居心地の良い空間
「まさき」
マオがクラスメイト達と失った時間を取り戻すかのように和解していく中、教室をひっそりと後にした正輝が閉めたドアを遥は、寂しそうに見ていた。
「…… 遥? 」
遥は、明るい雰囲気に包まれる教室の中で1人、俯いていた。
そんな遥を心配し、彼女の右隣まで移動して来たユウキが、そっと声を掛ける。
「うっんん、大丈夫だよ!! マオくんよかったね。マオくんが教室であんな笑顔をするところ、はじめて見たよ」
遥は、今まで背を向けていた教室の中心部の方へ振り返ると、楽しそうにクラスメイト達と話すマオを遠目に見て優しく笑った。
「…… うん」
いつか遥が悩みを話してくれる、そう思ったユウキは、彼女の視線の先を追い小さく頷いた。
「…… 」
(正輝、一体どうしたの? マオくんがこんなに楽しそうにしているのに。本当なら、正輝も隣で笑っていたはずなのに…… )
遥は、マオの空いた左隣を見ると胸が締め付けられる程の痛みを覚えた。
学校敷地外へ飛び出した正輝は、A4サイズの紙を右手に持ち、とある場所へ向かっていた。
「たしか、ここのはず」
紙に手書きで描かれた地図を、震える手で握り締めた正輝が、探している場所は『like truth』先日、偶然見つけた喫茶店である。
「あった!! 」
駅の裏路地を10分程、彷徨った正輝は、砂漠でオアシスを見つけた探検家のように安堵した様子で口を開く。
正輝は、あの居心地の良さが忘れられず、自分の居場所を求めるように、店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ、おや?」
あの時の金髪でメガネをかけたマスターが、カウンター越しに振り返る。
マスターは、あの時と全く同じ笑みで正輝を迎えた。
「また、来ました」
正輝は、店内に入った瞬間、先程までの心の荒れが嘘のように収まり、薄っすらと笑いながら口を開ける。
「ありがとうございます。ずっと、お待ちしておりましたよ」
マスターは、自分から見て真正面のカウンター席に、ゆっくりと右手を差し伸ばす。
「どうもっす」
マスターの言葉に特別感を感じた正輝は、言われるがまま椅子に腰を下ろした。
「お冷やと、メニューです。冷たいのでお気を付け下さい」
マスターは、一切物音を立てずコップを置き、正輝にメニュー表を手渡した。
「アメリカンコーヒーをホットで」
メニュー表を受け取った正輝は、それを開く事はせず注文を口にする。
「かしこまりました」
暖かい口調で答えたマスターは、小さく頭を下げるとカウンターの奥へ向かった。
「お待たせ致しました」
マスターは、流れるような手際でコーヒーを抽出し、ソーサーに置かれたカップを正輝の目の前に置いた。
「おおぉ」
コーヒーカップから立ち昇る至高の香りに誘われた正輝は、カップのハンドルに指を掛けた。
「やっぱり、うまい」
正輝は、黒い液体を口に流し込んだ瞬間、目を丸くして感想を述べる。
「ありがとうございます」
マスターは、ニッコリ笑うとカウンターの奥に戻り、ミルを回してコーヒー豆を砕きはじめた。
誰も何も話さない閑散とした空間で、コーヒーカップを見詰めていた正輝は、遥とマオの事を考える。
「………… 」
正輝の表情は、だんだんと暗く厳しいモノに変わっていった。
「何かお悩みですか? 」
正輝から見て斜め左手前方向で、ティーカップを白い布で拭いていたマスターが、徐に口を開いた。
「なんでも、ないっす」
マスターの声で我に戻った正輝は、彼の言葉を一蹴してしまう。
「そうですか…… 前回もそうでしたが、本日も随分と時間が経っていましたので」
マスターは、ティーカップを丁寧に置き、胸ポケットから金色の懐中時計を取り出し、現在時刻を確認する。
「えっ!? ほんとだ、もう40分も経ってる。コーヒー1杯でこんな、すんません」
マスターの懐中時計を見た正輝は、慌てて席を立とうとした。
「いえいえ。そのような意味ではないですよ。あまりにも深刻そうな顔で長考していらしたので、何か差し迫った事があるかと、勝手に心配してしまっただけです」
正輝の態度に、マスターは両手を左右に忙しなく振り、彼を再び席に座らせる。
「そうなんすか。でも、ここは人が少なくて落ち着ける雰囲気で、居心地がいいっすね」
