狼と鍵
場所はハワイから日本 5月6日 水曜日 午後4時15分
「本当に客が来ない…… 」
白のYシャツに、ブラウンのエプロンと黒色のスラックスを履いた正輝は、木製のカウンターの中で呆れたような棒読みで話した。
「ええ、これが平常運転です」
正輝と同じ服装をした、喫茶店『like truth』の店主である秦は、見慣れた光景なのか自信満々と胸を張って答える。
「いやいや!! このゴールデンウィークの4日間で1人も客が来ないなんて」
全く商売っ気のない秦の態度に、正輝は思わずツッコミを入れてしまう。
「いや〜 それ程でも」
秦は、まるで世界記録を出したアスリートがテレビインタビューを受けた時のように、右手を頭に当てながら照れていた。
「断じて、褒めてないっすよ!! 」
能天気な秦の返事に正輝は、ジト目になり再度ツッコミを入れる。
「正輝クンは手厳しいですね。それはそうと、このアルバイトも今日が最終日ですね」
秦は、拭き終わったガラスコップを食器棚にしまいながら、どこか寂しそうに話した。
「そうっすね。明日から学校か…… 」
最終日そのワードを聞いた正輝は、表情を暗くした。
「お友達とは、その後どうですか? 」
正輝の背後まで近づいた秦は、彼の様子を伺いながら何気なく質問をした。
「いや、まだ」
足下に視線を落とした正輝は、答えずらそうに言葉を濁した。
「仲直りしたくはありませんか? 」
秦は、見透かしたように正輝の耳元で囁いた。
「もういいでしょう!! 仲直り出来るならとっくに…… くっあいつらが悪いのにッ!! 」
正輝は、右足を地団駄を踏むようにして床に叩きつけると、自分の心の中に干渉をしようとする秦を拒絶した。
「もし簡単に仲直り出来るとするのならば、正輝クンはどうしますか? 」
秦は、臆する事なく言葉を続ける。
その声は、優しさを含んだように甘く、そして冷たかった。
「そんな、簡単になんて…… 」
マオ達と仲直りする事は最早、手遅れだと思っていた正輝は、秦の話に後ろ髪を引かれながらも、彼の言葉を断ち切ろうとした。
「簡単に出来るとするのならば? 」
しかし秦は、正輝が次に何を言うのかを分かっているかのように口を動かした。
「…… 仲直り、したい。そんなの、したいに決まってんじゃないっすか!! 」
正輝は、もしまたマオと遥と一緒の時間、あの楽しい時間が戻ってくるのならと、秦の甘い誘惑を受け入れた。
「では、待っていて下さい」
そう正輝の耳元で話した秦は、店の出入り口へと向かって行った。
「少し早いですが、今日の営業はおしまいです。では、付いて来て下さい」
店の外に出た秦は、扉に掛かっている札をopenからclosedに裏返すと、再びカウンターの中へと戻って来た。
そして、正輝を引き連れカウンターから繋がっている厨房を通り抜けると、その先にあるニスが塗られ艶やかな輝きを放つ木目調の扉をゆっくりと開けた。
「階段? 地下なんてあったんすか」
正輝は、扉の向こうを見た瞬間、少し驚いたようにその中を覗き込んだ。
開かれた扉の向こう側に広がっていたのは、部屋ではなく地下の暗黒へと続く古い階段だった。
「暗いので、気をつけて下さい」
中で蝋燭の火が揺れるランタンを右手に持った秦は、正輝を連れ階段を下り、地下の廊下を前方に4mほど進むと、再び2人の目の前に扉が立ちはだかった。
「なんか、ボロいっすね」
築50年は経っているであろう『like truth』の中でも一際、年季の入った扉を前にした正輝は、その物々しい雰囲気から生唾を飲んだ。
「あはは、たしかにそうですね。では、開けますよ」
秦は、正輝の素直な感想に微笑すると、その古い扉を徐に押し開けた。
不気味な動物の唸り声と共に、真っ暗な空間に浮かび上がる、ルビーのように赤色に輝く6個の目が正輝の視界に入った。
