きになった子供たちがいたそうです。その子供たちの中には、現在、医者になって他人の命を救うことに人生を捧げているような人もいます。日本を良くしたいと政治家を志している人もいます。あなたも少しは、それに貢献したということになっています」
「あの子供たちがそういう風に成長してくれたことは嬉しいことだ」
「私としては、あなたの力ではなく子供だけの力だと思うのですがね、審判の結果がそういうことなので仕方ないです」
「わしは天国に行けるのか」
「それは無理です。天国に行けるようなことはやっていません」
「地獄に行かなくていいんだろう?」
「ええ、私の力が及ばず、地獄行きには出来ませんでしたから」
「なら、わしはどうなるんだ?」
「もう一度やり直しですね」
女は残念そうに口を歪めた。
「やり直し、だと」
「そう、やり直しです。あなたはもう一度、人間として生まれ変わって人生やり直してもらいます」
「また人間として生きられるのか?」
「ええ、まあ、そういうことです」
「よしよし」
「今回、あなたはラッキーでしたので地獄に落とせませんでしたが、次回は覚悟しておいて下さい」
「次回だと」
「ええ、これからあなたは生まれ変わり人間として過ごします。そしてまたいつかは死にます。その時です」
「また審判があるのか?」
「ええ、死んだ人間はもれなく審判をします。なので次回の審判で、又お会いしましょう。それまで、生まれ変わってからも中途半端で他人の役に立たない、自分本位な人生を過ごしておいて下さい。そうしたら、次こそはあなたを地獄に落としますので」