いつも冷静沈着といった様子で振舞っているマスターが、取り乱した姿をはじめて見た正輝は、思わず笑ってしまい本音を話した。
「今、私の店にお客様が入らないと言われた気がしますが」
正輝の言葉を聞いて微笑したマスターは、右手中指でゆっくりとメガネの位置を正す。
「あああっ! そんなつもりじゃ、この空間がすごくいいって事を」
今度は正輝が取り乱し、しどろもどろになってしまう。
「ふふふ、冗談ですよ。ですが、明るい表情になっていただけたようで安心しました」
マスターは、右手で口元をそっと抑えると上品に笑った。
「あっ」
ふと正輝は、先程まで心にあったコーヒーのように黒い感情が、少し和らいでいた事に気付く。
「なんか、ありがとうございます。って、ここが私の店!? 」
照れ臭そうに答えた正輝は、目の前にいる自分と年のあまり変わらない青年が、立派な喫茶店を構えている事に驚きを感じた。
「そういえば、名乗っていませんでしたね。喫茶店『like truth』の店主、岱亰 秦と申します」
秦は、自慢げに胸を張って自己紹介をした。
「若いのに、本当すごいっすね」
インテリアのセンス、バリスタとしての腕前に感動していた正輝は、素直に秦を絶賛した。
「いえいえ、大した事はありませんよ。お店もご覧の有様ですし」
秦は、苦笑いを浮かべながら、正輝以外に誰1人客のいない店内に目を向ける。
「すっすいません」
正輝は、先程の失言を思い出し勢いよく頭を下げた。
「いえいえ、本当の事ですから」
右目を閉じた秦は、少し意地悪そうに口角を上げた。
「さっきの話しなんですが、聞いてもらってもいいっすか? 」
正輝は、バツの悪そうな顔で先程、秦に聞かれ突き返した話題を口にする。
「ええ、私でよろしければ」
正輝が見せた深刻そうな表情から、事態を重く受け止めた秦は、真剣な表情で彼の目を見る。
「ありがとうございます」
そして、正輝は語り出した。
他人には絶対に話したくない、自分の心の内を秦という男がもつ、和やかで柔らかい独特な雰囲気が、不思議な程に正輝の口を軽くした。
一度、開かれた口は、まるで塞きを破壊されたダムのように止めど無く言葉を発し、昨年から続いていたマオへのいじめの事、そのマオの唯一の友人であったのが自分と遥だった事、転入生がマオと遥と自分の3人の時間をめちゃくちゃにしている事、学年が変わりマオが見せた司書の才能の片鱗、その事でマオを取り巻く環境が変わってしまった事、マオがその才能の事を自分に全く話してくれなかった事、今までイジメられていた人間をあっさり許してしまい、今まで友人でいた自分と同じように接している事への憤りを正輝は秦へと話した。
「…………」
秦は、相槌を打ち、しっかりと正輝の顔を見ていた。
正輝が自分が特別に扱われていると思う程、秦は献身的に話を聞いていた。
「すいません、こんな時間まで」
心に溜まっていたモノを吐き出した正輝は、スッキリした顔で話した。
そして、店内の置き時計が20時を回っていた事を確認すると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「大丈夫ですよ。こちらも貴重な話を聞かせていただきました」
そう言った秦は、カウンターの奥へと消えていった。
「余り物ですがどうぞ。もちろん、御代はいりません」
秦は、正輝の前にサンドウィッチとミネストローネを置いた。
「ええっそんな」
話を聞いてもらった上、手厚い厚意を向けられた正輝は、恐縮してしまう。
「いえいえ。私が引き止めてしまいましたし、今は夕食時でここは喫茶店です。お客様を空腹で帰すわけにも行きませんし、正輝クンは特別ですから」
正輝の心に負担を掛けない言葉を選んだ秦は、満面の笑みを浮かべた。
「本当に、ありがとうございます」
特別に扱ってもらえる、自分の事を見てくれる。
ただ、それだけが嬉しくてたまらない正輝は、サンドウィッチとミネストローネに手を伸ばす。
「ご馳走さまでした」
食事を終えた正輝は、秦に頭を下げると、椅子から立ち上がった。
「お粗末様でした」
秦は、カウンターの上に置かれた空になった皿を見て嬉しそうに微笑んだ。
「また来ます! おやすみなさい!」
扉の前で一礼した正輝は、ここへ来た時とは違い、元気な足取りで店を出た。
「はい、おやすみなさい」
秦は、カウンター越しに右手を小さく振った。