「うわぁぁぁ!!! 」
正輝は、その非現実的で奇怪な光景に驚き、その場で尻餅をついた。
「大丈夫ですか? 」
秦は、心配したように正輝に左手を差し伸べる。
「どうもっす。シンさん、これは一体? 」
正輝は、秦の手を掴み立ち上がり、部屋の中を今一度確認すると、率直な疑問を投げかける。
「見るのは初めてですか? 」
秦は、普段の様子から想像がつかない程、冷たい声で話した。
2人の視線の先には全長1.9m の大きさで、背景と同化してしまいそうな程、黒い毛並みが特徴的な3体の狼が牙を剥き出しにして佇んでいた。
「これってまさか、夢獣? 」
目の前の狼が呼吸をしていない点、獣が出す独特な匂いが全くしない点、それらの点に疑問を抱き、1つの結論に達した正輝は、恐る恐る秦に確認をした。
「ええ、そうですよ。あなた方が言うところの、ランクCの夢獣です」
左手中指でかけていたメガネの位置を正した秦は、冷たさしか感じられない声で断言した。
「これ、犯罪じゃ」
正輝は、蒼ざめた顔で左隣に立つ秦と、狼を交互に見回す。
「実は夢獣は誤解されているんです。本当は人を襲ったりしない、いい子達なんですよ」
秦は、まるで飼い犬をあやすかのように狼の頭部や顎を撫でた。
撫でられた狼も彼に懐いているのか、甘えるような声を出していた。
「ほら、正輝クンも触って下さい。可愛いですよ」
秦は、今自分が触れている狼を正輝の前に連れ出した。
「あっ本当だ。温かいんすね」
秦に言われるがままに狼に触れた正輝は、生き物らしい仕草をする体温を持ったそれに、警戒レベルが次第に下がっていく。
「この子達を正輝クンに貸してあげましょう」
秦は、十分に正輝の警戒が解けたところを見計らい、1個の提案をした。
「えっ? 」
正輝は、秦の突拍子の無い提案に対し、咄嗟に聞き返してしまう。
「先程の仲直りの件です。この子達を使って転入生の2人を少し驚かすのです」
秦は、戸惑う正輝に向かい言葉を羅列していく。
「それって…… 」
正輝は、あと半歩後退すれば崖の下に落ちてしまう自分を、なんとか踏みとどまらせようとしていた。
「相手は正輝君と同い年であるにもかかわらず司書なのです。普通の学生ではありません。普通でない相手にはこちらも、普通ではない対処が必要です。安全面も問題ありません、正輝クンには、危害を加えなければ襲ったりしませんので」
秦は、再び正輝の耳元に顔を近づけ氷のような声で話した。
「大切な友達を取り返したくありませんか? 好きな人を奪い返したくはありませんか? 正輝クンの話を聞いていて分かりました。あなたは、遥さんが好きなんですよね? 」
秦は、一流の狙撃手のように狙いすましたタイミングで、切り札として残しておいた最も効果的な言葉を切った。
「…… そう…… です」
遥の笑顔が頭の中ではっきりと映し出された正輝は、とうとう頷いてしまった。
その瞬間、正輝は足下から崖の下、奈落の底へと崩れ落ちた。
「もう一度言います。あなたは特別な人間ですから、私もここまで力を貸すのですよ。正輝クンは特別なのです」
秦は、トドメを刺すかのようにそう呟くと正輝の前へと移動した。
「そうだ…… そうだ、あの2人がいけない…… あいつらが来てから俺達の時間は………… コワレタ」
しばらく俯いていた、正輝の目から完全に光が消えた。
「校舎、南館最上階の第3研究準備室。そこに、この子達を運んでおきます。明日は幸いにも司書課の教員はいません。絶好のチャンスですよ」
そう話した秦は、ズボンのポケットから銀色の鍵を取り出し、正輝に差し出した。
「教師の目が甘い、お昼休みですよ」
秦は、正輝がゆっくりと鍵に向かい右手を伸ばしたところで再度口を開く。
「はい…… ワカリマシタ」
表情をなくした正輝は、秦の手の平に乗る鍵を受け取った。