シンデレラの娘
パチパチと、薪をくべた暖炉の炎が火花を上げる。少し距離を置いた揺り椅子から、そこへ白く褪せた手をかざし、娘は粗末な暖を取る。
――――聖なる日の夜には、神の御使いが訪れ、人々の願う贈り物を届けてくれるという。
そんな子供騙しな話はあり得ないのだと分別はついている。生まれてから一度も、そんな御使いの存在は娘の前に現れなかった。心躍る出来事が起こるのはごく一部の、子供を喜ばす余裕のある金持ちの家庭くらいということも、我が身を顧みて悟っている。
どれだけの年月を孤独に過ごしていたろう。もう長いこと、笑い声を聞いていない。誰かの笑顔、優しく撫でてくれる大きな手。思い出せないほど記憶の彼方に追いやられている。
1人には慣れているはずだった。だけど乱暴な風が窓を執拗に殴り、家の壁の板目から侵入せんばかりに吹き荒ぶ雪嵐の夜は、どうしても不安になる。
華奢とは聞こえは良いが、単に骨っぽいだけの身体に巻きつけた毛布を強く胸に掻き合わせ、娘は暖炉の前で縮こまる。くすんだ茶の髪が、赤みがかって明らんだ。
生まれつき恵まれていない子供。神様の目にも触れないちっぽけな存在。おとぎ話は富裕層のための夢。貧しさの中で生き抜いてきた娘は、これからもこうして惨めに這いつくばるしかない。目を閉じて、開いても、妖精の魔法使いは立っていない。
だが瞼を挙げた途端、粗末な家の扉が不自然に振動した。どれだけ拭いても埃っぽさが取れない、傷だらけの木の板が今にも割れてしまいそう。
なけなしの防犯で取りつけた閂を、ガチャガチャと不器用に弄る音。数年前に手に入れた鉄製の横棒は、当初から錆が酷くてかなり力を入れるとヒビが入りそうだ。
壊されてはたまったものではないため、慌てて駆け寄って錠を外す。勢い良く開いた扉から、長身痩躯の影が滑り込んだ。
視界の悪い悪天候。家の物音も聞こえないこんな日は、暴漢にとって絶好の機会だ。娘は思わず身をすくめる。だが突然の訪問者は、明らかに身を強張らせていた。びっしょりと重く濡れた服を、娘と同じようにきつくまとわせ、熱を逃がすまいと震える。
頬のあたりだけ紅い、青白い顔。側向く鼻の線が美しい、凛とした輪郭の顎を、溶けた雫が伝う。
身なりは良かった。遠目でもそれと分かる見事な金の巻き毛を頸部で結わえた、滑らかな光沢を乗せた深緑のスカーフ。街の大通りでたびたび見かける羽振りの良い大商人のような、白貂の毛皮がふわふわと縁取る紅い外套。極寒の猛吹雪の餌食にされて、見るも無残に濡れ、おびただしい雪の粒がまとわりついているも、高級品であることは明らかだった。
何の遠慮もない突撃まがいの訪問には呆気に取られたものの、凍えている様子は見ていて忍びない。少しでも暖を分けてやろうと、なけなしの薪の残りを暖炉にくべてやる。ちろちろと鎮静に差しかかっていた炎が、ぶわりと爆ぜて息を吹き返した。
娘の無言の厚意を、その人物は不思議そうに見遣る。両手に呼気を吹きかけていた顔が上がり、深く澄んだ碧い瞳と巡り合う。
金を帯びた紅い炎に照らされた白皙の相貌。雪の雫に濡れた長い睫毛。すっきりと通った鼻筋に薄く開いた形の良い口元。
みすぼらしい民家には到底ふさわしくない、非常に秀麗な顔立ちの青年だった。見透かさんばかりの凛とした眼差しに射すくめられ、娘は動きを止める。
こんなにも美しい存在が人間としているのか、娘は見惚れた。
きっと人品卑しからぬ家柄の青年だろう。金持ちの家の人間は供を連れるのが普通だと思ったのだが、突然の吹雪ではぐれてしまったのだろうか。ぼろいあばら屋の並ぶ寂れた石畳の道、あちこちに入り組んでいて、土地勘がなければ迷ってしまう。
さっきまで自分が座っていた揺り椅子を勧め、娘自身は床に座り込む。目の前で轟と燃える焔が、扉を開けた際に冷えた身体を労わってくれる。
沈黙が2人を満たしていた。火先の弾ける音が所在なげに響く。
どちらも口を開こうとさえしなかった。青年はこの処遇にいささか驚いているようだ。
娘に何らの意図はない。雪を厭って青年が駆け込んできたから、暖かい場所を提供してやった。それだけのこと。
――――聖なる夜には神の御使いが舞い降りて、願い事を叶えてくれる。
もしこの青年が、人の姿を借りた御使いなのだとしたら、娘の願いを叶えてくれるだろうか。
膝を立てて三角に揃えた脚を両腕で抱えたまま、娘はこっくりこっくりと舟を漕ぎ始めた。
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見知らぬ異性を招き入れたというのに、無防備にもうたた寝をしてしまったようだ。三角座りした身体がぐらっと倒れ込みそうになって、ようやく目を覚ます。
何となく横を向くと、至近距離で青年が跪いていた。こちらを一心に見つめ、もの言いたげに小首を傾げる。
どこまでも深い虹彩が、溶けた雪のせいではない『何か』によって潤み、熱を帯びる。
眼差しに込められた意味に気づかぬほど愚かではない。娘は息を飲んだ。全身が乗っ取られたかのように固まり、動かない。美麗な、凛々しい面差しがあと一息で迫る。
一方的にぶつけられているのに、なぜだか抵抗する気は湧かなかった。このどうにも不安な夜を掻き消してほしい。癒えない残り香をこの胸に燻らせて、忘れることがないように。
熱い掌が娘の細い腕を、まろやかな腰を掴んだ。
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目覚めた時、隣のぬくもりは跡形もなくなっていた。ただ、麻の寝台のシーツに、わずかな体温が残されたのみで。
夜明けとともに出て行ってしまったのだろうか。昨晩の猛烈な風雪が嘘のように、窓の景色は清々しく白み、水っぽい銀世界を艶々と照らし出している。
ふわふわと白い地面には、靴跡がくっきりと踏み締められていた。今なら追い駆けられるかもしれない。でも本当に間に合ったら? 何もかける言葉はない。何ができるというのだろう。
娘もそこまで望んではいない。
彼はもう二度と、ここへ寄っては来ないだろう。新しい朝は、あんな一夜などと嘲っている。風が雪上の痕跡をさらってしまうだろう。
それでも娘は良かった。
――――娘の胎内に残された、あえかなぬくもり。これさえあれば、充分だった。
愛したのか、愛おしかったのか。一夜限りの恋だったのか、定かではない。ただただ彼女は満たされていた。『独りではない』、それだけで。