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誰かに抱きとめられたような、暖かな温もりがある。
そのことに無性にホッとして、アシェラはどうしようもなく離れがたいその温もりに身を任せた。
そうすると抱きしめられる力が強まったような気がして、幸せな心地になる。
長く続く無機質な石の回廊は冷たく、腕の内の温もりだけがただ異質だ。
『……王よ。その人間は』
呼び止められ後ろを振り返ると、そこにいたのは信頼する自身の右腕だった。
「気にするな。“また”こちらに落ちてきただけだ。目覚めたら返す」
王と呼ばれたのは、まさにアシェラの探していた魔王こと、レイナス·エルメタインその人である。
背中ほどまである艶やかな黒髪は後ろで一つに束ねられ、その紅い瞳には冷酷さが秘められている。その美貌の王は、黒いマントを身に纏い、今にも夜闇に溶け込んでしまいそうだ。
魔王率いる魔族には階級があり、下級の魔族は獣の姿のままだが、中級以上の魔族は人と同じ姿もとることができた。
人間が恐れるのは獣としての姿の方だが、交渉事にはこちらの方が向いている。
遥か昔に先代の王が人間たちと交わした不可侵の条約は、こちらの世界に干渉してこないことを条件とするものだった。
(……それにしても、最近よく落ちてくる)
人間がこちらに迷いこんでくることなど、数百年に一度ほどだったはずだが、もうこの三ヶ月で五人目になる。
その度に落ちてきた後の記憶を消して地上に戻しているのだが、どういった理由によるものだろうか。
どの人間に聞いても、偶然によるものだというが、そんなことで辿り着けるほど、魔界への入口の隠し方が下手なわけではない。
自らの腕の中で無防備に眠る少女は、まだ幼い。
それに森の中では、何故かレイナスを探しているようだった。
おおよそ魔よりも天使に近い属性であろうこの少女は、あまりにこの空間に似つかわしくない。
(なんにせよ、この娘から事情を尋ねる必要があるか)
『俺が部屋まで運ぼう』
「……いや、いい」
普段なら誰かに運ばせるので、レイナス自らではしないことだが、何故だか今は離しがたかった。
きっと、わざわざ自分に会うために森を彷徨っていた物好きなこの少女にほんの少し興味が湧いたからだ。
それにまだ幼い魔獣の怪我を治してくれた恩もある。
そう結論付けて、レイナスはまた無機質な長い回廊を進んでいく。
* * *
何かが頬を撫でている、そんな気がしてアシェラの意識はゆっくりと浮上する。
「ようやく目覚めたか」
「……え?」
目を開けると、紅い瞳と目が合った。
血のようだと思っていた紅は、実際に見てみれば宝石のように綺麗だ。
「どうした。寝惚けているのか」
どうでもいい感想を感じながら、見とれてしまっていた。
アシェラは首を横に振り、身を起こす。
「申し訳ありません。私はアシェラ。……助けていただき感謝いたします。魔王様」
頭を下げるも、顎を掴まれ顔を上げさせられた。
アシェラの瞳を覗くような仕草に少し動揺していると、魔王が口を開いた。
「……私に、会いに来たのか?」
その言葉に、アシェラは大きく頷いた。
勿論そのためだけに、ここまでやって来た。
正確には森に入るまでは、なのだが。
アシェラは大きく頷き、満面の笑顔を魔王へと向けた。
「はい!私をどうか、あなたの弟子にしていただけませんか!」
その日、新たな運命が始まる。
アシェラの、そして魔王の。